第1話 理事長は猫 前編
四月中旬。
その日最後の授業を終え、帰宅するため、僕が学校の玄関を出たときのことです。
「そこの女子、待つニャ! お前に用があるニャ!」
突然、そんな声が聞こえたかと思うと、僕の前に一匹の黒猫が飛び出してきました。
僕は立ち止まって、キョロキョロとまわりを見回しますが、僕以外、誰もいません。
「お前のことニャ」
足元にいる黒猫が、僕を見上げるようにして言いました。
どうやら、呼び止められたのは僕みたいです。
少女のような声で喋る黒猫。
――うちの学校の理事長です。
喋らなければ、本物の猫と間違えてしまいそうですが、これは、理事長が自宅から遠隔操作している、アバターロボというロボットなんです。
理事長は高齢ということもあって、身体的負担を減らすために、このアバターロボを自分の分身のように使って、学校にいる生徒や教職員とコミュニケーションをとっているのです。
ちなみに、理事長が少女のような声で喋るのは、生徒ウケがいいように、ボイス変換しているのだとか。
まあ、それはいいとして……。
僕はため息をつきました。
また、正さないといけないからです、相手の勘違いを。
入学してから、何度、同じセリフを言ったでしょうか。
でも、勘違いされたままでは困りますから、言わないわけにはいきません。
「あの、僕、男子ですけど……」
「なんと、そうなのかニャ! 女子みたいな顔をしてるから、女子かと思ったのニャ!」
……わかります。
自分でも、女子みたいな顔してるなって、思います。
実際、入学直後に、僕のことを女子だと勘違いした、ほかのクラスの男子から、遊びに誘われたり、告白されそうになったくらいですから。
男女別制服の学校なら、僕がスラックスを履いてる時点で、男子だとわかりそうなものなんですが、うちの学校、七本木学園高校はジェンダーレス制服の学校なので、女子もスラックスを履けるんです。
それで、僕を女子と勘違いしたんだと思います。
高校一年の男子なのに、身長は百六十センチくらいしかなくて、華奢な体型をしている、というせいもあるのかもしれませんが。
……さて。
誤解がとけたところで、僕は理事長がさっき言ったことを聞き返します。
「僕に用、ですか?」
「誰か、玄関から出てこないかと思っていたら、お前が出てきたのニャ。男子でも女子でも、どっちでも構わないのニャ。あそこにあるベンチの上に、黒猫がいるのが見えるニャ」
理事長の言う通り、正面玄関前に設置されているベンチの上に、理事長と見た目がそっくりな黒猫がいます。
「ええ、いますね。首輪のない黒猫が一匹」
「実は、私がいつものようにアバターロボを使おうとしたら、突然、アバターロボが暴走して、勝手にどこかへ行ってしまったのニャ。予備のアバターロボを使って、校内をさがしていたら、ベンチの上にいる黒猫を発見したのニャ。これが暴走したアバターロボに違いないのニャ。お前には、これを捕まえてもらいたいのニャ」
これで、僕が呼び止められた理由がわかりました。
僕はベンチの上にいる黒猫を見ました。
黒猫は熱心に毛づくろいをしています。
なんか、どこにでもいる普通の猫と同じ仕草をしてるんだけど……。
僕は理事長にそのことを質問してみました。
「アバターロボは商品化する予定があるのニャ。操作しないときは、ペットロボとしても使えるようになっているのニャ。ペットモードに切り替えれば、自律型AIが働いて、本物の猫と同じ行動をするようになっているのニャ。暴走している今は、たぶんペットモードになっているのニャ」
なるほど、そういうことなら納得です。
「じゃあ、早速――」
そう言って、ベンチに向かおうとしたら、理事長が声をかけてきました。
「先に言っておくのニャが、捕まえたら、すぐに電源スイッチを押してもらう必要があるニャ。暴走を止めるには電源スイッチを押して、動作を停止させないとダメニャ」
「わかりました。その電源スイッチはどこにあるんですか?」
「肛門の中ニャ」
「え?」
聞き間違い?
肛門の中って、聞こえたんですが。
「肛門の中に電源スイッチがあるニャ」
聞き間違いじゃなかった!
「ど、どうして、そんなところにあるんですか!」
「私が決めたわけじゃなくて、アバターロボの開発チームがそう決めたのニャ。体の外に電源スイッチを配置すると、人からさわられたとき、誤って、押されてしまう可能性があるニャ。そういうことが起きないように、絶対に通常ではさわらない場所に、電源スイッチを配置する必要があったということなのニャ。それが、肛門の中というわけなのニャ」
それって、肉球とか、鼻を長押しするとかじゃ、ダメだったんでしょうか?
商品化するというのに、電源スイッチが肛門の中とは……。
まあ、僕には関係ないことだから、どうでもいいことなんですが。
「そのスイッチは、どうやって押せばいいんですか」
重要なことを聞いてみました。
「肛門に指を突っ込んで押せばいいニャ。指を入れれば、届くところにスイッチはあるニャ」
うわー、予想通りの答えが返ってきました。
いくらロボットとはわかっていても、気分的に、肛門の中に指を突っ込むことはしたくないんだけどなあ。
理事長は、戸惑っている僕を気にするようすもなく、一方的にこう告げました。
「さあ、早く捕まえるのニャ。大人しくしている今が、捕まえる絶好のチャンスなのニャ」
◇
僕に与えられたミッションは、暴走したアバターロボを捕まえて、肛門の中にある電源スイッチを指で押すことです。
僕は捕まえるため、ベンチに近づき、毛づくろいをしている黒猫をそっと抱き上げました。
「うーなっ」
猫は暴れることなく、抱かれてくれました。
抱き上げた猫は温かく、お腹も呼吸しているように動いています。
…………。
これ、ホントにロボット?
「あの、お腹が呼吸してるみたいに動いてるんですけど。それに温かいし。まさか本物、なんてことは……」
僕は念のため、理事長に聞いてみます。
「心配いらないのニャ。そのアバターロボは試作機なのニャが、本物っぽく、呼吸しているようにお腹も動くようになっているのニャ。それ以外にも、体重は本物と同じくらいの重さにしてあるし、体温も本物と同じになるように設定してあるニャ。とにかく、外見はあらゆる面で、本物そっくりにしてあるニャ」
「そ、そうですか」
それじゃ、本物と思っても仕方ないですね。
「そういえば、肝心なことを思い出したのニャ。私の使っているアバターロボは、外見がメス猫として作ってあるのニャ。だから、不安なら、股間を見て、確認してみるといいニャ」
理事長に言われて、僕は抱いている猫の股間を確認します。
ニャン玉はありません。
ということは、やっぱり、ロボットということですね。
よし。
「じゃあ、指を入れますよ」
僕は意を決して、猫を抱きながら、人差し指を猫の肛門に突っ込みました。
ずぶっ。
「うにゃああ――――」
激しく猫が暴れます。
「り、理事長! すごい暴れてるんですが! やっぱり、これ本物なんじゃ!」
「アバターロボでも、肛門の中に指を突っ込まれたら、本物っぽさを演出するために、暴れるようになっているのニャ。だから、問題ないのニャ」
本物にこだわりすぎだっての!
「もっと、指を深く突っ込むのニャ。指先に硬いものが当たれば、それが電源スイッチなのニャ」
僕は暴れる猫を逃さないように必死に抱いて、人差し指をさらに深く突っ込みます。
指先に何かが、当たったような感触。
「あっ、指先に何か、硬いものが当たりました!」
「それニャ! それが電源スイッチニャ! それを押すニャ!」
僕は理事長の言う通り、その硬いものを押しました。
でも、猫の動きは止まりません。
「押しました! でも動いたままです! 一度、制御不能になると、電源スイッチを押してもダメなんでしょうか!」
「…………」
理事長?
理事長は黙ったまま、なにも言ってきません。
どうしたのでしょうか?
「……指を抜くニャ」
「え?」
「いいから、いったん、指を抜くニャ」
「は、はい」
僕は指を肛門から引き抜きました。
「抜いた指のニオイを嗅いでみるニャ」
ニオイを?
僕はゆっくりと指を自分の鼻先に近づけ、ニオイを嗅いでみます。
「くっさあっ!」
理事長は、僕の反応を見て答えました。
「やっぱり、間違いないのニャ。それは本物の猫ニャ。アバターロボではないのニャ」
「ええっ? でも指先に、なにか硬いものが当たりましたよ? じゃあ、指先に当たったのは?」
「それは、腸の中に詰まった猫のうんこニャ」
「きたなっ!」
うわあ、一番、恐れていたことをやってしまいました!
大ショックです!
僕は猫を抱いたまま、へなへなと、その場に崩れ落ちます。
うちは両親の帰宅が遅いから、夕食は自分で作らないといけないのに、本物の猫の肛門に指を突っ込んでしまったので、もう今日は、この手で夕食が作れません。
いや、作ろうと思えば作れるけど、この手で作ったものは、食べる気になれません。
僕が地面に両膝をついて、呆然としていると、猫が身をよじって、腕の中から飛び出しました。
「あっ」
次の瞬間、猫はすごい勢いで走り出して、どこかへ行ってしまいました。
ゴメンよ、尻の穴に指、突っ込んじゃって。
◇
僕は立ち上がって、理事長に抗議します。
「ちょっと! しっかりしてくださいよ! 話が違うじゃないですか! なんで本物なんですか! 暴走したアバターロボはどこに行ったんですか!」
「うーん、おかしいニャ」
理事長も納得できないのか、首をかしげています。
なんだよ、あれだけ自信たっぷりに、アバターロボって言ってたのに。
あの黒猫は、たまたま校内に入り込んでいた野良猫だったようです。
僕は校舎一階のトイレに入って、手洗場で汚れた指を洗います。
理事長に付き合ったばっかりに、えらい目にあってしまいました。
手を洗って戻ってくると、玄関前で理事長がしょんぼりしてました。
暴走したアバターロボがどこへいったのかは、結局、わからないままです。
まだ校内にいるかもしれないし、もしかすると校外へ出てしまったかもしれません。
いずれにせよ、もう僕が出来ることはないし、理事長には悪いけど、これで帰らせてもらうことにします。
じゃあこれで、と言おうとしたとき、理事長がいる近くの木から、ガサガサっという音がしました。
なにげなく木を見上げると、太い枝の上を歩く黒猫がいました。
「……あの、木の上にも黒猫がいますけど」
僕は木を指さして、言いました。
理事長が僕の指さす木を見ました。
「よく見つけたニャ! まさか、木の上にもいるとは思わなかったのニャ。野良の黒猫が、同じ日に二匹も校内に入り込んでいるとは考えにくいニャ。きっと、あれがアバターロボなのニャ」
理事長が、興奮気味に喋ります。
確かに、野良の黒猫がそうそういるとは思えないので、あれがアバターロボの可能性は高そうです。
でも困ったことに、黒猫がいるのは、地上から三メートルくらいの高さにある太い枝で、捕まえたくても、手が届きません。
「さあ、捕まえるニャ」
手が届かない高さなのに、捕まえろとムリを言ってくる理事長。
「いや、捕まえろと言われても、この高さでは……。そうだ、ハシゴを借りてきましょうか?」
「そんなモタモタしていたら、逃げられてしまうニャ。せっかく発見したのに、逃げられるのだけは絶対、避けたいのニャ。さっさとお前が登って、捕まえてくるニャ」
「ええ――?」
この有無を言わせぬ強引さ、うちの妹みたいです。