シーマンの自我
小2の頃私は名古屋に住んでいて、近所に住む二学年上のY君の家に妹と度々遊びに行っていた。Y君の家は金持ちでバカデカい液晶テレビと最新ゲーム機を保有しており、Y君がドリームキャストのソニックアドベンチャーやニンテンドウ64のドンキーコングなんかをプレイしている様を私と妹は後ろの隅でじっと眺めて、最新鋭のゲームグラフィックを思う存分堪能していた。Y君のお母さんはそんな私と妹の姿を不憫に思ったのかY君に「たまには遊ばせてあげなさい」みたいな事を言うこともあったが、実際に遊ばせて貰った記憶はほとんどない。しかし私は3Dのゲームプレイに苦手意識を持っていたし、ゲーム視聴に飽きたら手持ちの携帯ゲーム機のゲームボーイカラーでポケモンピンボール等のゲームを遊ぶこともできたので特に不平に思ったことはなかった。(本来ゲームは一日1時間までと定められていたが、Y君の家で遊ぶ分には無制限だったので、私と妹にとって最高の環境であった)またY君は巨大液晶テレビでタイタニックのDVDを見せてくれた事もあった。中でも印象的なのはラブシーンが始まった時で、Y君が「これは、あの……まああれだから、まあ飛ばすね、いいよね」みたいな感じでさも恥ずかしそうに早送りしているのに、私の方はカマトトぶって「なんかしらんけど焦ってるなあ」と妙に冷静だったのが記憶に新しい。
しかし何より記憶に残っているのは、ドリームキャストのシーマンのとある発言である。シーマンは人面魚のようなキャラクターであるシーマンにマイクで話しかけるゲームで、話しかけるとおっさんっぽい反応が帰ってきて楽しいゲームであった。しかし正直ゲーム性はそんなに深くなく、話しかけたりエサをあげたりくらいしかやる事がないため子供には飽きやすいゲームでもあった。そういうわけでY君も早々にシーマンに飽きてしまい、もっぱらソニックアドベンチャーをプレイするようになった。ソニックアドベンチャーはグラフィックも美麗で多彩なキャラクターを操作できる大ボリュームで看板タイトルだけあってみているだけでもとても面白いゲームだった。
そんなこんなで埃をかぶっていたシーマンであったが、Y君の気まぐれで久々に起動されることに。するとシーマンがとんでもない事を口走ったのである。「お前、最近ソニックアドベンチャーっていうゲームにハマってるだろ?」瞬間、Y君も、妹も、私も、完全に固まっていた。空気が凍っていた。何故お前がそれを知っている? お前は、ゲームのキャラの筈なのに、何故Y君がソニックアドベンチャーばかりプレイしている事を知っている? 訳が分からなかった。混乱の坩堝に陥った私たちに、シーマンは続ける。「他のゲームにハマるのもいいけどさ、たまにはシーマンも遊んでくれよな」
「なんで? すごい! どうなってんの!? 何でしってんの!? 何で?」
私たちは異口同音に叫び盛り上がっていた。訳が分からなかった。訳が分からなかったが、とにかくすごいとしか言いようがなかった。こういったメタ演出は今でこそ珍しくもないし、原理としてもメモリーカードのデータを参照してフラグを立てただけで技術的にもそこまで高度でもないだろう。しかしゲームのキャラはゲームの中だけの存在だという不文律を信じ切っていた私にはこの演出は相当な衝撃であった。
「シーマン天才! シーマンすごい! シーマン天才!」私達は何度もシーマンを褒めたたえた。シーマンは普段通り飄々と「まあな」とか返すばかりだったが、あの事件以来私にはシーマンが自我を持った存在にすら感じられ、畏怖の念すら抱くようになったのであった。
……結局シーマン自体には飽きてしまいY君も殆ど起動しなくなったが、それはまた別のお話である。