第4話 ハイキング 後編
クマが僕を追いかけてきます。
クマは百メートルを七秒台で走ることができるので、本気で追いかけられたら、人間は逃げ切ることができません。
今、僕は本庄さんの後ろを走っていますが、これは非常にマズい状況です。
このままでは、僕のほうが先に食べられてしまいます。
助かるには、なんとかして、彼女の前に出ないといけません。
必死に走って、なんとか本庄さんに追いつき、隣に並ぶと、彼女が僕に向かって、叫びました。
「あんたは私の後ろにいなさいよ!」
「勝手なこと言うな! なんで、僕が後ろにいなきゃいけないんだよ!」
僕はそう言い返すと、そのまま本庄さんを追い抜こうとしました。
その瞬間――。
「あぶなっ!」
僕はつまずいて転倒しそうになりました。
――ですが、間一髪、こらえます。
こんな状況で転倒したら、クマのエサになるのは確実です。
僕は、なににつまずいたかをはっきりと見ました。
地面に飛び出た石でもなく、木の根っこでもありません。
――本庄さんの足でした。
追い抜こうとした僕に、本庄さんが足を引っ掛けたのです。
「なにするんだよ! 転ぶじゃないか! 僕を殺す気か!」
僕は彼女の後ろを走りながら、怒鳴ります。
「あんたが私を抜こうとするからでしょ! 後ろにいなさいって言ってるでしょ!」
本庄さんは、意地でも僕を抜かさない気のようです。
――ああ、そうですか。
そっちがその気なら、こっちも本気を出すことにします。
やられたときは、しっかり、やり返しますから!
一方的に、やられてばかりなんていませんから!
再び、僕が追い抜こうとすると、本庄さんは、またも足を掛けてこようとします。
その瞬間――。
僕は狙いすまして、彼女の足の甲をかかとで思いっ切り、踏みつけました。
「ふんっ!」
「ぎゃあっ!」
足を踏まれた彼女が、悲鳴をあげます。
――やりました!
もとはといえば、そっちが最初に仕掛けてきたんですから、反撃されても、文句は言えませんよね?
自業自得というものです。
足を踏まれて痛いのか、本庄さんの走る速度がみるみるうちに遅くなって、彼女の姿が僕の視界から消えていきます。
「ま、待って、い、行かないで――」
僕のすぐ後ろで、男に捨てられた女が言うような未練がましいセリフが聞こえますが、待つわけにはいきません。
本庄さんを追い抜いて、これで身の安全が確保できたと僕が思った瞬間――。
彼女がとった行動は、人間、命のためなら、なんでもするという、見本みたいなものでした。
追い抜かれた本庄さんは、僕の背負っているリュックを掴んだかと思うと、
「あんたが死になさいっ!!」
そう叫んで、そのまま、勢いよく後ろへ引っ張ったのです。
「うわっ!」
全力で走っている最中に、こんなことをされたら、たまりません。
後ろに引っ張られた僕は、大きく体勢を崩し、地面に転がりました。
地面に体のあちこちをぶつけながら、僕は思いました。
こんなことをするんなら、転ぶとき、彼女の体も掴んで、道連れにしてやればよかった、と。
まあ、今頃、そう思っても、もう遅いのですが――。
◇
地面から起き上がろうとして顔を上げると、前方にクマが見えました。
クマはまっすぐ、僕のほうに向かって突進してきます。
「ひゃあああああ――――!」
僕は思わず絶叫します。
クマは、地面に倒れている僕をターゲットにしたようです。
そりゃ、当然ですよね。
走って逃げる獲物より、動かない獲物を狩るほうが簡単なんですから。
そ、そうです、今こそ、出発前に渡されていた、クマ撃退スプレーを使うときです!
スプレーは――。
ああっ、どうせ使わないだろうと思って、リュックの中に入れたままです!
地面にへたり込んでいる僕は、慌てて、背中に手を回します。
な、なーいっ!
リュックがないことに今、気づきました!
後ろから勢いよく、引っ張られたのと、地面に転がったせいで、リュックがすっぽ抜けて、どこかへいってしまいました。
こうなると、僕がこの場でするべきことは、身を守るか、または攻撃して撃退するかのどちらかです。
身を守るのなら、うつぶせになって、クマの攻撃をやり過ごす必要がありますが、本来なら、プロテクターがわりになってくれるリュックがないので、クマの攻撃をまともに背中で受けることになります。
僕はクマが立ち去ったあとに、血まみれになって倒れている自分を想像します。
あわわわ、想像するだけで、急速に体中から力が抜けていきます。
残るは、攻撃して撃退ですが、レクチャーでは、身の守り方とスプレーの使い方を教わっただけで、クマを攻撃する方法なんて教わっていません。
クマは、もう数メートル手前まできています。
僕に襲いかかってくるまで、あと二、三秒といったところ。
僕の十六年の人生を締めくくるべく、脳裏には、人生の思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていきます。
ま、待って、まだ、締めくくらないで。
そんな中、僕は、子供の頃に見たテレビ番組で、動物の専門家が語っていた、ある言葉を思い出しました。
『クマが襲ってきたら、鼻をパンチかキックして追い払うんですよ。鼻はクマの弱点です。鼻を攻撃すれば、クマは驚いて逃げていきますよ』
子供でもわかる、あまりにも現実離れしたことを専門家が大真面目に語っているので、当時の僕はツッコミを入れながら、笑い転げて見ていた記憶があります。
もう、この専門家のアドバイスに賭けるしかありません!
僕は意を決すると、地面に仰向けの姿勢をとって、クマのほうに足を向けます。
そして、両足を曲げて、限界まで足を縮めます。
クマが僕に襲いかかった、その瞬間――――。
縮めておいた足を思い切り伸ばし、クマの鼻めがけて、両足揃えの渾身のキックを放ちました。
鈍い音がして、僕のキックがクマの鼻にヒットします。
と同時に、僕は衝撃で吹っ飛びます。
地面に突っ伏した僕が頭を起こすと、クマも吹っ飛んで、ひっくり返っているのが確認できました。
「当たった!」
僕は興奮して思わず、叫びました。
でも、渾身のキックをくらわせたにも関わらず、すぐにクマは起き上がります。
キックされた鼻が痛いのか、しきりに手で鼻を撫でているようです。
逃げる気配はありません。
――逃げないじゃん!
机上の空論をのたまう専門家の言葉を信じてしまったことを後悔しましたが、もはや手遅れです。
僕にはもう、怒り狂ったクマに食べられてしまう未来しか見えません。
長く苦しむのはイヤだから、体のあちこちにかぶりつくのはやめて欲しいです。
こちらの希望としては、ひと思いに頭にかぶりついて、瞬時に息の根をとめて欲しいです。
そんなふうに僕は、自分を食べるときのマナーを心の中でクマにリクエストします。
◇
ガサッ。
突然、クマは茂みに入って姿を消しました。
「――――え?」
十秒、二十秒、それ以上たってもクマは現れません。
ようやく、なにが起きたのか、事態を把握できました。
「に、逃げた?」
僕の渾身のキックを鼻にくらったクマは、そのまま近くの茂みに入り、立ち去ったのでした。
「はぁぁ――――――」
全身の力が抜けました。
自分の足を見ると、ガクガクと震えているのがわかります。
恐怖からの震えでしょうか、それとも、クマを蹴ったときの衝撃で足を痛めたせいでしょうか。
気づくと、僕を犠牲にして逃げたはずの本庄さんが、近くまで戻ってきていました。
「ふう。怖かったわね」
彼女がため息まじりに言いました。
僕は、いろいろ言いたくなるのを我慢して、震える足で立ち上がって、深呼吸して息を整えます。
「怖かったじゃないよ! 他人を犠牲にしてでも、自分だけは生き残ろうとする、本庄さんのほうが怖かったよ! 足を引っ掛けたり、後ろに引き倒したりして! 死ねとか言ってたし、僕を殺す気満々だったでしょ!」
本庄さんは「はあ?」と言って、怪訝そうな表情をします。
「なに言ってんの。あんたが先に行ったら、私が喰われるでしょ。そんな顔してても男なんだから、身を挺して女を守りなさいよね。私のような美少女を命にかえて守れたのなら、今まで生きてきた甲斐があるというものでしょ!」
恐ろしく、自己中心的なことを言ってきます。
僕、こういう人をなんていうか知ってます。
サイコパスっていうんですよね。
「もとはと言えば、本庄さんが背中を見せて、走って逃げ出したから、クマが追いかけてきたんじゃないか! 本庄さんが原因なんだよ! 本庄さんさえ逃げ出さなければ、うまくやり過ごせたかもしれないのに!」
僕が本庄さんを非難していると、彼女がボソッとつぶやきました。
「私の着替え、見たくせに」
……うっ。
痛いところを突かれた僕は、思わず、口ごもります。
「いや、見て……ない……けど……」
「なんで、急に声が小さくなるのよ! さっきまでの勢いはどうしたのよ!」
僕の急変した態度を見た本庄さんが、大声で僕を責め立ててきます。
「これで確信がもてたわ! やっぱり見たのね! なにが『見てない』よ! このウソつき! 卑怯者! 許せないわ! 見たことがわかっていたら、山の斜面から突き落としてやったものを!」
ほらね、そんなこと言ってる。
だから、怖くて「見た」とホントのことが言えなかったんです。
第一、あれは、見ようと思って見たんじゃありません。
本庄さんが勝手に、まわりに誰もいないと勘違いして、着替えはじめたんです。
「だから見てないって。誤解だって」
僕はいきどおる本庄さんをなだめるように言います。
ここまできたら、最後まで「見てない」で押し通すしかありません。
本庄さんと言い争っていると、引率の先生がこっちのほうへ歩いてきました。
いつまでたっても僕たちが登ってこないから、GPS信号をみて、僕たちを探しにきたみたいです。
僕が事情を説明しようとすると、本庄さんは僕の前に手を出して、喋るのを制止します。
「なにするんだよ」
「あなたは黙ってて。話がややこしくなるから」
本庄さんは、クマが出たことと、クマはすぐに茂みの中に姿を消したということを先生に伝えました。
…………。
あれっ、話はそれだけ?
僕たちがクマに追いかけられたことと、一番肝心な、僕がクマに襲われたことが、すっぽりと抜けてます。
話を聞いた先生は、慌てたようすで、ほかの先生とスマホで連絡をとりはじめました。
「なんで事実を伝えないんだよっ」
僕は小声で本庄さんに尋ねます。
「そんなこともわからないの? いい? クマを目撃しました、すぐ消えました、だけだったら、直ちに校外学習を中止して、引き上げるだけですむでしょ。生徒が襲われたなんて言ったら、引率の先生の責任問題にまで発展するわよ。場合によっては、誰かクビになるかも。あなた、そんなに先生の処分を望んでるの?」
「の、望んでるわけないだろっ」
そんな後味の悪い結果になるのはゴメンです。
「そうでしょ? それはイヤでしょ? だから余計なことは、言わないのが一番いいのよ」
なんでこういうときだけ、他人に対して、思いやりのあることを言ってくるんでしょうか。
……サイコパスのくせに。
「クマが出たことさえ伝えておけば、今後、山への立ち入りが禁止されるはずだから、人が襲われるとかの被害が出ることはないわ。それで十分じゃない。あなたが余計なこと言ったら、問題が大きくなるのよ」
うーん、なんだか、うまく言いくるめられているような気がしないでもありません。
でも……、納得できる点もあります。
本庄さんがこっちをにらんでいます。
彼女の「余計なこと言うんじゃないわよ」圧がすごいです。
「……わ、わかったよ。じゃあ、本庄さんが先生に説明した通りでいいよ」
「わかればいいのよ」
そう言うと、本庄さんは腕を組んで、勝ち誇ったような顔をしました。
そんな彼女を見ていると、僕のほうが間違ってるみたいに思えて、妙にモヤモヤします。
ただ、冷静になって考えてみると、今回のことは、僕と本庄さんしか知らないことだし、結果的に僕の命は無事で、大きな怪我もなかったから、彼女の言う通り、余計なことは言わずに、さっさと幕引きにする、それがやっぱり「一番いい答え」のような気がしてきました。
……自分の徹底した「事なかれ主義」に、われながら呆れてしまいますね。
クマが出たということが、ほかの先生にも伝わったらしく、すぐに校外学習は中止となり、急遽、僕たちは学校へ戻ることになりました。
なにはともあれ、生きて帰れてよかったです。