さまよえる大学生
私はさまよえる大学生。
逃れ逃れてどこへ行く。いつか約束の地に立つと、共に旅をし誓い合った仲間ももういない。
単位の海に飲まれ、就活の闇に消え、卒業の幻影に露と消え。みな私を置いて行ってしまった。
それでも私は、いまださすらう大学生。在りし日。まだ現実を迎合し受け入れていた四年次生の年から一年過ぎ。二年過ぎ。三年過ぎた今に置いても、現実から逃れ続けるよう定められた運命なのだ。
○
レポート提出のみでよい。試験はなし。出席もとらない。
普段は酷く閑散としている講義にも、今日は妙に出席者が多い。それもそのはず。今日はその単位へつながる唯一の道、レポートの提出日なのだ。我こそは留年を避けようと、数多の大学生が一夜にして作り上げたレポートを振り乱し、講義室は騒乱の有様であった。
私は教室の最後列で、一夜にして作ることすらできなかったレポートを片手に佇んでいた。周囲には、似たような留年生が数人いる。最後列が指定席たる留年生たちは、一様に諦めの表情を浮かべ、レポート提出に集う学生たちの後ろ姿を眺めていた。
彼らもまた、さまよえる大学生。我が同胞よ。
見果てぬ夢に約束の地を映すもの。そこは単位もなく、卒研もなく、就活もなく、親の目もなく、永遠に学ぶことなく学生で居られるという、我らが留年生悲願の地であった。
果たしてその場所が存在するのか。あるいは儚い夢なのか。それは誰にもわからない。
だが、大学生の誰もが信じていた。
そんな永遠の理想郷を――――。
最後列。レポートを提出できた大学生の雄叫びが、ここでは遠くに聞こえてくる。留年回数を重ねれば重ねるほど、人は余計な口数を減らし、必要な口数も減らすもの。喧騒の絶えない講義室にあって、ここは奇妙に落ち着いていた。
だからこそ、違和感に気づいた。
私の斜め前に座る大学生――ぼさぼさの髪、無精ひげ、一人暮らしのアパートで、畳とともに腐りそうな熟成しきった容貌の男が、必死の形相で筆を動かしていたのだ。彼は見るからに留年生。それも、一年や二年では済まない。悟りを開いていても納得のできるような男が、なぜそれほどまでに生き急ぐのか。
学費か。家族か。弟や妹が先に卒業をしてしまうのか。彼を追い立てているであろう現実を想像し、私はふと怒りを覚えた。大学生に安寧は訪れないのか。神はなぜ、我らにこれほどの苦難をあたえたもう。
私はほとんど感情的に立ち上がった。片手にレポートを握りしめたまま、形だけでもと出していた筆箱とノートを鞄に放り込む。
そして鞄を肩から下げ、斜め前の男にこう言った。
「もし。このレポートを使うといいですよ」
私は書きかけのレポートを男に差し出した。それほど単位が欲しいのであれば、この一夜限りの汗と涙で絞り出したレポートで、単位を取ってみるがよい。遠慮などはいらない。昨夜はつい血迷ってレポート作成に血道を上げたが、私には本来、単位など不要なものだったのだ。
それから荒れ狂う単位の大海に溺れる大学生たちを一瞥し、私は講義室を去った。
こんな苦痛だけの世界にはいられない。老練した留年生までもが誇りを捨て、単位に縋りつかなければならないなど。
――こんな世界は間違っている。
だから私はさすらう。
いつか大学生が大学生らしく生きられる。きっとどこかにあるはずの理想郷を目指し――――。
○
私はさまよえる大学生。
卒業研究のテーマはなんだと問われても、研究室に配属されなかったのだから答えようがない。
食費がなくなり実家へ逃れてみたものの、ここもまた理想の地ではなかったようだ。食卓に並ぶしめ鯖の刺身のように、母は私の繊細な心を締め上げようとしていた。
同じ日、同じ食卓に並ぶ一つ下の妹は、ひやりと冷気漂う瞳で私を見る。昨年度卒業、就職を果たした身。現実を甘受したお前には、流浪を定められた大学生の気持ちはわかるまい。
無言でうつむきつつ、絞めた鯖を口に放りこむ。ああ鯖よ、今の私の気持ちをわかってくれるのはお前だけだ。世知辛い世の中。いけすで飼われて食われるさだめにある鯖よ。お前もきっと、海中で精神的に絞められたことだろう。立派な鯖というものは。光物としてその色味はどうかと思う。このいけす社会に生きていくなら、魚類大学くらい卒業しておけ。お隣の鰯のお子さんは、鰯ながらも寿司に就職したんだぞ。等々。
まるで鯖が人とは思えず、噛みしめるたびに涙がにじむ。
鯖すら生きづらい世になった。就職するのがそれほど大事か。いつまでも学生の身分で居て、いったいなにがいけないという。就職して、食卓に上り大学生に食べられる。そんな鯖社会があってよいものか。
果たしてこれが現実でよいものか。現実から逃れて鯖社会を妄想するにあたり、なおも立ちふさがる冷たい現実。現実! 現実!!
私はおもむろに立ち上がり、しめ鯖の乗った皿を掴んだ。「なにをするっ」という妹の声を背に聞きながら、私は鯖を連れて部屋を出た。
ここに私の居場所はない。
だが、いつかきっと見つかるはずだ。大学生と鯖が幸福に暮らせる、真の理想郷が――――。
○
私はさまよえる大学生。
約束の地を目指すはずが、まかり間違って就職を目指す。
真っ黒なスーツに身を包み、没個性なリクルート一団に身をひそめ、卒業単位が危ぶまれる中なにゆえ就活をしなければならないのか。疑惑を抱きはするものの、近頃つぶさに感じる親からの視線に、繊細な大学生の心は耐えられるはずもない。
アリバイ作りに小さな会社の説明会に訪れたものの、募集人員二名に対し就活生五十名。どう考えても計算の合わない実情に、私はまたしても現実の訪れを感じた。
場所は小さな会議室。所狭しと詰め込まれた大学生が、御社のために必死のメモを取り続ける。以上に張りつめた緊迫感の中、会社説明を終えた時が、勝負の始まりだった。
我先にと伸ばされる手。溌剌とした彼らの口からあふれ出る、意識の高い質問群。御社の理念はうんぬん。私は留学経験がありますが、海外進出を視野にはうんぬん。先ほど海外がとおっしゃっている方もいましたが、私はそうは思いませんぬん。それより私はバイオリンが得意ですん。
御社にそれほど興味のない人間にとって、交わされる言葉はまるで異次元のやりとりであった。現実から逃れ逃れ、耐性のない私はただ震えることしかできない。私の震えが伝わり振動するはパイプ椅子――いや、バイブ椅子だと考えながら、己を誤魔化すことで恐るべき強大な現実をやり過ごすのだ。
そんな恐怖の真髄を極めし質問時間の終わりごろ、私は天に向けて伸びる一本の腕を見た。意識の高い学生たちの中においても一際高く掲げられたその手に、社員の目は惹きつけられた。
「そこの、最前列に座る君、どうぞ」
社員に指名され、手の主は質問をするために立ち上がる。その姿に、私は思わず「アッ」と声を上げた。
つやめく若年の就活生の中にあり、違和感を醸すその容貌。真新しいリクルートスーツに身を包み、その本質を覆い隠してはいるものの、私の目はごまかしようがない。
あれはかつての私の同胞――――ともに単位の荒波を避け、現実という現実に唾を吐きかけていた歴戦の雄であった。
彼こそは、留年すべくしてした男。生まれながらの留年生。その口から出る言葉は、地に足つかぬ理想の未来と、単位に対する恨みとつらみ。卒業していった後輩たちへの妬みと嫉み。そして全世界の彼女のいる男に対する呪詛ばかり。まさに留年生の心の支え。彼がいればこそ、我らもまだまだ留年できる。さすらいのエリート留年生とは、彼のことであった。
そんな彼の姿を目にしなくなったのは、昨年度の終わり。休学明けの彼が、最終学年九年目へと突入する頃だった。彼ほどの人物であっても、現実に飲まれてしまったのだ。そんなことを、残った同胞と囁き合ったことを覚えている。
――――そんな彼が、まさかこんな場所にいるなんて。
私はいつになくはきはきと話す彼の後姿を眺めながら、ただただ茫然としていた。熱のこもる彼の質問に、社員はおののき学生たちは若干引いている。長年現実を避けに避けてきた彼の口からほとばしる質問は、やはり地に足つかずに空中を漂っている!
それでも彼は語ることを止めない。かつては持ちえなかった異常なまでの現実への情熱が、彼の体からあふれ出ていた。
だが、私はわかってしまった。彼はこの会社には受からない。説明会の端に立つ社員の一人が、手元の資料になにやら書き込んでいるのを見てしまったのだ。
彼は戦士だった。現実という巨大な敵に立ち向かう、恐れ知らずの戦士であった。しかし彼のそれは蛮勇でしかない。風車に挑むドン・キホーテのような愚かな勇気であった。
説明会半ば、私は一人立ち上がった。荷物をまとめてまっすぐ出口を目指す私に、会場中の視線が集まる。もはや先ほどの中空に浮いた質問も忘れた様子で、誰も彼もが私に心奪われていた。
しかし、私は振り返らずに去る。
これほど厳しい現実ならば。これほど世知辛い世の中ならば。蛮勇すらも持たない私はただ逃げる他にない。
ここにも私の居場所はない。それでも私は探し続ける。
いつかきっと辿り着いてみせる。現実とは縁遠い、大学生のための真の理想郷に――――。
○
私はさまよえる大学生。
逃れ逃れてどこまでも。この世のどこもかしこも現実が迫ると言うのであれば、私はどこまでも逃げ続けよう。たとえ世界を越えたとしても。
――――そして、五千年の歳月が過ぎた。
銀河世紀二三五年! 世界は危機に瀕していた!
イス星人からの侵略を受け、地球上の人類はすべての知識と教養を奪われてしまったのだ。以降、地球人は家畜として扱われ、知識を得ることを禁じられた。学校はもちろんのこと、書物のたぐい、親から子への躾さえ、イス星人の監視下に置かれた。
人々は考えることを忘れ、家畜の安寧に甘んじる。ただ要求されたことを繰り返し、イス星人のために自ら望んで死に挑む。地球は退廃し、イス星人の住むおぞましく巨大な建造物だけが伸びる世界に変わってしまった。
だが、すべての人々が落ちぶれてしまったわけではない。
大学生だ。
この世界において、大学生を名乗る一団だけが、イス星人への抵抗活動を行っていたのだ!
「ついに決起の時が来た」
レジスタンスのリーダー“ガリベン”が、仲間たちに囁く。
ここはかつての大学地下講堂。旧時代の遺跡の中に、レジスタンスの巣はあった。すでに電気の供給が途絶えて久しい地下には、あちこちにろうそくの火がともる。ろうそくの火が照らし出すのは、大学生たちが秘密裏に集めた学術書のたぐいであった。
「この機を逃せば、俺たち人間に未来はない。こんどこそすべての知識を奪われて、俺たちが人間であったことすら忘れてしまうのだ」
「そんなことはさせねえぜ、リーダー! 俺たちの頭は、考えるためにあるんだ! なあみんな、そうだろ!」
強い口調で言ったのは、気性の荒い男“メロス”である。日々おおむね激怒してはいるが、政治にはとんと疎かった。
「そうだ。今度ばかりは君に賛同しよう。僕たちは家畜ではない。己の意思でもって考え、行動する。そのための知識を取り戻し、再びここの地に大学を打ち立てるんだ」
部屋の隅で本を開きながら言うのは“ブンガク”だ。メロスと仲が悪いのが不思議でならない。
「なんだか怖いわ……」
彼らの熱量とは裏腹に、“タンダイ”は小声で呟いた。思わず隣に立つ、最近入ってきたばかりの同胞を見上げる。
「あなたは落ち着いているのね。“リュウネン”。うらやましいわ。どうして平気でいられるのかしら」
リュウネンはその言葉に、タンダイを一瞥する。そして、独り言のようにぽつりと答えた。
「……年季が違うからね」
その様子を、ガリベンは注意深く眺めていた。
リュウネン――おかしな女だ。ある日突然やって来て、大学を打ち立てるレジスタンスに参加させてくれと言ってきた。今は亡き大学の仕組みについて異常に詳しく、長年大学を調べ続けたはずの自分達すら知らない知識を持つ彼女を、ガリベンは一方では信頼し、もう一方では恐れていた。
彼女の自称する、“リュウネン”というコードネームも、ガリベン達には聞き覚えのないものだった。いったいどんな意味を持つ言葉なのか。理由を聞こうとしても、彼女はかたくなに答えることを拒んだ。それがますます、ガリベンの疑惑を強くする。
無論、彼女のおかげでレジスタンスがここまで来ることができたのも事実。リュウネンの持つ知識がなければ、ガリベン達はこの地下講堂を見つけることも、そこに収められた書物を読み解くこともできなかったはずだ。
同胞たちは、彼女を全面的に信用している。確かに、彼女の大学再建への情熱は強かった。学生でありたいと望む彼女は、我々大学生にとっての理想ともいえる。
だが――――。
彼女の思想には、危ういところがあるような気がしてならない。それがどこなのかは、ガリベンにはわからなかった。ただ、大学を打ち立て、学びを取り戻すという理想と、彼女の抱く理想が、どこか乖離しているように思えてならないのだ。
――まさか、イス星人の送り込んだスパイではないだろうな。
大学を建てさせることを敢えて許し、一方で、そこでの学びをイス星人の都合の良いものに変えていく。我々に望んで学習していると思わせておいて、その実情は家畜教育である――。
考えすぎか、とガリベンは首を振った。彼女は口数が少なく、臆病なところはあるものの、基本的には善良な人間である。
――それよりも、今は今夜に迫った決起の方が大切だ。
仕掛けるのは今夜。長い沈黙を保ってきた大学生たちが、ついに立ち上がるのだ。
銃を持ち、レーザーを構え、あの憎きイス星人を滅ぼす。まるで伝説に聞く、“ガクセイトウソウ”のようではないか。かつてこの地に存在した大学生と同じことをしているのだ。そう考えると、ガリベンは体に熱が満ちていくのを感じた。
夜の空に悲鳴が上がる。
同胞の声だ。ガリベンは傷ついた体を引きずりながら、そう確信した。
先発はやられた。部隊は分断され、イス星人の餌食となっているだろう。やつらの名状しがたい無機質な体に、銃は通らない。レーザーでなんとか手足を捥いで、ようやく倒せるという程度だ。しかしそうして一匹倒すためだけに、何人も犠牲になった。
よろけながら進むと、倒れた誰かの体に躓く。見ればメロスであった。彼は穏やかに眠っているらしい。そのまま彼の体に視線を下げると、下半身がなくなっていた。イス星人のレーザーで焼かれたのだろうか。焦げ付いたような臭いがした。
隣にうずくまっているのはブンガクだ。驚いたことに、ブンガクは泣いていた。普段、あれほど反目しあっていたというのに――。
ガリベンは少しの間呆けたまま二人を見つめ、それからまた歩き出した。立ち止まるわけにはいかなかった。
レジスタンスのリーダーとして。大学を目指すものとして――――たとえ、勝ち目がないと知っていても。
大学の正門前で、ガリベンはタンダイを見つけた。彼女の前にはイス星人が立っている。人の何倍もある巨大な三角錐の体。足の下から伸びる触手。間違いない。だが、イス星人の巨大なハサミ状の手は、ピクリとも動かない。奇妙だった。
タンダイは放心したように、正門の塀に背を当て、座り込んでいた。瞬きをしていることから、まだ生きているらしい。ガリベンは必死に駆けより、タンダイに声をかけた。
「タンダイ! どうした! 早く逃げろ!」
しかしタンダイは動かない。ガリベンは彼女の肩に手をかけ、強く揺さぶった。
「逃げろ! イス星人がいるんだぞ!」
何度か揺さぶるうちに、タンダイの目の焦点が合ってくる。彼女はガリベンを見つめ、それから己の正面に立つイス星人を見やった。
そして、小さく口を開く。
「……死んでいるのよ」
「なんだって?」
「そのイス星人……リュウネンがやったの」
ガリベンは思わず言葉を失った。あわててイス星人に振り返る。どう見ても死んでいるようには見えなかった。外傷がどこにもない。レーザーを当てれば、どこかしらが焼け焦げ、ちぎれているはずなのに。
「リュウネンは……どこに行った!?」
「学生会館の中……。大学を取り戻すんだって言って、一人で……」
学生会館――大学の中心に据えられた、イス星人たちの本拠地だ。そんなところへ、たった一人で? ガリベンには到底信じられなかった。
ガリベンはタンダイを立ち上がらせ、身を隠すように言い聞かせた。それから、自身は意を決し、大学構内へ足を踏み入れる。ここから先はイス星人の地。本能的な恐怖に、足が震えた。
だが、行かねばならない。見届けなければならない。レジスタンスとして――いや、一人の大学生として。
ガリベンが駆けつけた時には、すべてが終わっていた。
学生会館の中で、生きているのはリュウネンただひとり。他のイス星人は、すべて立ったまま死んでいた。勝者であるはずのリュウネンは、まるで浮足立ったように呆然としていた。
「リュウ……ネン……大丈夫か?」
ガリベンが声をかける。リュウネンは、そこではじめて彼の存在に気づいたらしい。疲れたような目で、わずかに微笑んでみせた。
「ガリベン」
「どうした。地に足つかないような様子で……」
「それはいつものことだから」
ガリベンには、リュウネンの言ったことがよくわからなかった。
「お前ひとりでやったのか……。こんなことができるなんて……お前はいったい何者なんだ?」
「……大学生だよ。ただの」
「ただの……大学生が、こんなことできるものか。お前は恐ろしくなかったのか? 俺は、お前が怖い……」
小さなガリベンの囁きに、リュウネンは少し困ったように眉を寄せた。それから、リュウネンは顔を上げる。彼女の瞳はどこを見ているのだろうか。まるで視線が捕えられない。
「私が怖いのは、現実だけだよ。そして現実に付随する、単位と就活と卒業という単語と親の目が怖い」
「リュウネン……俺にはお前の言うことがよくわからない」
「大学生になれば、きっとわかる。現実から目を逸らし、逃避することを運命づけられた留年生なら、必ず」
リュウネンの言葉を、ガリベンはついぞ理解できなかった。彼は会話を打ち切り、外に出ようと彼女を促す。
「俺たちの勝利だ。再びここに大学が立つ。俺たちは、教育の場を取り戻すんだ」
彼女の手を引きながら、ガリベンは言った。功労者はリュウネンだ。たとえ彼女が何者であっても、この大学の最初の学生になるべきは彼女である。ガリベンはそう確信していた。
「新しい大学で、俺たちは様々なものを勉強するんだ。学びたい人間をすべてここに集める。ここは勉学の聖地になる」
「……べん、がく?」
ガリベンは、不意に後ろに手が引かれるのを感じた。振り向いてみて、その理由を知る。今まさに学生会館から出ようというところで、リュウネンが足を止めていたのだ。
「ガリベンは勉強がしたいの? 勉強をするために大学を作りたいの?」
「あ、ああ……」
ガリベンは戸惑った。大学というものに、他に求めることはなかった。考えたこともなかった。
「大学生になって、みんな勉強するの? 勉強しない学生は、この大学では学生でいられないの……?」
「リュウネン……それは、当たり前じゃないのか?」
「そう……」
ふと、自分の手から熱が抜けた。リュウネンの手が離れたのだ。ガリベンは驚き、もう一度掴もうと手を伸ばした。
――掴まないといけないと思った。そうでなければ、二度と彼女に会えない気がしたのだ。
だが、ガリベンの手は宙を掻く。顔を上げれば目の前にリュウネンがいるのに、なぜかその手が掴めない。
「…………ここにも私の居場所はなかった」
「リュウネン……?」
「私、行かないと」
リュウネンは顎を持ち上げ、どこか遠い場所を眺めていた。その視線の先を、ガリベンが見ることは叶わない。これから先も、ずっと。
「リュウネン。行くって……どこへ?」
「すべての学生が救われる場所」
リュウネンの声は乾いていて、そして不思議と穏やかだった。
「単位もなく、卒研もなく、就活もない。すべての大学生が永遠に学生でいられる――――約束の地へ」
ガリベンは瞬いた。すべての学生が救われる場所。その言葉に、ガリベンはひどく胸を突かれた。
……いつだったか、ガリベンはリュウネンの理想と自分達の理想が、かけ離れていると感じたことがあった。その理由を、ガリベンは今、わかったような気がした。
――リュウネンの理想は、俺たちのはるか上にあったんだ。
ガリベン達は、ただ大学を建てることしか考えていなかった。それさえあれば幸せになれると信じていた。
だが、リュウネンはその先、これから集うであろう学生のことまで考えていたのだ。ガリベンでは到底考えつかなかったような、深い深いところまで。
打ちのめされたように、ガリベンは立ち尽くした。もはや、手を伸ばすことはできない。彼女を引き止める力が自身にはないのだと、理解してしまったのだ。
「さよなら」
リュウネンは言った。近くにいるのにその姿が遠い。彼女の姿を確かめようと、ガリベンは目をこすった。
しかし、ガリベンが彼女の姿を再び見ることはなかった。
――幻を見ていたのだろうか。
学生会館いるのは、ガリベンただ一人のみだった。今は動かぬイス星人の他に、誰もいない。
――まるで、リュウネンなどはじめから存在しなかったかのように。
争いの終わり。耳が痛むほどの静けさが暗闇の会館に染み渡る。静かな夜の端に、薄くにじんだ朝焼けが見えた。新たな大学の黎明だ。まるで大学生たちを祝すかのような。
生まれ変わる朝を見つめながら、ガリベンは、リュウネンの熱の残る手のひらを、固く握りしめた。
○
私はさまよえる大学生。
現実から逃れてどこまでも行く。
ここにも私の居場所はない。
だけどきっとあるはずだ。すべての大学生が単位から解放され、永遠に学生でいられるという約束の地が――。
○
こうして私は今年も留年した。