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 サークルで書きましたが、色々あってお蔵になったものです。


 夜と朝の境目がぴっちりと向かい合って、僅かに射し込んだ光にその境界が溶けている。


 白い砂浜をサンダルで歩きながら少女はふんふんと潮の香りを嗅いだ。まだ朝とも言えず、かといって夜の中にあるとは言い難い時間帯だ。砂浜には人はいない。それどころか、世界でひとりだけ取り残されたように、人間の気配はどこにもなかった。静寂が薄い皮膜のように、少女の世界の周りを取り巻いている。


 海を見ると、ちょうど陽が昇りかけていた。何の遮蔽物もなく、光が自分の下へと真っ直ぐに続いてゆく。それはまるで海を渡る大きな光の橋だった。


 少女はストラップで首から下げたトイカメラを構えた。光度を調節し、ピントを慎重に合わせる。いつでも緊張するこの一瞬、心臓がきゅっと小さくなるのを感じながら、少女はシャッターを切った。トイカメラの下部から写真が排出される。真っ黒だった写真は徐々に色を帯びてくる。それはまるで自然界で花がつぼみから徐々に開いてゆくような、そんな感覚に近い。少女は写真を確認して、その出来に頷いた。少女は写真を売ることを生業にしていた。この歳で見上げたものだという人間もいれば、まだ早いだの人生をそんなに焦って決めるなだのうるさい連中も多かったが、少女は自身の仕事に誇りを持っていた。


 写真を懐に仕舞い、もう一度同じ位置にピントを合わせる。数分しか違わないのに、光の位相も色合いも最早別物になっている。この時間帯の景色の移ろいは速い。だから、どの一瞬を切り取るかは完全に個人の技量になってくる。シャッターを切る。トイカメラの下部から写真が排出される。少女は何度か同じ動作を繰り返した。やがて、光が強くなった頃、ようやく写真を撮り終えた少女は泊まっていた旅館へと戻ろうとした。


 その時、ざぶんという一際大きな音が聞こえてきて、少女は足を止めた。海へと目をやる。だが、船の類はない。近くに断崖もないので、波がそれらにぶつかったということはないだろう。ひょっとしたら、海の生物でも流れ着いたのかもしれない。先ほどの音の大きさから考えて、イルカか、クジラか。少女はもう一度、トイカメラを構えた。陸に流れ着いた海の生物を撮れる機会など滅多にない。少女は撮れるものは逃さず撮る主義だった。


 カメラを構えて海をレンズ越しに探すが、しかしそれらしい影は見当たらない。気のせいだったのか、と思い、少女がその場から立ち去ろうとしたその時だった。


 海面が急に盛り上がり、強く大きな波が押し寄せてきた。突然のことに少女は戸惑っていると、足元を波がすくった。カメラだけは、と咄嗟にカメラを守るように丸まった。その少女へともう一度、巨大な波が被さってくる。ぎゃあ、と悲鳴を上げそうになりながらも少女はカメラを死守した。波が少女の服を濡らした。波が引いた時、少女は太陽の光が薄らいでいることに気づいた。目に海水が入ったのかと思って目を擦ったが、光の量は変わらない。まるで何かの影の下にいるように光が薄く遮られているようだった。少女は砂浜の上で身を起こし、海の方に視線を向けた。


 そこには巨大な何かが立っていた。何なのか、頭が認識できない。分かるのは海草が引っ付いたふさふさとした青い体毛が全身を覆っていることくらいだった。海洋生物の類ではない。ましてや人の類では断じてない。それは、十メートルはあるであろう巨体だった。それが太陽の光を遮っているのだ。少女は腰を抜かしていた。逃げようにも足がまるで役に立たない。巨大な何かは体毛の下から長い腕を出した。緑色の腕だった。ごつごつとしていて、腕の先には掌に五本の指が生えている。それで確実に海の生物ではないことが判明した。少女は歯の根が合わずにガチガチいいだすのを感じながら、それを振り仰いだ。よく見ると体毛の中にまん丸とした赤い眼がある。面長で、下のほうには口らしきものがあった。だとすればこれは顔から直接腕が生えているというのか。ありえない、と思いながらも目の前のそれは確固たる現実だった。それを証明するかのように、腕が少女へと伸びる。


 少女は目を瞑った。取って食われると思ったのだ。神に祈ったし、反対を押し切って飛び出した両親にも何度も謝った。


 だが、痛みも何も訪れなかった。少女はゆっくりと瞼を開ける。そこには巨体から伸びた手があった。掌の上に何か乗っている。それは大きな手に比すれば小さな粒に見えた。金色に輝いている。少女が震えながらそれを見つめていると、巨体からもう一本腕が伸びてきた。今度こそ食われる、と少女は覚悟したが、何も起こらない。改めて見つめると、もう一本の手で少女の胸元を指差していた。少女が後ずさると、懐から写真が零れた。慌てて拾おうとすると、緑色の指が写真をつまんだ。そして、もう一方の手で写真を指差して巨体を身じろぎさせた。頷いているようだった。少女は恐る恐る写真を一枚拾って、少し腰を上げて尋ねた。


「これが、欲しいの?」


 巨体がまたも身じろぎする。少女は写真をかき集めて、それを差し出してみた。大きな手がそれを根こそぎつまんで取った。入れ替わるように、もう一方の手が何かを砂浜の上に置いた。少女がそれを確認しようと近づくと、巨体は最初に現れた時と同じように大きく波を起こした。ゆっくりと身を翻し、徐々にその身体が海の中に沈んでゆく。


 少女は波飛沫を浴びながら、呆気に取られた様子でそれを眺めていた。ずぶずぶと音を立てて、波間の中に巨体は消え、やがて完全に見えなくなった。太陽の光が元のように砂浜へと射し込む。少女は身体がふやけるような感覚を覚えて、その場にへたりこんだ。あれは一体何だったのか。少女は唯一の手がかりと言えるそれが置いていった金色の粒を手に取った。砂浜に少し埋もれていたために、砂を払って見てみる。すると、巨体の掌の上に乗っていたから粒のように見えたのであって、それは少女の掌と同じくらいの小判だった。少女はそれと海とを交互に眺めた。


 暫くは動けなかったが、二時間ほど経ってから砂浜をジョギングしていた人にぼうっとしていたところを助け出された。どうやらかなり危なく見えたらしい。ジョギングしていた人は慌てていた。


 旅館に戻って、懐に仕舞っておいた小判を手元に見つめながら、少女は首を傾げた。あれは夢だったのか、現実だったのか。小判があっても、何だかふわふわとしていて現実味がなかった。とりあえず旅館を出なければならない、と思い鞄に小判を仕舞って出ようとした時、初めて旅館の正面玄関の天井に描かれている巨大な絵に気づいた。旅館の人に少女は尋ねた。


「あれ、なんですか?」


「ああ、あれはこの地方に古くから伝わる海坊主の絵です。この旅館を最初に経営していた人間が描いたものとされていまして、伝統あるものだから飾っているんですが、あそこに描かれている海坊主。あれ、気味が悪いって言う人がいましてね。でも捨てるわけにもいかないから、仕方なく天井に飾っているんです」


 少女は上の空でその絵をじっと見つめていた。そこに描かれている波間から顔を出した海坊主。その姿は青い体毛に緑色の腕が生えた赤い眼の巨体で、先ほど少女が見たのと同じだった。


「旅人の荷物で気に入ったものをわざわざお金を払ってもらってゆくと言い伝えられております。律儀な妖怪ですよね」


 そう言って旅館の人は笑った。少女は「はぁ」と生返事を返した。


 帰り際にもう一度砂浜まで行ってみたが、もちろん海坊主は現れなかった。少女は鞄に入っている小判を取り出して、思う。海坊主は写真を気に入ってくれたのだろうか。海の中で、それを眺めて悦に浸ったりしているのだろうか。少女はそんな想像に少し笑ってから、小判を握った手を振った。


「ありがとー」


 海坊主のお墨付きの写真。おかしいけど、少し自信がついた。


 少女は海へとトイカメラを向けて、レンズを引き絞り、シャッターを切った。排出された写真には、水平線から続く光の道の中に、手を振り返す巨体の姿が焼きついていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いやー、すごいな、というのが感想です。 映像を見ているみたいですね。 こんな風に書けたらと思ってしまいました。 [一言] 作品とは関係ないのですが、トイカメラってポラロイドでしたっけ?…
2012/05/31 22:45 退会済み
管理
[良い点] -得体の知れないモノは海坊主だったオチ―--前半の叙情的な描写は(もちろんそれだけで素晴らしいのですが)前フリとも読め、しっかりした構成になっていますね―-。 -情感たっぷりのラスト…
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