第2話 理事長は猫 後編
僕は、猫のいる木を眺めました。
三メートルの高さといっても、猫に手が届けばいいのですから、三メートルも登る必要はありません。
身長の分を含めると、実質、登る高さは二メートルもないはずです。
幹には足をかけられそうなデコボコがあるし、枝の分岐もあるし、履いている靴はスニーカーだから、登れないことはないと思います。
僕も男だから、木登りくらいはしたことがあります。
けど、それは小学生までの話です。
中学生になって以降は、木登りなんてしたことないから、今も、上手く登れるかなんてわかりません。
……はあ。
気が進まないけど、早くやれと急かされているし、やりますか。
僕は深呼吸をして、覚悟を決めると、木に登りはじめました。
もちろん、落ちて怪我したときは、治療費全額、学校持ちで公欠扱いにしてもらうつもりです。
幸いなことに、登っている間、猫は僕のことをじっと見ているだけで、逃げませんでした。
接近してくる僕を見て、もっと高い枝に飛び移ったりされたら、捕まえるのは困難になっていたところです。
猫のいる高さまで登った僕は、足を幹のくぼみにかけて安定させてから、素早く片手を伸ばして、猫の首根っこを掴みました。
「ウニャッ!」
やりました、捕まえました!
首根っこを掴むと激しく暴れたので、すぐに両手で抱きかかえます。
抱きかかえてからは観念したのか、猫は暴れることもなく、大人しくなりました。
よし、あとはここから、慎重に下りるだけです!
そのときです。
捕まえて気が緩んだせいか、不安定な体勢で猫を抱いていたせいか、幹のくぼみにかけていた足がすべって、体のバランスを崩してしまいました。
あっ、やばいっ!
そう思ったときには、もう手遅れでした。
両手が使えない状態の僕は、そのまま木から落下し、腰を地面に強打します。
「がはっ!」
強い衝撃が脳天を突き抜け、目の前が一瞬、真っ白になります。
大きな音と衝撃に驚いた猫が、腕の隙間から脱出しようと暴れますが、しっかり抱いて、逃さないようにします。
ここで、逃げられたら、ここまでの苦労が水の泡です。
正直、こんな状態でも、猫を逃さなかった自分を褒めてやりたいと思います。
でも……。
全身に汗が吹き出ます。
……やってしまった。
腰から落ちてしまいました。
腰は人体の中でも、特に重要な部分です。
最悪の事態が頭をよぎり、恐怖と緊張で呼吸が荒くなります。
と、とりあえず、体が動くか、試さないと……。
僕は猫を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がります。
もし、骨折とかしているのであれば、立ち上がる過程で激しい痛みを感じるはずです。
…………あれ、痛くない?
立ち上がってから、念のため、腰をひねったり、屈伸をしたり、足踏みをしましたが、激しい痛みは感じません。
ほっ、よかった、奇跡的に怪我はなかったみたいです。
「大丈夫かニャ。怪我はないのかニャ」
離れて見ていた理事長が、近寄ってきました。
「だ、大丈夫です。体は正常に動きますし、痛いところもありません」
「そうか、それはよかったニャ。では早速、電源スイッチを押すのニャ。もちろん、さっきとは別の指でなのニャ」
一応、指はトイレで洗ったんだけどな……。
僕は片手で猫を抱くと、さっきとは違う指を猫の肛門に近づけます。
指を入れる寸前、僕は一瞬、考えます。
……今度こそ、正真正銘、アバターロボだよね?
もし、これも本物の猫だった、なんてことになったら、僕はもう、ショックでぶっ倒れるかもしれません。
これがアバターロボであることを祈りながら、僕は指を肛門に突っ込みました。
当然のごとく、暴れる猫。
指先にコツンと、なにかが当たります。
前の猫のときとは、違う感触。
うんっ、今度こそ、間違いない、電源スイッチです!
僕が指先でそれを押すと、今まで、暴れていた猫がくったりとして動かなくなりました。
ミッションコンプリートです。
はあ――――。
やっと、終わりました。
ホッとしました。
足元にいる理事長が、尻尾を振りながら、嬉しそうに話しかけてきます。
「よくやったニャ。お前のおかげで、暴走したアバターロボを無事、回収することができたのニャ。これで十分ニャ。アバターロボはベンチに置いておけば秘書が片付けるニャ」
「あっ、秘書の人、いたんですか」
「いや、今はいないニャ。用があって出かけているのニャ。だから、お前に頼んだのニャ。秘書には、すでにこのことは伝えてあるから、あとでくるニャ」
「そうですか」
学校には、理事長の実務をサポートする、女性の秘書がいます。
ときどき、理事長(猫)と一緒に歩いているのを見かけるので、近くにいるのなら、その秘書に頼めばよかったのに、と僕は思ったのです。
あー、でも、仮にいたとしても、女性に木登りなんて無理だろうから、結局は、僕じゃない別の男子生徒が木に登るハメになっていたかもしれません。
◇
僕は言われた通り、動かなくなったアバターロボをベンチに置きます。
「そうだ、少年、名前を聞かせるニャ。名前をまだ聞いてなかったニャ」
理事長が聞いてきました。
「名前ですか? 僕は一年九組の上里睦月です」
「わかったニャ。覚えておくニャ。今回のことで、お前には借りができたのニャ。ご苦労だったニャ」
「い、いえ。お役に立ててなによりです。じゃあ、僕はこれで失礼します」
理事長に挨拶をして、立ち去ろうとしたところで……。
おっと、忘れてました、これだけは言っておかないと。
「あの、今度から、こんなことのないように、アバターロボには、首輪をつけておいたほうがいいと思いますよ」
僕がそう言うと、理事長はうなずきました。
「そうだニャ。こういうことが起こるとは思わなかったから、油断していたのニャ。首輪をつけていれば、一目でアバターロボということがわかるから、余計な苦労をすることはなかったのニャ。早速、そうするニャ」
よかった、これで、今後、僕のような目にあう人は、いなくなるでしょう。
今日は、理事長に振り回されたおかげで、ずいぶんと疲れました。
まあ、これから、自宅に帰っても、また、疲れることが待っているのですが。
◇
僕は自宅に向かって歩きながら、今日の夕食のことを考えていました。
僕には両親と、二歳下の妹・陽菜がいます。
両親は共働きでいつも帰宅が遅いので、我が家では、自分たち、つまり、僕と陽菜の二人で協力して、夕食を作って食べるルールになっています。
でも、陽菜は今まで一度も、夕食作りに協力してくれたことはありません。
キッチンに立つのは、いつも僕一人で、陽菜はリビングでスマホやテレビを見ながら、ソファーに寝っ転がって、夕食ができるのを待ってるだけです。
夕食で使う食材の買い出しすら、したことはありません。
なんていうか、陽菜は、兄である僕に甘えきってるというか、頼りきってるというか、そんな感じで、ホントになにもしないのです。
唯一、夕食関係ですることといえば、食べたあとの食器を食洗機の中に入れること、くらいでしょうか。
いつもなら、それでもいいのですが(ホントはよくないけど)、今日は、切実な問題を抱えているので、夕食作りに協力してくれるよう、あらためて、陽菜に頼んでみることにします。
◇
家に着きました。
玄関には、陽菜の靴があるので、すでに帰宅していることがわかります。
僕が玄関で「ただいまー」と言うと、しばらくして「おかえりー」という、陽菜の声がリビングから聞こえてきました。
僕は玄関で靴を脱ぐと、そのまま、洗面所へ直行して、もう一度、指を念入りに洗います。
洗い終わると、二階の自分の部屋で着替えて、リビングへ。
リビングには、部屋着に着替えた陽菜がソファーに寝っ転がり、スマホをいじっていました。
上里陽菜。
公立中学に通う、中学二年生。
髪をツインテールにしているせいか、幼く見えて、いかにも、妹キャラっぽい感じがします。
結構、かわいい顔をしてるので、学校ではモテるんだろうな、とは思いますが、本人からは、好きな男子の話とかは、聞いたことがありません。
陽菜は僕と同じで、部活に入ってないので、僕と帰宅時間がかぶることがよくあります。
あまりに帰宅時間が早すぎて、友達がいるのか心配になりますが、よくスマホで誰かと話してたりするので、友達はそれなりにいるのではないかと思います。
性格は……、ひとことで言うと、わがままですね。
小さい頃から、僕が陽菜のためになんでもしてあげたので、そのせいかもしれません。
さて、妹の紹介はこれくらいにして。
僕はソファーで寝転がっている陽菜に言いました。
「なあ、今日の夕食作るの、たまには陽菜も手伝ってくれない?」
陽菜は僕のほうを見ることなく、間髪入れずに返事をします。
「手伝わないー」
想像していた通りの言葉が、返ってきました。
まあ、どうせ、頼んでも手伝ってくれないだろうな、と思ってたので、驚きはしませんが。
でも、なんでしょうか、この「私は食べるのが専門で、作るのは専門外」と言わんばかりのふてぶてしい態度は。
もし、僕が部活とかに入って、帰りが遅くなるようになったら、一体、どうするつもりなんでしょうか。
僕が帰るまで、腹ペコの状態で待ってるんでしょうか。
いや、そんなことは、絶対にできないはずです。
夕方の六時前でも「お腹へったー」を連呼してくるくらいですから。
「あのさー」
陽菜はスマホをいじりながら、僕に話しかけてきました。
まだ、なにか言いたいことがあるみたいです。
「お兄ちゃんは、夕食作るのに慣れて、手際もいいじゃん。でも陽菜はさ、夕食作ったことないから、手際が悪いんだよ。そんな陽菜が、お兄ちゃんの手伝いをしたら、お兄ちゃんの足手まといになるのが、目に見えてるよ。ホントは陽菜も手伝いたいんだよ。でも、手伝うと、お兄ちゃんの邪魔をしちゃうから、我慢してるんだよ。陽菜だって、お兄ちゃんばかりに夕食を作らせて、ホントは心苦しいんだよ」
ウソばっか!
言い訳もひどいです!
あーあ、どうして、こんな言い訳をする妹に育っちゃったんだろう。
育児に悩む親の気持ちが少しだけ、わかったような気がします。
これは、兄である僕のせいでしょうか。
甘やかし過ぎたから?
責任感じるなあ。
僕はガクッと肩を落とします。
……さて、どうしよう。
猫の肛門に指を突っ込んだので、夕食を作りたくないと言えば、他人事ではないので、手伝ってくれるのかもしれませんが、それを言うと、当然、理由を聞かれてしまいます。
陽菜のことですから、理由を聞いたら、僕をバカにして、笑い転げるに決まってます。
……やっぱり、ダメですね。
そんなことになったら、ただでさえ、ないに等しい兄の威厳が、さらに失われてしまいます。
僕は、陽菜を説得することを諦めて、キッチンに立ちます。
陽菜が手伝ってくれないから、僕は今日、この手で夕食を作ることになるんだからな。
指は念入りに洗って、きれいにしたけど、もし、食事後に体に変調が出ても、許してくれよな。