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ヘイリルガーデン


 ヘイリルガーデンという都市は、そのおよそ半数が学生と研究者で成り立っている。それゆえ、他の事を生業としている人間は少なく、また重宝されている。


 グラスゴ商会の支店も存在し、都市が存続するのに最低限の施設は有るものの、オレザノと違い決して盛んという訳ではない。


 街は行きゆく学生、研究者が静かに歩いているだけだ。


 商品を売るために声をかける売り子もいなければ、建設現場で部下に活を入れる親方も存在しない。 

 そんな静かで、穏やかな都市。それがヘイリルガーデンだ。


 「なんて言うか、そんなに人は多くないな」


 昼時を過ぎたせいか、大通りを歩く人は少ない。


 「この時間帯は皆授業か研究所だからな。オレザノでは学校は強制ではないが、こちらは君くらいの歳の子供には学校に行く義務がある。夕暮れになれば、また騒がしくなるぞ」


 クロトは、オレザノに生まれたことを感謝した。


 街並みは綺麗に整えられ、公園などの設備もある。


 外から見えた高い建物は、須らく学校のようだった。


 「最初は不安だったけど、皆良い人達だよ。クロトの事も協力してもらったり、寝るところを貸してもらったり。いつか、恩返ししなきゃ」


 セイラはだいぶ落ち着いたが、相変わらずクロトの腕を両手で掴んでいる。


 「そりゃあこんな可憐な少女が初めて来た街で、連れを兵士に連れて行かれ路頭に迷っていたら声の一つや二つかかるだろうさ」


 アリシアはセイラの顔を見て、笑いながら言う。


 「か、可憐だなんて、そんなことは……」


 セイラは顔を赤らめて俯いてしまう。


 「二人はオレザノにいた頃からの知り合いなのかい?只の知り合い程度の仲じゃないというのは、見ればすぐわかるけどね」


 寄り添う二人の関係は、どう見ても他人ではない。クロトが弱っていて、支えるという大義名分をもってしても、決してそれだけには見えない。


 「幼馴染なんだ。家が近くてね」


 クロトがそう答える。


 「……ふぅーん、幼馴染、ねぇー」


 アイリスが意味ありげにセイラの瞳を覗き込む。


 セイラはそれから逃げるようにクロトの後ろに隠れた。


 「ま、仲良きことは美しきかなってね。あ、そうだ。クロト、腹減ってるだろう?」


 アイリスはクロトに向き直る。


 「ん……腹が減った、というよりは、腹が痛いかな。でも、空腹感はあるな」


 「そりゃ三日間も水だけじゃあそうなるさ。適当に見繕って行こう。都市が違えば食うものも違う。ここの料理を味あわせてやろうじゃないか」


 アイリスは得意げに胸を張る。


 「アイリスさんが作るんですか?あの、この都市の王なんですよね?」


 セイラが尋ねる。


 王、と聞けば、確かに自分で料理をする印象はない。使用人が全てやってくれるのではないか。二人がそう思うのも仕方がない。


 「王なんて、ただの呼び名さ。それに、ここで重んじられるのは武よりも知だ。ここでは所長と呼ばれることが殆どで、私としてもそちらの方が好きなんだよ」


 彼女は、王である前に、一研究者なのだ。


 クルツ王とは違い、国には興味がなく、研究者として生きる道を選んだのだろう。


 そもそも、王という呼び名は彼女が研究者になる過程で偶然に得た物なのかもしれない。


 女王、という単語がないのも、只の称号のような使い方も許容しているからかもしれない。


 なんにせよ、アイリスの飾り気のない雰囲気に、二人はとても好感が持てた。


 三人は適当に店を周り、摘み食いも適度にしながら、ゆっくりと進む。


 クロトとセイラは見たことのない食材に驚いてばかり。


 特に、料理のできるセイラは興味津々な様子で、食材を眺めていた。


 結局、アイリスの家に着いたのは夕暮れが始まるこ頃。


 アイリスは両手に、セイラとクロトは軽い袋を一つずつもち、三人とも疲労した様子で目的地に到着となった。


 「いやー、疲れた!買いすぎちゃったねぇ」


 アイリスの家は変哲のない二階建て。庭もある、それなりに広そうな家だ。


 「アイリスさん、お邪魔しちゃっていいんですか?」


 話の流れで、クロトは勿論、セイラも暫くここで暮らすことになっていた。


 「大丈夫。私一人暮らしだし、部屋はちょっと整理すれば使えるよ。さあ、入ろう」


 アイリスが玄関の扉のノブを握り、魔力を適量流し込むと、何か音がする。


 「魔法錠か……。凄いな」


 「今は特別さ。普段は鍵も何も掛けてないよ。さ、入った入った」


 錠とは言うが、魔法錠は鍵ではなく、魔法障壁に与する魔法だ。


 対象の外、内に魔法壁を展開し、物理的な作用では決して壊れないようにする。


 効果は魔力の程によるが、それでも蹴ったり殴ったりするだけでは決して壊れることはない。その分魔力、クリスタルの消費が激しく、通常は金庫など重要な小さな箱に、出掛ける時にだけ使用するということが多い。


 アイリスの場合は玄関の扉だけでなく、家屋全体を包むような形で障壁が形成されているため、彼女の力なしでは決して家には入れない。


 欠点としては、魔力が尽きれば彼女も回復するまで入れないということだけだ。


 アイリスの家の中は、二人が予想していた以上に散らかっていた。


 辺りには満遍なく分厚い本が置かれ、脱ぎかけの服や、食器などが後片付けされずに放置されている。


 「どこがちょっと整理すれば、だよ……。座るところもないぞ」


 「うわ……。クロトの部屋より酷い」


 二人は呆れたように、セイラはむしろどうやったらここまで散らかせるのかと感心したような言葉を吐く。


 「何分、研究者だからね……。それに、今は忙しかったんだ。仕方ないだろ?全部すっぽかして助けてやったんだ、これくらいは大目に見てもらいたいね」


 アイリスは威張ったように言う。


 「わかったよ、感謝してる。だけど、こりゃ掃除からだな」


 「やりごたえは、たっぷりだね」


 セイラは気合十分に、腕まくりをする。


 「悪いね、お二人さん。ちなみにあんた達の部屋はもっと酷いけど、本の上で寝るかい?ベッドの上で寝るかい?」


 流石のセイラも、その言葉には笑顔が歪んだ。


 それから三人で、といってもその大半をセイラが片付け、結局アイリスの手料理を振舞われたのは日が完全に落ちて暫く経ったことだった。


 「おぉ、美味いじゃん……!」


 綺麗に片付いた食卓の上に、部屋の惨状を創ったとは思えない料理が並ぶ。


 「嗜み程度には料理は出来るんだよ。掃除も出来るけど、しないだけさ」


 エプロン姿の王が、胸を張る


 「威張っていうことじゃないですけど……」


 セイラも笑いながら、その料理に舌鼓を打つ。


 片付けは終わった訳ではなく、なんとか三人が動けるスペースを確保出来たところで終わった。


 セイラも疲れていたため、妥協点での作業終了。


 その結果、クロトとセイラは同じ部屋で寝ることになった。そのことに対しセイラは異議を申し立てたが、


 「いいじゃん、別に問題ないでしょ?」


 とクロトが承諾するので、申し立ては棄却された。


 明日以降、本格的な掃除がセイラの手により始まる。


 「それはそうと、これからの話だ。特にクロト。あんたはいろんな意味で忙しくなるよ」


 アイリスの目が厳しくなる。


 「あんたの体に埋め込まれた黒いクリスタル。それがなんなのか、まずはっきりさせる必要があるからね。それに、咎落ちの兵士もクロトのように、体にクリスタルを埋め込んだ状態で襲ってきたわけじゃないだろ?」


 二人は頷く。


 帝国軍は、黒い鎧を着ていた。


 「つまり、これは帝国も気づいてない、クリスタルの使い方なんだよ。そして、黒いクリスタルが咎落ちにしか有利に働かない事を省みると、クロトの存在は決して帝国には知られてはいけない。この都市、いや、この世界の最重要機密、と言ってもいい」


 偶然が生んだ、クリスタルの新たな可能性。


 これが帝国に知れれば、帝国は少ない量のクリスタルでの戦闘が可能になる。


 「そして、このクリスタルの存在も放ってはおけない。セイラ、あんたならクリスタルの循環については習っただろ?」


 アイリスがセイラに問う。


 「えっと、魔力によってクリスタルは削れ、その削れたクリスタルは新たなクリスタルに時間をかけて再構築される、というのが有力という事だったはずですけど」


 その通りだ、とアイリスは頷く。


 「では、この黒いクリスタルは?魔力を通さないクリスタルは、どうやって消すことができる?」


 魔法を受け付けないクリスタル。


 それは決して削れることのない、破壊不可能の結晶体。


 「この世の中のクリスタルが常に一定だと考えたら、このクリスタルの存在は非常に不味い。純粋に考えても、私達が使えるクリスタルの総量が減る、という事だからね」


 この世界の発展は、常にクリスタルと共にあった。


 家の灯り、水道、調理に使う火。生活のほぼ全てをクリスタルに依存してきているのだ。だからこそ、水源が乏しくても都市が出来るし、発展も早かった。


 その地盤が、揺らぎ始めているのだ。この、黒いクリスタルによって。


 「帝国の動向も気になるが、私達の当面の目標は、このクリスタルを破壊する手段を見つけること。クロトにはその手助けをしてもらうよ」


 クロトは頷く。


 このクリスタルをどうにかしなければ、帝国とやり合うことは難しい。いつまた別の都市が襲われるとも限らない。


 この黒いクリスタルの謎の解明は、急務であった。


「そうと決まったら、風呂に入って寝な。明日から忙しくなる。風呂はもう沸かしてあるし、着替えも部屋に置いてある。三日牢にぶち込まれてただけあって、埃臭いし、服はボロボロだ。遠慮なく使いな」 


 「悪いな、何から何まで」


 クロトがそう言って立ち上がる。三日ぶりの食事だが、それゆえに余り胃には入らなかったようだ。


 「いいってことさ。この問題の解決法はあんたにかかってるかもしれないんだしね」


 人間に残された解決の糸口。クルツ王から渡された黒いクリスタルと、それを体内に埋め込んだクロト。


 それ以外に、彼らに与えられた手がかりはないのだから。


 クロトが部屋に去ると、アイリスはセイラに向き直る。


 「さて、邪魔者がいなくなったところで、今度はアンタの番だ」


 セイラは先ほどより幾分厳しくなった眼差しに、少し身構える。


 「セイラ、あんたはこれからどうする?ここから学校に通いたいというんなら、私の力で何とか出来ないこともない。が……」


 セイラは即座に首を振る。


 「私は、クロトと一緒にいます」


 セイラもまた、力強い眼差しでアイリスに返す。


 アイリスはため息を一つ。


 「……そういうと思ったよ。なんでそうするのかは聞かない。ただ、セイラ。あんた、それなりの覚悟はあるんだろうね?これからは、きっとクロトの体の事も色々わかってくるだろう。だが、決していいことばかりが解るという事は決してないんだ。むしろ、悪いことのほうがきっと多い」


 セイラは真摯にその言葉を受け止める。


 「もしかしたらクロトは、長く生きられないかもしれない。そんな可能性だってある。クロトはもう諦めてもらうしかない。あいつは当事者だ。私たちも全力は尽くすが、その道を何とか受け入れてもらうしかないし、きっとあいつはその強さも持ってる。でも、セイラはどうだ?どんな悲しい事実が発覚しても、逃げないでいる事ができるかい?」


 セイラは、まだ道を選ぶことができる。


 アイリスは、そう言っている。


 これから先、クロトと一緒にいれば、悲しいことがあるかもしれない。


 だが、自らそれを離れて、この場所で学校に行き、また平和な生活を送ることも、彼女には出来るのだ。


 「一緒にいて迷惑だ、とは言わない。クロトも、セイラの事は心の支えにしてると思う。けど、本当に辛い時にあんたが逃げ出してしまうと、きっとクロトはもう立ち直れない。軽い気持ちで一緒にいるっていうんなら――」


 アイリスの言葉の続きを、セイラが遮る。


 「私ここにたどり着くまで、何度もクロトに助けられたんです」


 アイリスは驚きもせず、セイラの言葉の続きを待つ。


 「クロトは、いつだって私の前にいました。私より先に魔法が使えて、それを役立てる仕事も見つけて。学校に行ったのも、正直に言えばクロトと一緒にいると、なんだか私がちっぽけな存在に思えたからで」


 自分と同じ歳のはずなのに、自分より前にいる人を見続けるのは、辛いことだから。


 「私は、自信がありませんでした。使えるのは基礎の魔法と、回復魔法だけで。攻撃魔法は全然ダメ。そんな私が、クロトの役に立てるはずない、って」


 できるのは精々、クロトが怪我をした時に治してあげることくらい。


 そんな劣等感に近い感情が、セイラにはあった。


 「でも、こんな私でも、クロトを助けることができたんです。オレザノでも、ここに着いてからも」


 下水路でのスライム戦。


 ここでクロトが捕まったとき。


 それは、今までクロトに助けてもらった分の何分の一でしかないけれど。


 「私は逃げてました。自分の力の無さを言い訳にして。でも、もうそれは辞めたんです」


 セイラは、何か悟ったような、静かな笑顔を湛えた。


 まだ、隣には並べない。


 そうじゃない。


 こんな私でも、クロトの隣に並びたい。


 諦めるのではなく、そう願い、そしてその為に、今自分ができる全ての事をする。


 そうして、セイラは知ったのだ。


 自分も、クロトの隣に居ていいのだ、と。


 「それは、学校に行っていたからだろう?だったら、まだ学校で学ぶ価値はあるんじゃないかい?」


 それも其の通り。セイラが学校に通って学んだことは、決して無駄ではなかった。


 しかし、セイラは首を振る。


 「自分の知らないところで、クロトに何かがあって、急に居なくなってしまうのは、もう嫌なんです。それに、ここには本が沢山ありますから。勉強は、自分でもできますし」


 ヘイリルガーデンに着いて、クロトが兵士に連れ去られたとき。


 セイラは何が起こっているのかわからず、どうしていいのかもわからず、ただクロトが連れて行かれ

るのを見ているしかなかった。


 その時の無力感。自分が何もできない悲しさ、自らに対しての怒り。


 もう二度と、あんな思いは沢山だ。


 アイリスはその瞳を覗き込むと、観念したかのように息を一つ付く。


 「ま、そこまで言うなら私としても断ることはできないね。じゃあ、ちょっと来な」


 アイリスはそうして立ち上がる。


 セイラも、それを追うように立ち上がる。


 「現実を知るってことは、時に残酷なものさ。私たちは、それがどんな結果であろうと、真っ先にそれを目にすることになる。セイラも見ておくといい」


 そうしてアイリスは、ある扉の前にセイラを立たせる。


 そして、徐にその扉を、思い切り開ける。


 「はーい、ちょっと御免よ!」


 中には、体を洗う、全裸の、クロトの後姿があった。


 「……は?」


 クロトは何が何だかわからないといった様子。


 それもそうだ。久しぶりの風呂でゆっくりと体の汚れを落としていたら、アイリスとセイラが扉を開け放ったのだから。


 「ッ!!ちょ、ちょっとアイリスさ――」


 「はい、ドーン!」


 ん、という前に、アイリスがセイラを、クロトの方に向けて押し出す。


 アイリスの方に体を捻る最中に押され、さらに浴室の水で滑り、セイラの手は咄嗟に何かにしがみつく。


 「あぶな……」


 それは、クロトの首だった。


 顔はクロトの左肩に乗り、手は首を回して胴体へ。


 図らずも、後ろから抱きしめる形。


 筋肉の付いた肉体。服の上から触れるのとは全然違う温もり。


 息を吸えば、体を洗う薬品の香りに紛れて、クロト自身の、独特の匂い。それも、決して嫌じゃない――。


 そんな物に一瞬思考を奪われかけたセイラだったが、直ぐに我を取り戻す。


 「ご、ごめんクロト!」


 そうして、彼の体から飛び退くように後ろに。


 「いやー、いい体してるじゃない!三日も牢屋に入ってたとは思えないね」


 アイリスは繁繁とクロトの体を見ている。


 「……いや、なにコレ?」


 クロトはむしろ冷静にそう返した。大事な部分はタオルで覆っているし、彼自身そこまで裸を見せる

ことに抵抗感はないのかもしれない。


 「事は一刻を争うってね。あんたの体のクリスタルって奴を、眺めてみようかと思って」


 アイリスはそう言いながら、クロトの肩に近づく。


 「ははーん、これか……。いや、これは奇妙だねぇ……。痛くはないのかい?」


 アイリスはそのクリスタルに触れる。


 「触られてる感覚はあるけど、それだけで痛くはないな。魔力を流すと痛むけど。だから、ここの灯りも付けなかったんだ」


 部屋の中は月夜に照らされるだけで、確かに暗い。


 セイラがなんとか落ち着きを取り戻し、クリスタルに明かりを灯す。


 「魔力を流すと痛いのか……。どことなく、だけど、周囲の皮膚も黒くなってるな……。これは黒いクリスタルの影響か?そうすると、やはり人体に影響があるのは間違いがないか……」


 アイリスの目はもう完全に研究者のそれだ。


 セイラも目のやり場に困るが、やはり気になるのかクロトの肩のクリスタルの方へ。


 「なんて言うか……。前に見たときより、少し黒くなってる気がします」


 「成程。時間でそうなるのか、何か特定の条件があるのか。やはりわからないことだらけだねぇ。じゃあ次だ。クロト、こっち向きな」


 クロトは協力的に、こちらを向こうとする。


 セイラは咄嗟に目を逸らすが、またしても魔の手が忍び寄る。


 「ほい、どうぞ」


 「えっ?」


 アイリスに再び押されたセイラが、クロトの方へと倒れる。


 元々運動神経のよくない彼女だ。どんなに足場が悪く滑ると認識していても、誰かから押されれば転ぶことなど朝飯前なのだ。


 「おっと……」


 クロトは当然のようにそれを受け止める。


 再び、セイラの体はクロトに覆われる。


 先ほどより遥かに密着度は高い。


 どこからでもクロトの体温が伝わり、どうしても息を吸えばクロトの匂いが感じられる。そんな状況

に、セイラの頭は一瞬で沸騰し、胸の鼓動はこれでもかというほどに高まる。


 「……」


 微妙な沈黙。


 やがてアイリスがクロトの後方へ回り込む。


 「……それっ!」


 何をするかと思えば、アイリスはクロトの背中に向けて、思い切りのいい張り手を繰り出した。


 肌が肌を打つ、途轍もなく痛い音が響き渡る。


 「――――ッ!!!」


 クロトは言葉もなく、セイラを抱く両手と背筋に力が入る。


 「―――!!」


 セイラは今までない以上に強く抱きしめられ、何か変な声が喉から出かけたが、必死にそれを言葉にすることを堪えた。


 数秒後、ようやくクロトが抗議する


 「何すんだよ!すげー痛いんですけど!」


 クロトの背中には、アイリスの手形がくっきりと残っている。その箇所を手でなぞろうとし、ようやくセイラは解放される。


 素早くクロトの腕からのがれ、呼吸を整える。が,上手くいかない。濡れてしまった服の重みすら、クロトに抱きしめられた証拠のような気がして、鼓動は早くなる一方だ。


 「いやー、こうすればビンタの一発でも飛ぶかな、と思ってたんだけど、予想外に大人しく捕まったものだから……。代わりに私がやってみた。ほれ、セイラ。治してやりな」


 そうしてアイリスはセイラにクリスタルを渡す。


 小さく、純度も低い粗雑な物だが、簡易な治療なら十分だ。


 「え……?は、はい」


 セイラはそれを受け取り、訳も分からないままクロトの背中に魔法を掛ける。


 治癒魔法は傷の回復だけではなく、痛み止めとしても使える。まあ、こちらは一時的な処置でしかないので、あまり使う機会は多くはないが。


 流石に治癒魔法に適性のあるセイラだ。頭は未だに混乱しているが、魔法はしっかり発動することができた。


 「どうだい?」


 アイリスはクロトに尋ねる。



 「うーん……。効いてない、という事はないけど……。正直あまり良くはないかな?」


 「えっ、嘘?私失敗してるかな?」


 セイラが慌てたようにクリスタルを眺める。クリスタルはしっかりと魔力を刻み、輝いていた。


 「いや、セイラの所為じゃないさ。これもクリスタルの所為だろう。聞いた話では、兵士の魔法を無効化して動いたらしいからね。魔法が効きにくくなってるんだ」


 それがどんな魔法であれ、魔法である限りその効力を弱めてしまう。


 たとえそれが回復魔法だろうと、なんだろうと。


 「まさか、それを確かめる為だけに……?」


 クロトが訝しげな目でアイリスを見る。


 「いきなりやったほうが気が楽だろう?今から殴るよ、なんて言ってから殴るのも変な話だしね。ま、今日はこんな所にしておこうか。じゃあ、ゆっくり浸かりな」


 アイリスはそう言って、浴場を後にする。セイラも、そそくさと後を追う。


 「……これから大変そうだ」


 ひとり残されたクロトは、そう呟いた。


 だがしかし、大変なのは実はセイラの方だった。


 「アイリスさん、なんであんな事を!?」


 未だ顔の赤いままのセイラは、リビングへ戻りながらもアイリスに食ってかかる。


 「まあそう怒らないでよ。私がクリスタルを見たかったっていうのもある。叩いたのは、まあ悪かったが、いつか必要になる事だったし」


 アイリスはさらりとそう返す。


 「違います!なんで私を押したんですか!それも二度も!」


 アイリスは振り返り、セイラの顔を見る。


 セイラの顔は未だに真っ赤なままだ。


 「……で、どうだった?好きな男に抱きしめられた感覚は?」


 さらりと聞くと、セイラはそれを思い返す。


 「そ、そりゃあ力強くて、男なんだなって……。って、好きとか、そんなんじゃ!」


 セイラはまたしてもパニックになる。


 「おや、違ったのかい?」


 アイリスがその部分だけを問い詰める。


 「いえ、その……。それはまあ、好き、です、けど……」


 セイラの声は消え入りそうな小声だった


 「誰だってわかるさ。好きでもない男と一緒にいる覚悟なんてそうそう出来たもんじゃない。それに、さっきは知るって事を悪い事だらけのように言ってしまったからね。本来は、まだ知らないことを知るっていうのは、素晴らしいものなんだよ。体感できただろ?」


 アイリスはセイラの頭を軽く小突いて、リビングに戻る。


 「……でも、あれはやりすぎだと思います」


 セイラが幾分の落ち着きを取り戻し、そうジト目で睨む。


 「いいじゃないか。中々ない機会だと思うけどね。それに、クロトもきっとセイラのことを気に入ってる。もう少し落ち着いたら、告白でもしてみたらどうだい?」


 しかし、その言葉にセイラは首を振る。


 「クロトはきっと、私のことを家族だと思ってます。妹かな?昔からそうなんです。女として見られてないっていうか……」


 少なくともセイラはそう思っている。


 「そうかねぇ……。少なくとも私には、二人は兄妹には見えないけれど」


 「そりゃあそうですよ。兄妹じゃないんですから。それに、今はこのままでいいかなって思うんです。隣に居ることが出来る、それだけで」


 セイラはそう言って笑う。


 この健気さが、人を惹きつけるんだろう。アイリスは掛け値なしにそう思う。


 「まあ、その辺に首を突っ込む気はないけどさ。気をつけなよ。こうなってしまった以上、いつまでもこのままで居られるなんてことはないからね」


 アイリスが言うと、セイラは頷く。


 しかし、とアイリスは思う。


 クロトがセイラを妹扱い、ねぇ。


 男は鈍いとよく言われるが、この場合鈍いのはセイラなんじゃないか?とアイリスは思う。


 クロトのセイラに対する姿勢は、もう世界で只一人の、愛するべき人間に対するもののような気がしてならない。


 若さゆえ、という奴なのだろうか。


 それとも、クロトの恋愛観が歳の割には達観しているからだろうか。


 二人は思い合っているのに、その僅かなズレが、彼らの関係を阻んでいる。


 「……私が口を挟むことじゃないか。若いうちはよく悩めって言うしね」


 指摘をしてやろうかと思ったが、やめる。


 「なら寝床が一緒で良かったね。他の部屋にも寝れるところはあるけど、そこは片付けないでいいよ。寝顔も見られるし、本当に一緒に居られるじゃないか」


 アイリスはセイラをからかう。


 「……アイリスさんって、意外と意地悪だったんですね」


 セイラはそういうと、一人で先にリビングへ戻ってしまう。


 「おっと、悪いね。悪気はないんだが、如何せん若いものを見るとどうもね」


 全く悪びれずに、アイリスが後を追う。


 「アイリスさんだってまだ若いじゃないですか」


 「毎日研究ばかりしてると、実際よりも歳取ったように感じるのさ。職業病というやつだね」


 二人は和やかに会話をしながら、歩き続ける。


 オレザノ崩壊から数日。


 セイラとクロトは、ようやく心安らげる居場所を得たのだった。


 その日は疲労も有り、三人とも早い就寝となった。


 特にクロトは久しぶりの寝床と呼べる場所で寝ることができたので、横になって早々深い眠りに落ちてしまった。 


 しかし、セイラはだいぶ夜が深けても眠ることが出来ないでいた


 クロトと一緒の部屋で寝るなんて、何時ぶりだろう。


 昔はよく泊まってたりもしたけど――。


 先ほどの出来事もあり、どうしてもクロトを意識してしまう。


 「力、強かったな……」


 よくよく考えれば、抱きしめられたのはあれが最初というわけではない。


 オレザノから逃げる時も、たぶんそれ以前もきっとあった。


 しかし、その時はこんなことを考える余裕もなかったし、服の上からだった。


 「……」


 思い出すだけで、鼓動は高鳴る。


 なんでだろう。今まで、こんなことなかった。


 きっと、ずっと前からクロトの事は好きだった。


 でも、こんなに意識しているのは、今が初めてだった。


 なんとなく、クロトの顔が見たくなって、体を静かに起こす。


 クロトは静かに寝息を立てている。


 どうしようか一瞬迷ったが、取り敢えずクロトのベッドに近寄る。


 月明かりが優しくクロトを映し出していて、夜でも顔ははっきり見える。


 床に膝を付け、両手をクロトのベッドに、気づかれないように載せる。


 「……えい」


 起こさないように、クロトの頬を突く。


 自分がこんなに不安定なのに、なんでクロトはぐっすり寝てるの?と、優しく抗議する。


 それすら反応を返さず、クロトは寝続ける。


 なんだか面白くて、セイラは小さく、声を殺して笑う。


 「……好きだよ」


 声に出すと、無性に愛おしさが溢れた。


 自分でも、今気づいたのかもしれない。


 「ずっと、ずっと前から。好きだったよ。私、まだ頼りないけど、クロトと一緒に居たいから。頑張るね。何を、とは言えないけど。一緒にいることで、クロトの負担にならないように、絶対になるから」


 私は、足で纏だ。


 自覚はある。それでも、一緒にいたいのだから、仕方ない。


 胸を張ってクロトの隣に並んで、そしてそれが当たり前になった時。その時、この言葉をもう一度言おう。


 今度は、二人起きてる時に。


 セイラは静かに、そう誓った。


 すると、心はなんだか妙に落ち着いた。


 「……私も寝よう」


 私にやれることが何か、今は見当もつかない。


 ただ、今は体を休めよう。


 明日の私が、明後日の私に繋がるように。


 そして、それを続ければ、きっとその日はやって来る。


 根拠はないが、セイラには純粋にそう思えた。


 去り際に、もう一度クロトの顔を見る。


 頬にキスでもしてみようかと一瞬考えたが、冷静になった頭では恥ずかしすぎて行動に移すことはできなかった。


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