どうしてこんなエッセイを書いたのか
私は文学作品を書くようになってから暗い作品ばかり書いて来たが、坂口安吾作品と出会ってからだいぶ考え方が変わって、「作品と言うのは明るくなければならない」と思うようになってきた。ここでいう暗いとか明るいとかは表面的な事ではなく、作品の根幹が暗いか明るいかという話である。そういう意味ではシェイクスピアもドストエフスキーも根本的には明るいと思っている。優れた文学と言うのは、作者によって登場人物の生が強烈な「意味」として扱われている。これは私には大変明るく感じられる。逆に表面的に明るくても作者の願望が作品世界を歪めているようでは、その作品は現実への憎悪により成り立っている訳で根幹は暗いと言わざるを得ない。
まあ根幹が暗くても表面が明るいなら賑やかしにはなるし商業的には価値があったりするのでまだマシだが、表面も根幹も暗く「人生に意味がない」程度の事しか言っていない作品は本当に救いようがない。そもそも「人生に意味がない」という暗い考えから作品を作る人間は「作品にも意味がない」という結論に至る筈である。その矛盾に気付かずに暗いだけの作品をドヤ顔で出されても反応に困ってしまう。作り手は作品を通して何らかの意味や価値を提示しなければならない。それこそが作品の本質でAIには全く真似できない事だ。
ところで人生そのものを一つの大きな作品と捉える事もできるのだが、だとしたら私の人生にはどんな意味があるのだろうか。……これがなかなかというか、途轍もなく難しい問題である。私にとってはかけがえのない毎日で~なんて嘯いても他人からしたらどうでもいい事だろうし、かといって私の存在の社会的意義を説こうにも、大して役に立っている訳でもないしやっぱりどうでもいい。結論を出す事をあきらめていたのだが、セールになっていたから買ったちびまる子ちゃんを読んで一筋の光明が見えて来た。
ちびまる子ちゃんは子供の頃に図書館で読んだ時も面白かった記憶があるが、大人になって読んでみてもなかなかどうして面白い作品である。子供視点で当時の風俗が描かれているのも興味深いが、本来商業ベースで取りざたされないようなまる子や藤木や永沢のようなキャラクターがメインで出て来るのが特異なところである。
普通は商業ベースでどういったキャラクターが受けるのか考えてキャラを作ったり、ストーリーの都合に合わせてキャラクターを作っていくのが常なのだが、作者のさくらももこ氏は「人間とは面白いものだ」という信頼に立った上で人間をじっくり観察してそこからキャラクターを生み出し、キャラクターが主体になる形で作品を形成しているように見える。だからこそ本質的に等身大のキャラクターが描けるのであろう。これは作品に等身大のキャラクターが必要だから等身大のキャラクターという記号を用意するのとは似て非なるものである。
そういうわけで「人間とは面白いものだ」という信頼に立てばどんな人間でも面白く描ける……という可能性をを私は「ちびまる子ちゃん」によって見出す事ができたので、試しに自分の人生を面白おかしくなるように切り取ってツギハギしてみたのがこのエッセイという訳であります。
書いていて「結局私の人生なんて他人にとっては笑われるくらいしか価値がないのかな」とか思ったり「何だかんだで面白いこともあった人生だったな」とか思ったり、悲しいような楽しいような変な感じになったりもしましたが、ちょっとでも楽しんでいただけるか何らかの価値を感じて頂けたのなら幸いであります。