漆黒のクリスタル(2)
クロトが正気を取り戻したのは、牢に入れられてから三日後だった。
それまでは、まるで生きる屍のように、何も考えることが出来ず、一言も言葉を発することもなく、食べ物は受け付けず、少量の水だけを飲んで、過ごしていた。
手を動かそうにも、鎖がそれを邪魔する。
足を動かそうにも、鉄球の付いた枷は動く気力すら奪っていく。
空腹なはずだが、食欲はない。
なんだ?俺は一体、どうしてここにいるんだ?
少し冷静に考えると、最後の記憶はあやふやで、はっきりとしないが、
捕まったんだっけ。
それだけは理解できた。
あれからもう何日経った?感覚がほとんどない。
セイラは無事だろうか?
……きっと大丈夫だろう。この都市はきっと安全だ。
これから俺はどうなるんだろう?
壁にもたれ掛かったとき、肩に違和感が。
そうだ、コレの所為で……。
自らの肩に手を伸ばすが、黒いクリスタルには届かない。
諦めて、また手足をだらりと伸ばす。
「うん、でも、約束は守ったよ、おじさん」
取り敢えず、セイラは安全な所まで送れた。
なんとなく、自分の役目は終わったような、そんな気持ちだった。
このまま死んでも、いいのかもしれない。
この都市に来れば、また新しく何かが始まると思っていた。
「……こんな場所から、何が始まるってんだ」
光の届かない牢の中、クロトはそう呟く。
もう全部失ったのだ。それは、強がっていたクロトの精神を悉く打ち砕き、絶望一色に染め始めていた。
咎落ちと勘違いされた事への怒りすらない。
「……もういいよ。もう、辛いことは沢山だ」
そうして、蹲る。
そのまま、そうして、過ごしていたとき、足音が聞こえる。
静かな牢に、それはクロトの耳にもはっきり届いたが、誰が来たのかを確認する気にもならなかった。ただ、その足音が複数であることだけは、クロトには理解できた。
「おーや、これは酷い。ちゃんと飯食わせてんのかい?」
「いえ、出してはいるのですが……食べようとしないんですよ」
どうやら一人は女。もう一人はこの場所を受け持つ兵士だろう。兵士の声を、クロトは何度か聞いたことがあるような気がしていた
「……まあ、仕方ないか。あんな事があって、ようやくの思いで逃げ出してきたのに、逃げ出した先でこれじゃあねぇ」
「す、すみません……」
「いや、こっちもあやふやな情報を渡したのが悪かったのさ……。ほら、早く出してやんな」
クロトの牢の扉が開かれ、中に入ってくる気配。
そして、かちり、という音と共に、クロトの両手両足の枷が外される。
「ほら、立ちな。男だったら、自分の力で立てるだろ?」
クロトが目を開くと、そこには予想通り兵士と女が立っていた。
女は腰まである長い髪に、凛々しい顔つきをしている。兵士との会話で、それなりの地位にいることは想像がつく。
「……何しに来たんだ?」
「全く、やさぐれたもんだね。まあ、この件に関しては私たちが全面的に悪いから、仕方ないか。こんな所に何日も閉じ込めて悪かったね。出してあげるよ。それとも、この場所が気に入ったかい?」
ここから出れる、と聞いても、クロトの心も体も動かない。
「……俺は、これからどうなる?」
自分の体が、もう普通ではないことはクロトも理解していた。
魔法は使えなかった。
それどころか、体には変なクリスタル。
「その話もちゃんとしてやるさ。と、言っても、こちらでもまだ判明していることは少ないから、想像の域を出ない話だけどね。それでも、何も無いよりはましだろ?」
確かに、自分が今どんな状態なのか。
それを知る必要はある。
どうやら、ここでは死ねないみたいだし。
クロトの目に、若干の光が蘇る。
クロトは弱り果てた体を無理やり起こし、立つ。
「よし、じゃあ行こうか」
女が言い、クロトは歩き出す。
元々逃亡中の身。持ち物など殆ど無かったので、そのまま牢に入れられていたのだ。
「そうそう、私の名前はアイリス。一応、この都市で王と呼ばれているよ」
アイリスは、歩きながら簡単に自己紹介をする。
「……王?」
クロトは、怪訝な目でアイリスを見る。
「オレザノにも居ただろ?それと同じさ。ここの研究所の所長も兼任しているけどね」
クロトは一瞬足を止めたが、また歩き出す。
歩き出せば、体は歩くことを忘れていなかったようだ。ふらつく事は無くなった。
「そんなあんたが、なんで俺の所に?」
石造りの通路は、思ったより長い。
「いや、こっちも色々あってね。それに、私が出したお触れで、君は誤って捕まった。私が謝罪に来るのは当然だろ?」
そうかもしれない、が、王が直々に来るほどなのだろうか?
クロトはそう思わざるを得ない。
「ここを登りきれば外だ。だいぶ弱っているみたいだし、手を貸そうか?」
クロトは首を振る。
「大丈夫さ。これくらい、一人で登れる」
先の光を見つけると、クロトにも気力が湧いてくる。
まるで、先ほどの虚無を埋めるかのように、その光はクロトの中に染み込んでいく。
「……いい顔だ。本当に済まなかった。オレザノが崩壊して、こちらも対応に追われていたんだ。咎落ちと言えば魔法が使えない。それに、オレザノ王が渡してくれた手がかりで、黒いクリスタルを使う、という情報だけだった。まさか、君のような人間が居るとは、夢にも思わないだろう?」
「俺も、何が何だかだよ。黒いクリスタルも、魔法が使えないこともね……」
クロトの体は、一段一段、踏みしめるように登る。
「それに関して、君の身柄はこちらで引き受けることにしたよ。これから君のことに関しては私が一切の責任を持つ。君もこちらに頼るツテなどないのだろう?」
アイリスがそうクロトを見ると、クロトは怪訝な表情をした。
「……人体実験とかしないだろうな?」
「君は面白い冗談を言うね」
クロトにしてみれば、全くもって冗談ではないのだが、アイリスはそれが余程面白かったのか、声を出して笑った。
「クロトだ。呼び捨てでいい。全く、最悪の都市への入り方だった」
「本当だな。君の連れに感謝すべきだ。君も、私もな。彼女が三日三晩、毎日のように詰め所へ猛抗議していなければ、私も君が捕まった事を後回しにするところだったよ」
連れ?誰だろう、と考えるが、答えはどうしても一人しか出てこなかった。
階段の最後の一段を踏みしめた、その時。
光とともに差し込んでくるのは、聞きなれたその声だった。
「クロト!!」
抱きつかれるその衝撃に耐え切れず、クロトは尻餅を付く。
「ごめんね、私、何もできなくて!本当に、ごめんなさい!」
彼女はそうして、クロトの胸の中で涙を流しながら、懺悔を。
「セイラ……。なんだか、随分久しぶりな気がするな」
クロトはそうして、セイラの肩に手を置く。
その瞬間である。
それを見ていた観衆が、一斉に歓喜の声を上げる。
「参ったよ。彼女はこの数日で、我が都市の大半を味方に付けてしまったのだからね」
クロトが見回せば、そこにはまるで自分達の事の様に、二人の再会を喜ぶ人たち。
その中に、唯一見たことがある人がいることを、クロトは見つける。
クロトはセイラの手を借りて立ち上がり、その人に声を掛ける。
「コサックのおっちゃん!あんたも手を貸してくれたのか?」
コサックは親指を立て、それに応える。
「当たり前よ!短い付き合いだったか、坊主が悪い奴じゃねぇって事はよく知ってる!これでも商人の端くれだぜ!?人を見る目はあるんだよ!」
クロトも、親指を立てて、返す。
生きていて、良かった。
生きる意志を、欠片でも残しておいて、本当に良かった。
クロトはその景色を、生涯忘れることのないように、眼に焼き付ける。
生きているという事は、こんなにも、素晴らしい。
これからどんな事があろうとも、クロトが決して絶望に浸ることはないだろう。
彼は、希望に向かい、生き続けることの大事さを知ったのだから。
「さて、お祭り騒ぎも結構だが、そろそろ行こうか。皆も、仕事に戻るようにな!」
アイリスが観衆にそう言うと、それぞれの返事が聞こえて、賑やかな声は次第に遠ざかっていく。
「また少し歩くぞ。……もう手は貸されているな」
セイラは、クロトを支えるように、抱きついたままだ。
「まあね……。セイラ、歩きづらいよ」
しかし、セイラは首を横に振るだけで、決して離そうとはしない。
「ゆっくりでいいさ。街を見るのにも丁度いいだろう」
そうして、アイリスは恭しく頭を下げる。
「ようこそ、研究と学問の都市、ヘイリルガーデンへ」
その言葉とともに、クロトは、ようやく都市にたどり着いたのであった。