6話「To be or not to be」前編
もうすぐ午後1時をまわろうかという正午過ぎ、雨の降る昼食時のルメニアの街は恐怖と絶望に覆われていた。
街のすぐ傍へと落下した半径数十㎞の巨大な黒く脈打つ呪われた水の海が、そのままじわじわと街の西側へ躙り寄ってきていたからだ。
呪いの中心にあるのは赤黒く輝く呪われた杯、神器オフィーリアとその所持者ハンフリー・フェリクス。
まるで泥の水棲魔物のような巨躯の姿でかつての領主は街への帰還を果たしていていた。
多くの水堀にて区切られ守られた街の外郭を、半径数十㎞の黒い泥の塊はゆったりと越えていく。
街を守ろうと勇敢にも立ち向かう警備の番兵達もいはしたが、彼らはその泥に呑まれあっさり屍鬼へと変わってしまった。
そんな広大な黒い泥の塊に襲われたルメニアの街、その上空。
一匹の黒龍が大翼をはためかせ飛んでいく。
「イリス、街の上空まで来た」
「了解です、そのままアムレードと一緒に待機していてください」
私は龍となったアムレードの背に乗って街の上空を飛んでいた。
イリスとダニエル少年は私達と別れ、フェリクス家の邸宅へと向かい別行動。
その2グループの間をイリスが繰る小鳥による通信だけが繋いでいた。
「そのまま待機ですよ? 突っ込んだら二人とも呪いの餌食になっちゃいますからね、屍鬼の仲間入りしたくなかったら待機です、いいですか待機ですよ!?」
「そんな念を押さなくてもいいだろ……」
「待てと言って待たなかった前科があるでしょう貴女達は!」
「……そうだっけ」
「はて、覚えがないな」
「とにかく! 今ちょうどダニエル君がフェリクス家の魔術師達と合流し呪いの中和を開始しました、もう少しです、もう少し待機です!」
「……とか言ってたらなんか来たな?」
小鳥からの言葉が終わらぬ内に、街の中心部から大きな光の柱が上がった。
あれがイリスの言う呪いの中和か。
私達が呆然と見ている間に、その光の柱はうねりをもって呪いへと向かい猛スピードで飛んで行った。
そして、振動と轟音が響き渡る。
光を受けた黒いヘドロの進行は少しだけ止まり、一部が清く透明な水へと変わっていく。
……が、止まったのはほんの一瞬、すぐに呪いは街への侵攻を再開した。
「おい全然だめじゃねーか」
「今のは中継のためのマーキングをしただけです、ここから中和を始めていくんです」
「では、貴様らはワシにあとどれくらい待てというのだ」
「あと5分……いえ2分で何とかするみたいです」
「ふーん、2分ねぇ……」
言われて仕方なく街の上空で何もせずに待機していたが、そんな私の眼下で呪いの侵攻は変わらず進んでいた。
西側区域に住んでいたであろう老夫婦が、中心部へと逃げていく姿が見えている。
そして彼らが、避難が間に合わず泥に呑まれてしまう姿までくっきりと見えていた。
呪いに耐える生命力が無かったか老夫婦は屍鬼になる事すらなく黒い砂となって泥の濁流にのまれ消えていく。
私達は、ただ黙ってそれを見ている事しかできなかった。
「待っている間にどれだけ進まれるやら」
「仕方ないでしょう、ミイラ取りがミイラになったら本末転倒で……」
「ダメだな、これ以上は待てぬ」
「え」
そんな何もできない状況に苛立ったか、私の股下でアムレードがついに抗議の意を唱え始めた。
「街の西側にはワシの行きつけの店がある」
「え? 行きつけの店?」
「それってアムレードの縄張りって事か?」
「ああそうだ、縄張りを守るのが協力の条件だったはずだ、守れぬというのならワシは勝手にやらせてもらう」
「ちょ、ちょっと!? だったらせめてニーナは置いて……」
「聞こえんな」
イリスの制止を無視し、私を乗せたアムレードは街を離れ神器が赤黒く輝く呪いの中心部まで飛んでいく。
「同じ神器の所有者だ、こんな戦力を使わない手はないだろう」
「それでニーナが死んだらどうするつもりですか!?」
イリスは慌てふためいているが、残念ながらこれは妥当な結果だ。
龍とは尊大にして横暴、泰然自若の超越者、人の言う事なんて聞くわけがない、思い通りなんていくわけがない。
龍を味方につけるとはこういう事だ。
向こうのやる事にこちらが合わせるしかないのだ。
それが嫌なら、最初から味方にしようなんて考えてはいけない。
「じゃあ仕方ねえな、突撃と行くか」
「ちょっと、ニーナまで!?」
そして、その横暴に付き合えるなら、これほど頼もしい味方もいない。
目標の敵、数十kmの巨体を持つ泥の塊その中心部、オフィーリアの呪いは未だ街の入り口近くの堀を漂っていた。
深い堀を越えるのに苦労してか、呪いの中心ヘドロの一段と濃い部分はいまだ街に入れず難儀していた。
「ふむ、読み通りだな」
「そうなのか、やるなアムレード」
呪いの中心部は今、堀を越えるのに必死で隙だらけであった。
上空から即座に仕掛ければ何の反攻もなくやれそうだ。
「じゃあ提案だアムレード、まずは私が行く、大将がいきなり突撃なんてしちゃ愚策も愚策だろ?」
「構わんが、策はあるか?」
「力づくでぶっ飛ばす」
「なるほどいい策だ」
「それのどこが策ですか!?」
「じゃ、行ってくるわイリス、アムレードはそのまま待っててくれ」
「ちょっと、ニーナ待っ……」
慌てふためき騒ぐ小鳥を置いて、私は龍の舞う高空から赤黒く輝く泥の上へと飛び降りた。
風を感じながらダガーを構え、そして今地獄にいるであろう両親を思う。
これから私が振るうのは理性なき獣が振るう剣だと蔑まれた技、ラナトゥスの息女の振るうべきでない力任せな大鬼の技。
「あんな剣は真似しないでね」と母に固く禁じられた剣技、人未満の扱う技と父が称した「愚猿の剣」。
「地獄に召します我が父母よ、斯様な剣を振るう私をどうかお許しください」
懺悔と共に私はダガーを握り力を込める。
「ずぇええあああああ!!」
そして迫る地面とヘドロの海へ向けて、猿叫とともに私は力任せにダガーを振るった。
ダガーから放たれた剣圧は、ヘドロのように蠢く呪いとその下にある大地を抉り弾け飛ばし、隕石跡のような巨大なクレーターを形成する。
「もう一発ぁあああああつ!!」
そこから着地と共にさらにもう一撃、ダガーを力任せに振り下ろす。
斬撃が大地をえぐりヘドロの海を斬り割った。
半径数十㎞の呪いの海の中心近く。
小城でも建てられそうな空白と、馬車が5~6台通れそうな海割れの道がこのようにして出来上がった。
「ちっ、やっぱり私じゃこの程度だな」
過去、斬撃で海を割った強者を人魔問わず10人近く見て来たが、その誰もがこの数倍は威力のある斬撃を放っていた。
私の斬撃によってできた道はどう贔屓目に見てもか細く短い。
力任せの技を私みたいな細腕が使ったらそりゃこうなるのは仕方がないが、それにしたって情けない。
「神器と闘るからには、こっち方面でももっと強くならなきゃなぁ」
独り言ちつつ、割れた海の中心を足早に渡る。
すぐに戻りつつあるヘドロは一分と経たずこの場を埋め尽くすだろう。
急がなければ。
「さて、人間側の強者ってのはどんな顔してんのかな」
そうして進むこと数秒。
ヘドロのような黒水の中、二つに割れた海の中心。
魔王の呪いによって変質し赤黒い光を放つ神器、オフィーリアの盃は私の作った道の終端に佇んでいた。
「よぉ、はじめましてだなぁハンフリー・フェリ……うわっ」
果たして英雄様とはどんな顔かと、呪いの中心の様子を伺い覗いてみると。
神器の継承者、ハンフリー・フェリクスは見るも無残な姿となっていた。
半透明な黒いヘドロの中、彼は逆さに吊られていた。
地に頭を天に足を向けたその男の頭部は血が溜まって真っ青に膨れ上がり、足は水を吸って風船のように腫れ両足が一体化してまるでイカのよう。
そしてさらに目立つのは両手の腕。
魔王の呪いの影響かその腕は6本になっていた。
一番上の腕が神器を携え、そしてなぜか真ん中の腕が自らの首を絞め自殺しようとしており、最後の一番下の両腕が首を保護しその自死を防いでいた。
酷く悍ましい、まるで魔物のような姿の男がそこにいた。
「おぉ……マティアス……生きて、いたか……」
「うわ、喋った!?」
しかもこの男、まだ意識があった。
マジかよ信じらんねえ。
「たの、むマティアス……」
異形の魔物と化したハンフリーの両目がこちらに向いた。
するとそれに呼応するように神器の赤い光が弱まり、私を取り込もうと迫っていた周囲のヘドロの動きが止まった。
ヘドロが止まる、つまり、呪いに抗っているのだこの男。
なんて奴だ。
こんな様になってまで、まだ魔王の呪いに抗えるというのか。
「マティ、アス……どうか、俺を殺……して……」
私の生まれたラナトゥス家は、私より強く賢かったラナトゥスの父母は、魔王の魔術に屈し人類を裏切った。
だがこの男はこんなになってまで抗っている、何故この男はここまで強いのか。
ラナトゥス家とフェリクス家で一体何が違ったのだ。
その違いが分かれば、私はもっと強くなれるだろうか……!
「分かったよハンフリー・フェリクス、約束する、お前を殺してやるよ、でも殺す前に一つ聞かせてくれ」
「ダメだ……時間が、無」
「なんでそんなに抗えるんだよ魔王の呪いに、私のお父様お母様にはできなかったことを、なんでアンタは出来るんだ」
「ん、あぁ……まさか、そうか、お前は……ラナトゥスの……」
ハンフリーは何か納得したようなことを言った後、首を絞めていた腕を懐へと動かし。
そして一輪の花を取り出しこちらへ渡してきた。
小さな花が寄り添い一つの輪として花を形作るそれは、カランコエと呼ばれる南国の花だ。
男と共にヘドロに浸かっていたはずだが汚れは一つもついていない。
わざわざ保護していたのか? そんなに大事なものなのだろうか?
不思議に思い渡された花を一通り眺めてみるが魔力も何も感じない。
何の変哲もない、冬に赤い花を咲かせるだけの普通の花だ。
「家族の、約束……ダニエルに、聞け……」
まさかこれが、こんな程度の物が。
魔王の呪いに耐え正気を保ち続けた要因なのか?
それとも何か特殊な秘密が隠されてるとでもいうのか?
「ぐぅ、がああああ!!」
「え、わ、何なに!?」
しかしさらに問いただそうとしたところでハンフリーが叫び出した。
同時に神器から赤黒い光が再び漏れ始める。
「あぁ、もう時間が無いって事かこれ!」
「さっき……から、そう言って……ああァアア!!!」
ハンフリー・フェリクスに恐らく限界が来たのだろう。
もう彼でも魔王の呪いを抑えられない。
もっと強さの秘訣を聞きたかったが、これ以上会話を続けることはできないか。
「グォオオオオ!!」
赤黒い輝きを取り戻したオフィーリアの盃から、夥しい程のどす黒い水が溢れだしている。
そして呼応するように止まっていた周囲のヘドロも活動を再開し襲い掛かってきた。
さらに加えて、街で呪いに呑まれたらしき人間達が屍鬼と化してヘドロの海を泳ぎこちらに迫ってきている。
「しゃーない、それじゃ、やったりますか」
大きく息を吸い込み、私は肩に下げた聖剣に手をかけ鯉口を切った。
周囲から襲い掛かるヘドロと眼前に迫る屍鬼の腕を無視して目を閉じる。
そして。
「いくぞ、コリオレイナス」
私は開眼と共に聖剣を振り下ろした。
瞬間。
目の前に広がる景色全てが真っ二つに割れた。
迫りくるヘドロも屍鬼も、その先にいるハンフリー・フェリクスも。
そのさらに先にある空を覆う雨雲さえも、何もかもが両断された。
「あぁ、ありが、とう……ラナトゥスの、娘よ……」
そして役目を終えた聖剣を納刀すると同時に、一瞬遅れて切断の振動が空気を揺らし周囲のヘドロが弾け飛んだ。
無残に変わったハンフリー・フェリクスの体も二つに裂け、多量の出血と共に活動を止めた。
流石神器と呼ばれる剣であった、文字通りの一刀両断。
目の前のあらゆる全てを消し飛ばし切り裂いた。
……ただ、一方で。
「はぁマジかよ、流石にちょっと自信無くすわ……」
もう片方の神器も神の名を冠するにふさわしい器であった。
雲すら斬り裂く斬撃を受けてなお、ハンフリー・フェリクスの手の中にあったオフィーリアの盃はいまだ健在、傷一つなかった。
私の腕が足りなかったか、或いは神器そのものが物理法則を越え破壊不能の存在なのか。
飛ばした剣閃の線上にありながら傷一つ着いていなかった。
「距離が離れすぎてたのか? それとも単に私の腕が……いや、考えてもしゃーないか、いつか絶対に、痛ぁ!?」
「この、馬鹿!」
そうして己の未熟に嘆き落ち込むのもつかの間。
今度は私の頭を小鳥が一匹すっ飛んできて突っついた。
「何ボーっとしてるんですかこの馬鹿ニーナ!!」
イリスの生み出した小鳥であった。
そいつが空からやってきて、頭をキツツキみたいに連打した後、私の服を掴んで引っ張りだしたのだ。
「お、おい何すんだよ!?」
「後ろ! 後ろを見なさい!!」
「え、後ろ……? 後ろが何か、げえっ!」
そうだ考えていなかった、神器によって斬り飛ばしたのは目の前だけ。
つまり、後ろの方のヘドロや屍鬼はそのままだ!
「え、でも何で? ハンフリーは確かに斬ったのに!」
「神器から生み出されたものはそのまま残るんですよ! 聖剣みたいにただ斬る神器と違って、その聖杯は水を生み土地を潤すのが基本技能なんですから!」
「そういうの早く言ってくんない!?」
「こっちが説明する前に勝手に突っ込んだ馬鹿はどこのどいつですか!!」
「い、いや、それはアムレードのせいっていうか……」
「もう、いいから走る!」
イリスに小突かれ背後に迫るヘドロの音を耳に聞き、私はとにかく足を動かし走り出した。
とにかく遠くへ、高い所へ逃げよう。
……当然の考えが頭に浮かんだ、の、だが。
「あ! 待った忘れ物!」
大事なことを忘れそうになり慌てて急ブレーキ。
真っ二つに切り裂かれたハンフリーの遺体に駆け寄り、地へと転がる神器オフィーリアの盃を急いで回収する。
「それ貴女の命より大事なものですか!?」
「いや、だって、でも……」
しかしそうこうしている間に背後にはもうヘドロが迫っていた。
もう走って逃げられる距離では無かった。
逃走以外の手段を考えなければ。
「あ、そうだ、あれも聖剣で切り飛ばして……」
「あれの向こうには街があるんですよ!? まさかおんなじ威力の斬撃を使用するとか言いませんよね!!」
「いやでもこのままじゃ!」
もはやこれまでか。
そう思った矢先。
「まったく世話の焼ける人間どもだな」
黒い巨大な何かが私を覆う。
そして次の瞬間私の体は高い空へと連れ去られていた。
「アムレードか!? 助かった!」
黒い龍によって掴まれた私の体は宙に浮き空高く舞い上がり、迫りくるヘドロと屍鬼からの脱出に見事成功していた。
それからほどなくして街から巨大な光がヘドロの海へと放たれる。
イリスが言っていたフェリクス家の魔術だろう。
主が不在のヘドロたちは何の抵抗もなく浄化され澄んだ水へと次々浄化されていった。
「……これでもう大丈夫そうだな」
そうして街の様子を伺いながらしばらく空を舞った後。
事態の収束を確認し私とアムレードは近くの山に着地した。
「あー終わった終わった……」
「それで、神器はどうしたマティアスに似た女よ」
「おう、安心しろよホレ、ちゃんとかっぱらって来てやったぜ」
「……無理して持ってこなくても、中和を待って後で回収すれば安全に持ってこれたんですけどね」
幼女へと姿を戻した龍が問い、小うるさい小鳥が小言を言い。
そして私は必死の思いで獲得した戦利品を見せびらかす。
金色に輝く汚れ一つない杯が私の右手の中に握られていた。
もう大丈夫だ、この戦いは勝利で終わったのだ。
そんな風に張りつめていた緊張の糸が、この場にいる全員、少し緩んだ。
だが。
その瞬間。
「お、おごぅ!?」
私の口の中から、黒いヘドロのようなものが溢れて来た。
「お、おいどうした、大丈夫か!?」
そうだ、忘れていた。
神器は適性のない者が持つと何かしらの不具合が起きるのだった。
聖剣の場合は剣が異常に重くなるという物だったが、聖杯の場合は……
「あ、が……息が、できな……」
私の喉の奥から、とめどなく黒い泥が溢れてきていた。
なるほどこれが資格の無き者への罰か!
「こ、これ……どうしたら……っ!」
「ニーナ、はやく神器を捨てて!」
あぁしかし、そうだった、慌てて冷静さを失うだった。
大した事はないのだ。
神器を資格無き者が持てば罰が下る。
つまり罰が嫌ならその神器を捨てればいいだけなのだ。
そう思って私は、杯を投げ捨てようと神器を持つ右手に力を込めた。
「……っ!?」
……しかしその瞬間、違和感に気付いた。
右手に何かが纏わりついている。
赤黒く蠢く影が私の右手に纏わりついていた。
杯から生まれたヘドロとは別の、何か怨念めいた怖気の走る黒い影。
一体これが何なのか、わからない、わからないはずなのに。
元魔族であった私にはなぜだか直感で理解できた。
「まさ、か、これは……!」
それはハンフリー・フェリクスに取り憑いていたものと同じ。
魔王の呪い、その残滓が私の右手に取り憑いていたのだ。
気が付いた時にはもう手遅れだった。
その呪いはすでに私の体内を巡っており、そして。
あっという間に私の意識を奪っていった。