1-7
「うん……」
やや唐突なおっさんからの問いかけに、私は少し戸惑って言葉を詰まらせた。
「何? 言っちゃえばいいじゃん、そのためにおじさんを買ったんだろ? 二千円も出して」
おっさんの優しい言葉に、私はつい気を許した。この親父はどうせ長くても一晩で動かなくなってしまうらしいし、正直に話してしまっていいか、と思った。
「じゃあ。私、五歳の時お父さんが……」
私は話しはじめた。父のこと、母のこと、祖母のこと、真央のこと、学校の自分の成績と生活、理紗のこと。話しだすと愚痴は止まらなくなった。私は途中台所へ行ってペットボトルのジュースとスナック菓子を持ってきて、それを飲み、つまみながら話し続けた。
おっさんは「ふん」「そう」「ほお」などとうまく相づちを打ち、興味深げに聴き続けてくれた。ただあまりに長い私の話に姿勢を保ち続けるのが辛くなったのだろう、話の途中からブリキ缶を降りて机の上に横になり、肘枕をついて愚痴を聴くようになった。その格好のまま、思い出したようにときおり猪口を片手で引き寄せて、その時だけ肘枕から顔をあげて猪口から酒をすする。それでもこちらに向けている顔は真剣そのもので、ちゃんと話を聴いてくれているのが分かった。
私は自分の身の上話に酔い、気持ち良くなってきて愚痴の内容は極端になり、話の中の私はどんどん「かわいそうな女の子・深琴ちゃん」になっていった。とうとう私はガチャポンをする軍資金を得た方法まで話してしまった。
「だからね、お母さんが金あるくせに全然お小遣いくれないから、私おじさんのガチャポンも、援交したお金でやったんだ」
「エンコウ?」
おっさんは肘枕をしながら、つぶらな目をきょとんとさせて言った。
「援交。援助交際」
ばっ、とおっさんは上半身を起した。
「援助交際? 援助交際してんのか、お前? 誰と!?」
おっさんの見幕に私はちょっとびっくりしながら答えた。
「誰と、って。おじさんたちと」
「一人だけか?」
「ううん、これまでに何人か。理沙の話だと一人の人と長く関係を持つと返って危ないって言うし」
おっさんは素早く起き上がってあぐらをかき、
「そのおじさんたちと、その、してるのか? 売ってるのか? 体を」
アルコールで真っ赤になった顔を怒らせて聞いた。私は気まずくなった。
「ううん、ウリはやってないよ。ただ一緒にお茶したり、食事したりするだけ。理沙はウリもしてるけど。だから私がもらえるお金とは全然額が違うけどね」
おっさんはあぐらをかいたまま腕を組んだ。そうしてじっ、と両目をつむった。そのまま数秒経ってやがてカッと目を開き、怒鳴った。
「お前なあ! 話になんねえよ!」
私は声の圧にビクッとなった。その怒鳴り声は部屋の外にも響いたはずで、母がまだ帰っていなくて良かったと思った。いつの間にか時計の針は夜九時を回っていた。
「さっきから聞いてりゃ、確かにお前は辛い生い立ちをしている部分もあるかもしんないよ? 多少グレちゃうのもしゃーないかって思う。でもだからって、援助交際していい理由には全然ならない。お母さん、必死でここまで育ててくれたんだろうが! だいたい金が無いって、小遣い月いくらもらってるんだ?」
「……四千円」
「それで十分じゃないか! ガキが! 金が欲しかったら勉強しろ! 勉強して良い大学なり専門学校なりに入ってもっと勉強して、将来給料良い職場に入んだよ!」
「だけど四千円じゃ友達とも遊べないし、そもそも今お金が欲しい……の」
「お前なあ」
おっさんは更に目をぎらぎらさせた。
「それが甘えだって言ってんだよ! いいか、援助交際っていうのはなあ、親から学費も小遣いももらえないような女の子が、仕方なくするもんなんだよ。それを月四千円が少ないからおっさんとお茶します? この遊び半分が! それでおっさんからちやほやされてちょっとうれしかったりするんだろ? え? どうなんだ!」
おっさんは途中から興奮して立ち上がり、私の顔に向けて指をさして激しくまくしたてた。
(なんでこんなに怒られなきゃいけないの)
私は若干泣きそうになりながら、
「でも私が援交しても、誰にも迷惑かけてないし」
「ほら出たな! ほら出た! 迷惑かけてない。言うと思った! お前なあ、お母さんがこのこと知ったらどう感じると思う? お母さんに、『迷惑かけてないからいいでしょ』って言えるか? そんなん関係なく、お母さん無条件で悲しむんじゃないか? だからダメなんだよ援助交際なんてものは! 無条件で、絶対的にダメなんだ! ダメだからダメなんだ! だいたいお前、そんなこと続けてもし危ない男に当たったらどう責任とるんだよ? その時になって大人に泣きつくんと違うんか? ははは、だんだんノッてきたぞ」
おっさんはここまでわめき散らすと、立った状態で左右に首をひねってコキコキ骨を鳴らして、ニヤッと笑った。
「昔を思い出すな。なんでこんなに俺がお前のことを怒るか教えてやろうか? 楽しいからだよ! 教えてやる。俺はな、生前普通の人間だった時、高校中退してしばらくぶらぶらして、ホストになったんだ、歌舞伎町の。ホストなんてありゃあやるもんじゃない。ぶっさいくなおばさんにへこへこして、ご機嫌とって、それでなじられて怒られて吐くほど酒飲まされて。女の底意地の悪さってものを、俺はその時嫌っていうほど知ったよ。いつか女に復讐してやるって心に誓った。
そうしてホストを続けるうちに、常連の客が、自分が勤めている会社の営業職のポストが空いたから、良かったら働かないかって声を掛けてきたんだな。ホストなんてもう続けたくなかったから、俺は二つ返事で受けることにした。すんなり面接を通って、採用された。
会社はそこそこ大手の化粧品会社で、俺は営業職を務めることになった。南関東の百貨店やらショッピングストアーに出店している自社の化粧品販売店を回って、店の立ち上げを手伝ったり美容部員の教育をしたり、売り上げを管理したりする仕事だった。
二年その仕事を続けていたら、南関東営業部の主任ってポストに就けられた。そうしたらな」
そこで少しおっさんの話は途切れた。私が見ると、彼は酔った顔をぷるぷる震わせて再び目を閉じ、何かを思い出しているようだった。おっさんは目を開くと、恍惚とした表情で、
「気づいたら、俺は社の販売店の美容部員をいくらでも説教できる立場になっていたんだ。化粧品販売店の美容部員、分かるだろう? 大抵若い女性で、ぱっちりメイクしてスーツを着て小さなブースの中にしゃきっと立ってる、きれいめのお姉ちゃんたち。あの子たちをいくらでも怒れる役職に、いつの間にか俺は就いていたんだな。
それから俺は南関東中の社の美容部員たちをまんべんなく説教するようになった。とある販売店にマネジメントのために行くと、その夜に美容部員誰か一人をよく飲みに連れていって、自分でもうんざりするくらい叱ってやった。泣く子がいる。怒りに震える子がいる。めんどくさそうに聞き流そうとする子がいる。そこに更に説教を加えて、めちゃめちゃに蹂躙してやる。――快感だった。ホスト時代に女たちから受けた侮辱を、濯いでいる気がした。
俺は毎週のように美容部員と飲みに行き、説教した。新人はもちろん、煮ても焼いても食えないようなベテランの美容部員も時には誘って、それを説教で屈服させることが趣味になった。美容部員たちが屈従の涙を目に光らせる瞬間、それが俺の心を何より癒した。
一年近くそれを続けていたら、美容部員たちが会社に訴えてあっさりクビになったよ。それでも俺は後悔していない。間違いなく人生で一番充実していた一年弱だった。その後は職を転々として、遊ぶ金ができるとキャバクラに行ってキャバクラ嬢を説教してうっぷんを発散していたけど……、今日は久しぶりにあれだな、心ゆくまでお前を説教して楽しめそうだ。まだまだ夜は長いだろ? ははは。さてどこまで説教したっけ? ああそうだ、援助交際なんてしていてもし危ない男に当たったらって話だったな、さあ行くぞ、だいたいお前は――ぷぎゃんっ」
気がついたら私は説教を続けようとするおっさんを右手で思いきりビンタしていた。
おっさんは横に吹っ飛んでいき机から一メートルほど左にある壁にぶつかり、跳ね返って壁と机の間の床に落下した。壁にぶつかった時、どすっという鈍い音を立てた。私はふーっ、ふーっと怒りで息を荒らげていた。
床に落ちたおっさんを見て私は我に返った。勢いよく壁にぶつかったうえ、床の着地にも失敗したおっさんは、右脚を膝のところで骨折し妙な内股になっていた。右腕もあらぬ方向に曲がっていた。更に致命的なことにはビンタが原因だろう、首が折れて顔が背中側に向いていた。ぴくぴく、その体が痙攣している。
「おじさん!」
やっちまった、と私は素直に思いこわごわおっさんを両手で持ち上げた。首が元に戻らないか指で顔をつまんで正面側に向けようとした。
「ごめんなさい、どうしよう!」
これは動物虐待とかに当たるのだろうか、それとも殺人? いやあくまでおもちゃなんだから……などと自分の罪状について思いをはせると、おっさんは、
「だいじょうぶ……だ。どうせ長くて一晩だけの、命だったから。朝になったら庭へでも、……埋めてくれれば、いい」
とぎれとぎれに言葉を発し、それからがくっと首を垂れた。全身の力も抜け、それを持つ私の左手にふんにゃり体重がかかった。
あとは私がいくら声をかけても反応しなかった。
私はとりあえずおっさんを部屋のゴミ箱に入れた。風呂に入って歯をみがき、髪を乾かし布団にもぐった。しかしそばにいるおっさんの死骸が気になってほとんど寝つけなかった。十二時前に母が帰って来る物音がした。
徹夜した私は翌早朝言われたとおり教職員住宅の裏庭へおっさんを埋めた。埋めるためにゴミ箱から出そうとした際、おっさんの体は再び乾燥していて、ゴミ袋の底に茶色い水が溜まっていた。水からは加齢臭が漂っていた。