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ミッドナイト・マーメイド

 僕は最初、彼女のことをプールに迷い込んだ人魚ではないかと空目したんだ。

 だってそうだろう? 場所は深夜の中学校、夏休みでひと気も無い。ジュブナイル小説やライトノベルの様なシチュエーションみたいだ。そんなプールを独占している影を見たのだから、僕が彼女を人魚と空目するのも仕方がないことと思うじゃないか。

 水に濡れた彼女の身体は月明りを反射し、その脚が鱗のように輝いていたのも僕の勘違いに拍車をかける。彼女の美しい泳ぎは僕を魅了……することはなかった。 

 よくよく見れば人間だったし全くといっていいほど泳げてなかったから、彼女がただの人間だと理解するのに時間は必要なかった。

「誰?」

 最初に言葉を発したのは彼女だった。抑揚のない、温度を感じない発声。僕は、陸に上がった人魚は声を失くしていたなあなどと、全然関係のないことを考えながら名前を告げた。

 加藤直也、この中学に通う一年、今日は机に入れっぱなしだった課題を取りに来たこと。彼女は僕の言葉を聞いているのだろうか。ビート板を胸に抱えた深夜の人魚は、目を瞑りながらポツリと一言だけ呟いた。それは若干舌っ足らず、間延びした印象の、少女のような声だ。

「ふうん、カトーくんていうのね」

 もう少し色々と語ったつもりではあったが、彼女へ届いた僕の言葉は、名前以外の全てがプールの波間に消えてしまったようだった。

 名前も名乗らぬ彼女はビート板を抱えたまま、くるくると水面を器用にーーいやそうでもない、人魚と勘違いしたことすらおこがましいほどみっともない様で回っていた。

 納得いかないように首を傾げる様は幼い少女を思わせた。暗くて詳しい表情は読み取れないが、薄い顔立ちはやはり年不相応に幼く見える。

「泳げないんですか?」

 僕が敬語で問うた理由は、彼女の水泳帽が三年生のものだったからである。見慣れた学校指定の水着、髪の毛が詰められた青い水泳帽は茸のように膨らんでいた。

「泳げないから練習しているのよ。なにか悪いかしら」

「悪いことはないですけど、こんな深夜に一人でプールにいることはどうでしょう」

「いいのよ、許可はもらってるわ。それよりも敬語はやめて、嫌いなの」

 それだけ語ると彼女は、ビート板を水面に置き、顔を浸けてバタ足を始めた。彼女が語ることがどこまで本当かは想像に難いが、泳げないから練習しているというのはどうやら本当らしい。

 夏課題を既に回収した僕としてはもう家に帰ってもいい、むしろ帰るべきなのではある。しかし、僕はプールサイドに座り、靴を脱ぎ足をプールに浸けていた。

 別に水着姿の女子を視姦しようだとか、夜中のプールに一人で女子が泳ぐシチュエーションにわくわくしていただとか、そういう理由からでは決してない。とは言い切れないけれど、先生も親もいないこのプールで一人きりの彼女を心配するくらいに僕は子どもであったし、大人でもあった。

「夜中の学校でプールなんて、どうして許可がおりたんですか?」

 無言を返される。初対面とはいえ、いや初対面だからこそ先輩に敬語を使うのは当然だとは思うのだが。僕は一つ咳払いをして。

「なんで許可なんておりるの?」

「一人で泳ぐ練習がしたかったの。条件をつけたら、意外と簡単に許してもらえたわ」

「条件?」

「私、一年生の夏から学校に来れてないの」

 変わらず抑揚無い言葉に感情は聞こえない。僕が言葉に詰まっていると、彼女はビート板でバタ足しながら、語り続けた。

「泳げるようになったら学校に行くって約束したの。問題児が学校に来るならって、先生たちは喜んで許可をくれた」

 彼女は息があがっている。練習しながら喋っていれば当然だろう。

「プールの授業が嫌だった。プールは好きなのよ? 水に沈むと、世界と自分の境界が溶けてなくなるの。ちっぽけな私でも世界の一部なんだって錯覚するくらい。世界ってとっても息苦しいことがわかるのも好き」

「それでも授業は嫌なの?」

「だって、泳げないんだもの。泳げない子は笑い物だし、体育の先生って何も教えてくれないわ。クラスの子の言葉には心がないし、冷めた目は笑ってる、そんな中で私は立って歩くことなんてできないわ」

「そうなんだ」

「だから誰もいない夜中の学校で泳ぐ練習をしているの。でも、泳げるようになっても、本当にいけるのかな」

 最後、ポツリと漏れた言葉だけは低く、小さな震えを覚えた。水面に顔を漬ける練習も始めて彼女は、それ以上語ることはなかった。


 時間に相応しいほどプールから音がなくなっていた。数百リットルの水は音を受け止め、飲み込み、闇に消える。月も厚い雲に隠れている。

 プールに飲み込まれたのは音だけではなかった。僕の意識は眠気に誘われ、沈み微睡むが、あまりに静かすぎる。死の音を感じた。

 息継ぎの呼吸は? 水面を叩く足音は?

 音も意識もその身に吸収したプールの水は闇夜に淀んでみえる。人間一人までも掴んで離さないかのごとく。その災から逃れたのは中央に浮かぶビート板一枚だった。

 僕は考えるよりも早く飛び込む。シャツとズボンは一瞬で水分を吸収し、クラゲのように膨らんだ。ぷくぷくした見かけとは相反し、それらは鉛のように僕の体を蝕む。

 一刻を争うかもしれない状況に僕は服を脱ぎ捨てて下着一枚でプールを走った。生温い水が飛び散り、目を、鼻を、口を塞ぐ。プールの水すべてが僕の行く手を遮っているかのよう。

 段々と深さを増すプールの最深地。水は闇夜の黒を反射して底は見えない。息を止めて潜ると、意識を失いかけた彼女を抱えた。

 水面に頭を出すと、彼女の咳込みが世界に響いた。口の端からは涎、涙と鼻水に塗れた顔は水上でも溺れるのではと心配になるほどだ。しかし、体液に汚れた彼女の顔は生に溢れていた。

 深い呼吸に夢中の彼女をプールサイドに運ぶ。乱れた水泳帽からは髪の束が露出し、塩素の匂いが鼻につく。どうしようないほどに身体を冷やしているのに、彼女の身体の柔らかさとその匂いに性を感じる自分が少し嫌だった。

 ようやくプールサイドにたどり着くと、彼女は横たわりながらまだ肩で息をしている。

「救急車呼ぼうか?」

 僕の問いかけに小さく首を横に振り、彼女は無言で再びプール内に降りた。

「危ないよ! さっき溺れたばかりでしょ!?」

「大丈夫。コツもわかったし、限界も理解した」

 僕の静止を振りほどき、彼女は壁を蹴って水中を進む。月明りが再び差し始めると、小さなシルエットが水面に浮かんできた。足が水面を叩き、腕で水をかく。プールには小さな水音と、彼女が生きる呼吸の音が響いている。

 また彼女は溺れてしまうのではないか。不安もあったが、僕は目頭が熱く水で湿る理由を考えるだけで精一杯だった。

 数分の後、彼女は僕と反対側のプールサイドに手を付けていた。そのまま上にあがると、彼女は僕に一礼して立ち去っていってしまった。

 慌てて追いかけようにも彼女が向かったのは女子更衣室だし、僕はパンツ一枚。プールを流れる僕のシャツとズボンはやはりクラゲ以外に例えようもなかった。


 二学期が始まったというのに、夏服のワイシャツが肌に貼り付く。蝉の鳴き声も夏休みからとどまることを知らない。そんな中、学校に向かう僕の足取りが重いのも自然である。

 人魚先輩はあの夜以降もプールで練習をしていたのだろうか。泳げるようになったのだからもう来なかったのだろうか。夜の学校に行く用事もなかったし、確かめようにも生憎タイム・マシーンは持っていない。

 新学期に向けて上履きをハイターに浸けたとき、鼻に抜ける塩素の香りは人魚先輩そのものだった。その香りは鮮烈で、僕に彼女の身体の柔らかさを思い出させるには十分過ぎるほどでもあった。

 ようやく校門までたどり着いたがあまりの暑さに一息を入れざるを得ない。日陰に避難すると、先客が一人。タイの色から察するに三年生である。少し離れて隣に立つと、甘い花の匂いが香った。彼女のシャンプーだろうか。

「カトーくん」

 抑揚の少ない間延びした声。聞き覚えのある声だった。

「にん……ぎょ……先輩?」

「なあに? 人魚って」

 先輩はくすくすと口に手を当てて笑っていた。プールでは幼い少女のように感じたのはプールが見せた幻であったのかと錯覚するほど、先輩は大人だった。

「だって、名前すら教えてくれなかったじゃないですか」

「そうだっけ? それよりも敬語やめて。登校日数でいえばカトーくんの方が私よりきっと多いんだもの。それなのに先輩面したくないわ」

「そうかもしれんけど……」

「でもよかった。カトーくんのこと待ってんだよ?」

 先輩の声は少しだけ震えていた。久しぶりの学校が怖くて、不安で、踏み出せないでいたそうだ。

「また助けてくれる? あの夜みたいに」

 僕の返事は先輩の手を取ることと代えた。手を繋ぎ、校門の前で二人並ぶ。決して僕は先輩の先を歩いて導くことはしない。これはプールからあがった先輩が一歩を踏み出す物語なのだから。

 じんわりと身体が汗ばむ。繋いだ手は尚更だ。先輩は僕の手を一際強く握りしめると、肩で風を切りながら力強く歩き始める。

 夏服のスカートの下に、あの夜見た鱗のような光が揺れた気がした。でもそれは、塩素の香りの思い出と、今現在香っている花のシャンプーにまぎれて消えてしまった。

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