魔法使いの資質。
――魔法は実在するか?
それは、多くの人が一笑に付す類の命題だろう。
世界中の人々がスマートフォンを片手に、週末の天気から浮気の証拠の消し方までなんでもAIに尋ねている科学全盛のこの時代に、一体なにを前時代的で荒唐無稽な話をしているのだ、と。
鼻で笑いながら『実在するわけない』と、そう答えるだろう。
――本当に?
それはきちんと自分で反証した上での答えだろうか?
ひょっとしてそれは、サンタクロースを信じていた純粋な幼少期からどんな物事にも合理性を求めてしまう退屈な大人になる過程のどこかで、だれかに押し付けられて無理やり納得しただけの、“なんとなく”の答えではないだろうか?
もしそうであれば、一度思い込みを捨てて改めて考えてみてほしい。すると、さて、先ほどの命題はどうだろうか。
そんなものあるはずない、と。魔法の存在を完全に否定することは、果たしてできるだろうか。
悪魔の証明が詭弁であることは事実である。
だが、同時にアキレスと亀のパラドクスのように直感的には明らかに間違っていると分かっていても、否定できない矛盾がこの世界にはあることも、また事実なのだ。
であれば、ひょっとしたら、もしかしたら――。
どこかに一人くらいは、魔法が使える人がいてもおかしくないのかもしれない。
そう、たとえば、自分のすぐそばにも。
そんな、ずっと昔に蓋をした心のどこかがくすぐられるような夢物語も、多少の真実味を帯びてはこないだろうか。
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今日は土曜日。時計の針は13時。
つまりは、いつもの時間。
アカリが、『そろそろかな?』と思ったところで、案の定、片開きの古い自動ドアがぎこちない音を立てて動いた。
その人物は、律儀にドアが開き切るのを待ってから、ひっそりと入店する。
店内の物販コーナーでかわいらしいグッズを物色していたほかの客の隙間を縫うように、真っすぐにアカリの立つカウンターへと向かってやってくる。
ユニクロで売っていそうなクリーム色のブラウスと、チョコレートブラウン色のゆったり幅のロングスカート。
若い娘が身に着けるにはいささか地味に過ぎる感はあるが、“この店”を訪れる客としては最適解に近い。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「……一二〇分コースで、一名お願いします」
「お飲み物は?」
「……そちらの、青いアイスミルクティを、――あ、いえ、その白いの、です。それを、一本」
お店のカウンターに大きく広げられているメニュー表には、『三〇分のご利用ごとにドリンク一本ご提供』と記載されている。
「かしこまりました」
アカリは、意図的に残りのドリンクについて問い返さず、背後に据えられた小型のクーラーから真っ白なパッケージの缶ジュースを一本だけ取り出し、カウンターへ置く。
その様子を見て、彼女は少し安心したように肩から力を抜いて、頷くようにぺこりと頭を下げた。
「それでは、お時間になりましたらお声かけ致しますのでごゆっくりおくつろぎください」
アカリが店の奥へと案内すると、彼女はもう一度頭を下げて、手慣れた様子で二重扉の向こうへと入っていく。
営業スマイルのままその後姿を目で追うと、案の定、お決まりのクッションへと腰をおろし、小さなポーチから文庫本を取り出していた。
「珍しいタイプのお客さんね」
「あ、和江さん。おはようございます」
常連さんに対してスマートな接客ができたことで小さな達成感を覚えていたアカリに、年配のスタッフが声をかけた。
ご機嫌な顔を浮かべたまま、アカリはレジカウンターの奥へと一歩詰める。
「あの子、わざわざウチに来て本読んでるの?」
「常連さんなんですよ。土曜日シフトに入ったことのある人は大抵見たことがあると思います」
「そうなの? 私は普段平日ばっかりだからねえ。いつも、あんな感じなの?」
「カフェでドリンクを楽しみながら読書に耽るお客様なんて、街のどこででも見かけるような一般的な光景じゃないですか」
「それは、普通のカフェの話でしょう? ウチは少し事情が違うじゃない。従業員と遊ぶこともなく、わざわざ相場よりずっと高いドリンクにお金を払って本を読むだけなんて、理屈から考えてもおかしいでしょう」
「もしかしたら、別の目的があってウチに通っているのかもしれませんね」
「別の目的って?」
「そりゃあ、看板娘の私に会いに来てるとか?」
茶化して言うアカリに、年配の女性は少し呆れたように顔をしかめる。
彼女の言葉には、若干の警戒心があった。イレギュラーな客はトラブルの種になりやすい。おそらく、それを心配しているのだろう。
「大丈夫ですよ。初めて来店したときからずっとあんな感じですけど、他のお客様とも、うちの従業員とも揉め事を起こしたことはありませんから」
ちょうどそのとき、ガラス戸の向こうにいた店の従業員が件の女性客へと近寄って行った。アカリは指をさし、年配のスタッフの視線をそちらへ向ける。
小さな従業員は、クッションに腰掛ける彼女の足元で、登攀ルートを吟味する登山家のように鋭い目つきで彼女を見上げていた。
彼女は本から視線を外す。おそらく、彼と目が合ったのだろう。無言で微笑んで、一度だけ足元に手を伸ばしそっと首の後ろを撫で、再び文庫本へと視線を落とす。それが心地よかったのか、小さな従業員はそのまま足元で丸くなって眠ってしまった。
「ね?」
「……まあ、楽しみ方なんて人それぞれなのかしらね」
そう言って、年配の女性はアカリから手渡されたエプロンを身に着ける。
カーキ色の生地の真ん中に、店のロゴと共にプリントされたパステルカラーの丸いフォント。
『保護猫カフェ はしわたし』
駅前商店街の端の端。地域猫と一緒に営む小さな猫カフェが、アカリのバイト先であった。
「あっ」
ショッピングモールでウィンドウショッピングを一通り楽しんだあと、ふと立ち寄った本屋で、アカリは思わず声を出した。
レジカウンターで差し出した新刊の漫画本。そのバーコードを読み取る人物に、見覚えがあった。
身に着けていたエプロンの目立たぬところに、猫のキャラクターを模した小さな缶バッジが留められている。視線を上げネームプレートを見ると、そこにはハードカバーの難解な本を連想させるような固いフォントで『三木』と書かれていた。
「やっぱり、ねこが好きなんですか?」
缶バッジを指さしながら、アカリは言う。ちょっとしたいたずらのつもりだったが、突然話しかけられた彼女は、はじけるように顔を上げた。
長い前髪の御簾の向こう。見開かれていた大きな瞳と視線が重なった。――ような気がしたのだけれど、すぐにまた伏せられてしまった。
(あれ、もしかして、気づかれていない?)
入店と退店の時だけとはいえ、カフェのレジカウンターで毎週末顔を合わせているのだ。少なくとも顔くらいは覚えてくれていると期待していたアカリは、少しがっかりする。
それとも、ひょっとして自分の思い込みでまったくの人違いだっただろうか。
もう少し踏み込んで確認してみようかな? と思案していたが、無言のまま漫画本とレシートが差し返され、あえなく時間切れとなった。
後ろに他のお客さんが並んでいたこともあり、アカリはそれ以上声をかけることはしなかった。
真相が気にならないわけではなかったが、焦らずとも週末になればまた顔を合わせるだろう。
そのときの世間話の種として楽しみに取っておこう。そう思い、アカリは深く考えることなく、漫画本を胸に抱き家へと帰った。
アカリの思惑に反し、次に彼女と顔を合わせることになったのはそれからまるまる二週空けてからの、三度目の土曜日であった。
今週も来なかったなーと諦めかけていたとき、自動ドアの向こうに、まるで肉食動物を警戒する野兎のように身を縮こませていた彼女の姿を見つけた。
躊躇いがちに何度も店内を覗いていたようだが、アカリと視線が重なった瞬間、ようやく意を決したように彼女は一歩を踏み出した。
常連さんとしばらく会えていなかったことで若干の寂しさを覚えていたところであったため、久々の再会自体は純粋にうれしいことではあった。
だが、よりによってこのタイミングでの来店とはどうにも間が悪いなあ、とアカリは思う。
(だけどまあ、ものは考えようかな)
間の悪いお客様が彼女であれば、これは願ってもないチャンスともいえる。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「一二〇分コースで、一名お願いします」
アカリはぺこりと頭を下げる。
「申し訳ございません、お客様。これから、従業員たちのお昼ご飯の時間となってしまいまして」
「えっ」
申し訳なさそうに言うと、思いもよらない言葉だったのだろう、彼女は驚いた様子でお店の営業案内が記されたボードを見る。
彼女は何もミスを犯していない。彼女の認識の通り、本来であれば従業員のお昼休みは12時から13時で正しい。
頻繁にあるようなことではないが、たまにあるトラブルだ。
今日は午前のお客様がお店に不慣れな団体様で、加えて来店時間が後ろ倒しになってしまったことも重なったため、お昼ごはんが遅れてしまっていた。
従業員の中にはまだ生まれて数か月の仔猫もいる。人間との信頼関係を築くためにも、共同生活をする社会性を身に着けてもらうためにも、定期的な食事をおろそかにすることはできなかった。
「店内をご利用いただくことは可能ですが、少し騒がしくなってしまいます。よろしいですか?」
「私は構わないのですが、その、私が居て、ねこさんたちのご迷惑にならないのですか?」
心配そうに言う彼女に、アカリは柔らかい笑みを浮かべる。
「他のお客様でしたらお時間をずらしていただくことも考えましたが、あなたでしたら問題ありませんよ。むしろ、私たち以外の人間がいる環境で食事を摂る経験ができるので譲渡会へ向けての訓練としては歓迎したいくらいです」
本心からの言葉であったため、アカリは屈託なく言う。
「そう、なんですね。では、今から一二〇分でお願いします」
「ありがとうございます。ドリンクはアイスミルクティでよろしかったですか?」
「あっ、はい」
「では、こちらを」
そして、いつものドリンクを差し出しながら、アカリは食器やキャットフードがまとめられたバッグを手に掲げた。
「あっ、お姉さんも一緒に入るんですね」
「はい。おなかをすかせた従業員たちが、今か今かと待ち構えていますから」
言って、入り口の二重扉を指さすと、昼食の気配を察した色とりどりの小さな毛玉たちが次々にガラス戸へ肉球を叩きつけて催促をしていた。
アカリはレジカウンターをもう一人のバイトへと預け、常連さんの背中を押すように、一緒にカフェの中へと入っていった。
「この間、本屋でお会いしましたよね?」
形も色も大きさもバラバラのお皿をいくつも並べ、アカリは手際よくカリカリを分け入れながら言う。
「あっ、はい。ショッピングモールで、漫画本を買われた時ですよね」
「よかった。わたし、間違えて全然知らない人に声かけちゃってたんじゃないかって心配していたんですよ」
アカリが苦笑しながら言うと、彼女は目に見えて小さくなるほどに縮こまってしまった。
「その、すみません。私、人とお話するのが少し苦手で、咄嗟に言葉が出て来なくて……」
「ううん、私もね、ちょっと反省してるんですよ。普通、びっくりしちゃいますよね。いきなり知らない人に話しかけられたら」
アカリの足元では食事を求める仔猫たちが渦を巻くように押し寄せていた。
まるで洪水のような無秩序な群れであったが、アカリが指示を出すと彼らはまるで牧羊犬に追われる羊のように行儀よく動き、それぞれのお皿の前に並ぶ。そして元気いっぱいに口を動かし始めた。
「すごい……」
「せっかく常連になってくれたのに、最近は来店されていなかったじゃないですか。ひょっとして、いやな気分になってもう来なくなっちゃったらどうしようって不安に思っていたところだったんですよ」
「あ、いえ、私こそ、変に心配させてしまっていたみたいで、すみません」
「ミキさんでいいのかな?」
「えっ」
「本屋で、名札見ちゃったから」
「あ、ミツキって言います。三つの木と書いて、ミツキ。三木静香、です」
「なんか、ぴったりって感じな名前だね」
「そう、でしょうか」
シズカは目を伏せて顔を少し赤くさせる。
そして、なにかをごまかすように、一足先に食事を終えて丸くなっていた仔猫の額を撫でた。
「私はアカリ。日向灯里」
「あ、ぴったりって感じのお名前ですね」
「でしょ。私もそう思う」
はにかむように、アカリは笑う。
あたりが、俄かに騒がしくなってきた。
お行儀よく食事をしていた仔猫たちも、要領の良い子たちから順に食事を終えていた。お腹が膨れて元気いっぱいになった仔猫たちが、所狭しとはしゃぎ始めたようだ。
アカリは、普段より食が細かったり遅かったりする子がいないか一匹一匹確認しながら、空になった食器を片付けていく。
そのとき、じゃれあっていた仔猫が二匹、勢いよく転がってきた。
「あっ」
アカリとシズカの声が重なる。
直後、同時に伸ばされた二本の腕の間をすり抜けるように、二頭分の転がる毛玉が、まだ食事中だったひときわ小さな仔猫にぶつかってしまった。
弾き飛ばされてしまった仔猫は、一瞬名残惜しそうにごはんの残る皿に視線をやるが、やがてとぼとぼと部屋の隅にあるケージへと歩いていき、身を潜めてしまった。
「こら、クリーム、ダイフク。小紅の食事の邪魔しちゃダメでしょ。元気なのはいいことだけど、小さい子がまだ食べてるんだから、遊ぶときはちゃんと広い場所で遊ぶこと」
アカリに名指しで叱られた二匹の猫は、同時ににゃあと鳴いて、しずしずと開けたエリアへと歩いて行った。
「ほら、小紅。戻っておいで」
アカリはケージのほうへ体を向け、先ほどの仔猫を手招きする。
すると、さきほどまで怯え切っていた仔猫がゆっくりとケージから出てきて、再びカリカリと小さな音を立てながら食事を再開した。
そこまで見届けてから、アカリは「やれやれ」と苦笑してから、再び食器を片づけ始める。
「あの、日向さん」
「アカリでいいよ」
常連のお客さんに名前を覚えてもらったことで気分を良くしたアカリは、愛嬌三割増しの笑顔を張り付けて振り返る。
「じゃあ、アカリさん」
「なに?」
「その、すっごく変なこと聞いちゃっても大丈夫ですか?」
「なになに、そのワクワクする前振り。いいよ、なんでも聞いちゃって」
「もしかしてなんですけど、アカリさんって、魔法使えたりしますか?」
まっすぐな目で、シズカは言う。
アカリは思わず口をポカンと開けてしまう。
冗談の類ではないことは、目を見ればわかった。
「もしそうだったら、私にも魔法を教えてほしいんです」
畳みかけるように、シズカはさらに顔を寄せて言う。
たっぷり三秒。アカリは脳をフル回転させ思案する。
もちろん、『はい、わかりました』と答えるわけにはいかない。
一介のフリーターでしかないアカリに、魔法など使えるはずがない。
カボチャを馬車に変えたことは一度もないし、お姫様を眠らせる毒りんごの作り方だって知らない。
当然、ホウキで空を飛ぶこともできないから、通勤はもっぱら中古で買ったスクーターだ。
「……私、魔法なんて使えないよ?」
言葉を選ぶようにアカリが言うと、シズカは縋るような顔で何かを言おうと口を開きかけるが、そこから次の言葉が出てくることはなく、やがてアカリの言葉の意味を丁寧に咀嚼するように飲み込み、緩やかに表情をフラットへ戻していく。
「いえ、その、すみません。そう、ですよね。急に変なこと言ってしまってすみません」
「私は全然気にしないからいいけど。その、なんかゴメンね?」
アカリが言うと、シズカは口をもごもごと動かして、そのまま黙りこくってしまう。
顔が、リンゴのように赤くなっている。
「ねえ、ミツキさん」
「……あ、はい、なんでしょうか」
「来週の日曜日、なにか予定ある?」
「日曜日、ですか? 日曜日でしたら、たいてい図書館に行くことが多いですが、予定らしい予定は何も……」
「だったら、ちょっと一緒にデートしない?」
「へあ?」
照れて真っ赤になるほどに、なんともかわいい覚悟で頼ってくれたのだ。
折角なので、ちょっと調子に乗ってデートに誘ってみるくらい、バチは当たらないだろう。
そして週末。上空は青空と白い雲が半分ずつの絶好の行楽日和。
二人は動物園の入り口に立っていた。
アカリは控えめな色合いのカジュアルコーデに青いバケットハット。シズカは猫カフェでよく見かける恰好に、何かに気を使うように、ベージュ色の小さなキャップを頭にのせていた。
「はい、これシズカの分」
「あ、わざわざありがとうございます」
先だって買っていたチケットを手渡すと、シズカはポーチから財布を取り出す。
アカリは、財布を開きかけていたシズカの手をそっと押し戻す。
「気にしなくていいよ」
「そういうわけにも……」
「いいって。私が誘ったんだから。デートってそういうもんでしょ?」
「そういうもん、なんですか?」
そのまま聞き返されても、アカリとてデートなぞしたことがなく、どこかで聞いたような言葉をなぞっただけだ。説得力のある答えを持っているわけではないので鼻歌を歌ってごまかした。
「なんとなくで動物園を選んだんだけどさ、いざこうやってゲートを目の前にすると少しわくわくしてくるね」
「そうですね。私も、ここに来る時はいつもわくわくします」
「シズカは時々来てるの?」
「はい。定期的に」
「ありゃ。じゃあ場所選び失敗しちゃったかな」
「いえ、いつもは一人ですので。だれかと一緒に来るのは、たぶん初めてで、とても新鮮で、少し多めにわくわくしています」
そう言ったシズカの瞳は、いつもより光が強いように思えた。
本音なのか、あるいは、ただ気を使ってくれただけなのかはわからない。
だが、どちらにしろ、だ。
アカリは思わず口元が緩む。
「おすすめの場所とかあるの?」
「アカリさんに楽しんでいただけるかどうかは分かりませんが、私がいつも通っているルーティーンみたいなものならあります」
「じゃあ、そこ案内してよ」
「私の好みでいいんですか?」
「それを、是非お願いしたい」
「では、まずはモルモット広場に行きましょう。ふれあいコーナーが人気なんですけれど、整理券が先着順ですので」
熱のこもった口調で、シズカが言う。
ただそれだけのことで、デートに誘ってよかったなとアカリは思った。
お昼は園内のカフェでサンドイッチとフライドポテトを二人で分け合いながらつまんだ。
入園してから二時間。
比較的規模の大きな動物園ではあるが、一人であったならばぐるっと一通りまわり終えて、夕方からのバイトに備え帰宅を考えていたころだっただろう。
しかし、今日はまだ半分も回れていない。
アカリは猫好きではあるが、動物全般が好きというわけではない。
だから、普段であれば足を止めることなく素通りするような場所も多いはずだったのだが、シズカが熱心に動物たちの解説をしてくれたおかげで自然とあちこちで足が止まった。
つい先ほども、大きなガラス越しにコアラの親子を見ながら、有袋類特有の育児方法について嬉々として語ってくれたところだ。
アカリにとっては、話の半分以上がちんぷんかんぷんで気の利いた感想を言うこともできなかったが、決して退屈ではなかった。
分からないなりにも知らないことを知ることは新鮮だったし、楽しそうに話をしてくれるシズカの様子にアカリは心地よさを感じていた。
「シズカはさ、本当に動物が好きなんだね」
ポテトをかじりながらそう言うと、シズカは飲んでいたアイスティーを吹き出して、けほけほと咳き込んだ。
「えっ、違った?」
「いえ、その、はい。好きです、動物。小さいころから。アカリさんのお店にいるねこちゃんたちもそうですけど、ほかにもゾウも、コアラも、犬も、サルも、キジも。私、たぶん動物全部が好きなんです」
自分のことを語るシズカは、少しだけ顔を赤くしてぎこちない笑顔を浮かべる。
「ただの思い付きだったけど、ここを選んでよかったよ」
「はい。私とても楽しいです。二人だとこんなにも楽しいんですね」
言って、シズカは両手で包むように持っていたアイスティのカップをテーブルに置く。
「アカリさん。今日は誘っていただいてありがとうございました。そして、お気を使わせてしまって申し訳ありません」
まっすぐな視線と、まっすぐな言葉。
アカリは、意図的に口調を軽くして言う。
「別に、気を使ったわけじゃないよ」
「そんなはずはありません。私みたいな変な人間と一緒に過ごすために貴重な週末にわざわざ時間を作ってくれるなんて、どう考えたって合理的じゃありませんから」
「ひょっとしたらさ、シズカは私に『つき合わせちゃってる』って負い目みたいなものを感じているのかもしれないけれど、それは違うからね。誘ったのは私だよ? 私がシズカとデートしたいって思ったから、私が誘った。迷惑だなんて思うわけないじゃん」
「ですが、やはり合理的な理由が思いつかないんです」
まじめな子だなあ、とアカリは思う。
――当然、理由はある。
しかし、それはシズカが求めるように合理的に説明できるようなものではなく、直感的であり、なかば衝動的なものだ。
「ん-、理由になるかどうかわからないけれど、シズカさ、あの日私に、『魔法が使えますか』って聞いたでしょ?」
シズカは瞳に不安の色をにじませ、こくりと頷く。
「だから、ちょっと確かめたくなっちゃってさ」
「確かめる、ですか?」
アカリは、少しだけ思案してから、不意にポテトをひとつつまみ上げる。
どこにでもあるようなきつね色のそれを、目の高さに掲げる。
「ねえ、シズカ。『このポテトは何色?』って聞いたら、シズカはなんて答える?」
シズカの、息をのむ声が、はっきりと聞こえた。
「――――」
「やっぱり、答えにくいよね?」
「ご存じ、だったんですか」
「常連さんだもん。ウチでジュース頼むとき、いつも色間違えてたし、青いジュースなんて置いてないのにどうしてだろうって考えたら、なんとなくね。私も同じだから」
「えっ?」
努めて、感情を抑えた声でアカリは言う。
「私の場合は、触覚だけどね。シズカは、やっぱり味覚?」
「――はい」
「そこが、同じで、さらに同じ猫好き仲間だからかな。共感できたから。だから、なんとなく、あのとき分かっちゃったんだ。シズカが言った言葉の意味」
同族だけが分かる、予感のようなもの。
「シズカはさ、あのとき『魔法を教えてほしい』って言ってたけど、本当に言いたかったことは少し違うよね?」
――自分も、同じだったから。
「本当に言いたかったことは、『動物とお話する方法を教えてほしい』でしょ?」
アカリは、指先で弄んでいたポテトを口へ放り込む。
「……本当に、魔法のように当ててしまうんですね」
「さっきも言ったけど、何となくだよ。合理的でいて無欲そうなこんな控えめな子が、魔法なんて夢物語に縋ってまで叶えたいことって何だろうって考えたら、それくらいしか思いつかなかったんだ」
「それが子供じみた夢物語だってことはわかっているんです。でも、あの日、まるで魔法みたいに猫さんたちとお話ししているアカリさんを見て、衝動的に思っちゃったんです。私も、こんな風に動物たちとお話ができたらなあ、って」
「シズカはさ、どうして動物とお話がしたいって思うの?」
「――半分は好奇心です。動物が好きな人だったら一度は考えることじゃないですか。子供のころにアニメで見た、使い魔の黒猫とお話しする魔女見習いの子とか、やっぱり憧れるじゃないですか」
アカリは苦笑する。そのコメントには同意するしかない。
「じゃあ、もう半分は?」
「もう半分は、もっと実用的で、――とても利己的な理由です」
「どういうこと?」
「私が大学生だって話、しましたっけ? いま私、大学で動物のお医者さんになるために勉強しているんです」
「初耳だよ。すごい、将来は獣医さんだ」
「はい。だけど、私、こんな性格、じゃないですか。私みたいな、――人間相手ですらまともに話せないような私みたいな人間が、言葉すら通じない動物のことをちゃんと分かってあげられるのかなって」
「心配しすぎじゃない? ほとんどの獣医さんは動物の言葉なんてわからなくてもやっていけてると思うよ?」
シズカはふるふると首を振る。
「さっきアカリさんは、私のことを無欲そうっていいましたよね? そんなことありません。私はとても欲深いんです。私は、誰よりも優れた獣医になりたいんです。ほかのどこの先生も匙を投げてしまうような難しい子でも救ってあげられるような、そんな神様みたいなお医者さんに。だから、動物と会話ができるようになって、どこが痛いとか、何が怖いとか、患者さんたちのことをもっと知りたいんです。そういうことがわかるだけで、診断の効率は格段に上がりますから」
シズカは自分の首に自分で断罪の刃をあてるように、そう言った。
しかし、それが我欲ではないことは誰にでもわかる。
彼女の行動はすべて、動物本位だ。人でありながら、動物たちと対等の位置に立っている。
だから猫カフェでも、ほかのお客さんのように“猫と遊びたい”という人間本位の欲を全面に押し出したりせず、あくまで猫たちに寄り添う。それは、動物が好きでありながら、動物たちと対等に向かい合おうとする人だけが持つ考え方だ。
「……ねえ、シズカ。これはもしもの話だけれど、シズカが動物とお話の出来るようになったとして、“獣医として”動物の言葉を理解できるようになるってこと。その意味は、ちゃんとわかってる?」
抑揚のない声で、ゆっくりとアカリは言う。
アカリの言葉にシズカは顔を上げ、まっすぐに口を結ぶ。言葉の意味は、たぶん伝わった。
そして、こくりと、確かに頷いた。
「わかってるんだね。それでも、やっぱり動物の言葉を聞きたいと願う?」
「たとえそうだったとしても、私はそれを望みます。動物の役に立つことが、獣医として最優先の使命ですから」
ざわつく胸に蓋をし、アカリは目を細める。
「シズカは、きっと立派なお医者さんになれるよ」
そして、少し悲しそうに笑った。
駅前の商店街。その端の端。
すでに夜の帳が下りた商店街を、古い街灯がぼんやりとした明かりで照らしていた。
この時間帯になると、駅近くの飲食店が立ち並ぶエリアならともかく、この辺りを通る人はほとんどいない。
保護猫カフェ『はしわたし』も、ドアにはすでにCLOSEDの札がぶら下がっている。
「――って言うんだよ。なんだか、わたし少し感動しちゃったよ」
ほかの従業員はみなすでに退勤している。店内に残っているのは夕方からシフトに入り店じまいをしているアカリひとりだけだった。
「えー? そりゃそうよ。動物のお医者さんになろうって子が動物の声を聴きたいなんて、よほどの覚悟がなきゃ言えないセリフだよ」
一人ではあるが、独り言ではない。
彼女が顔を向ける先には、真っ白で真ん丸な、一匹の猫がいる。
「にゃあ」
「でしょ?」
――アカリには、秘密があった。
幼いころから続けていた一人遊びの延長のようなものであったため、いつからそれができるようになったか明確な記憶はない。
気が付けば、アカリは猫の言葉が分かるようになっていた。
不思議なもので、猫の言葉が分かるようになると、今度はアカリの言葉が猫たちに通じるようになった。
むろん、このことはおおっぴらにしてはいない。
家族や友人にもほとんど話をしたことはない。
猫好きだからこそ、『猫とお話ができる』とのたまう人種に向けられる視線の生暖かさをよく知っている。
秘密を明かしているのは、同じ特技を持つもので集まっている小さなコミュニティの同士のみ。
インターネットの世界は広大で奥深い。
決して数は多くなかったが、深く深く潜っていけば、アカリと同じように動物とコミュニケーションが取れるという本物と何人か知り合うことができた。
アカリを含め、彼女らの特殊能力は各々の生活と密接に関連している動物に限定されていた。そのため、犬猫を相手に会話ができる者たちが圧倒的に多数あったが、馬や、フクロウや、中にはヘビなどといった動物と会話ができるという者もいた。
コミュニティに集まるメンバーには、一定の共通点があった。
ひとつ、女性であること。
ひとつ、動物たちと話がしたいと強く願った経験があること。
ひとつ、動物たちと対等な関係を持てること。
そして最後に、共感覚の持ち主であること。
――共感覚。
五感を通して得る情報が常より多いという特殊体質。
アカリは、ものに触れたときの触覚を音として捉えている。
この特性のせいで昔から厄介ばかりで悩むことも多かったが、結果として今は感謝している。
大好きな猫たちとこうやって気持ちを共有することがができるようになったのだから。
「シズカの覚悟は、並大抵の覚悟じゃない。もし私が同じ立場だったら、たぶんできないって言う。でも、彼女はそれが自分の役目だからって言ったんだ」
「にゃあ」
シズカも共感覚の持ち主だ。彼女の場合、おそらく味覚に色が見えている。
条件は揃っている。
彼女の意思の強さと才能とを鑑みれば、アカリと同様、じきに動物たちの言葉が分かるようになるだろう。
それこそ、猫だけでなく、ありとあらゆる動物たちの言葉が。
――それは、ひどく残酷なことだ。
「だって、獣医は動物に嫌われる。絶対に。ダイフクも、心当たり、あるでしょ?」
ダイフクと呼ばれた丸い猫は、少しだけ考えるように中空を見たあと、話をそらすように後ろ足でカッカッと首を掻く。
「獣医に向かって放たれる言葉なんて、悲鳴や恨み言ばかりに決まっている。それを、獣医の卵である彼女が知らないはずがない。無類の動物好きのあの子が、どれだけひどい言葉を投げかけられようとも、病気のわずかなヒントを拾えるかもしれないという理由で動物の声が聴きたいって言うんだ。名誉や報酬ではなく、純粋に動物たちを救いたいという気持ちからの願望でだよ?」
「にゃあ」
熱っぽく語るアカリをよそに、丸猫は興味をなくしたようにあくびをしてから顔をうずめて丸くなる。
アカリはやれやれと肩をすくめ、猫の毛をからめとったコロコロをゴミ箱へとしまう。
獣医を志す彼女と違い、自分はただの猫好きのフリーターでしかない。だから、自分にできることなど、そう多くない。
けれど、もし、彼女が挫けそうになったときは、いつでも支えられるように近くでそっと寄り添おうと思う。
明るいだけが取り柄の自分でも、励ますくらいのことはできるだろうから。
そのとき、傍らに置いておいたスマートフォンがポコっと鳴る。
見ると、シズカからLINEの着信があり、丁寧な言葉で今日のお礼がしたためられていた。
アカリは静かに笑い、猫のスタンプをひとつ、返信した。
―了―




