48 赦せないのは…
幕の降りた舞台。ほっと一息をついた。ズボン、ギリ無事で良かった。ふぅー。
カツン
靴音がした。ノワールだ。いつもみたいに抱きつこうとしてとどまる。なんだか雰囲気が違う。舞台の感想を聞こうとした言葉を飲み込んだ。
一言でも発したら何かが崩れてしまうんじゃないか、そんな薄氷を踏むような危うい予感がした。
「アレックス、迎えにきました。」
感情を見せない表情平坦な声色、いつもと違う雰囲気を纏ったノワールが俺を抱えあげる。それでも触れあったぬくもりはいつものノワールで…。
俺が今、この場から動けないことを察してくれる。いつもの俺の全てを理解してくれる彼への安心感に全身を委ねる。
落ちるのが怖いだけだから、そう心の中で言い訳してノワールの首に両手を絡めて縋るようにしがみついた。
その身体が以前よりも筋肉がついてがっしり逞しくなっていて、離れていた時間を感じてなんだか切なくなった。
そんな俺を見て呆れたのか、ノワールが天を仰ぎ目を閉じた。深呼吸したノワールが落ちていた純白の上衣で俺を包み込むようにふわりとかけた。む、ノワールが見えないんですけど…。
静寂が落ちた。純白の視界に二人分の少し早く力強い鼓動だけが聞こえていて、ノワールと二人だけの世界みたいだ。ずっとこのままここにいたい、なんて我が儘すぎる望みだよね。
「アレックス、約束を破りましたね。」
ノワールの怒りを含んだ低い声、なのに耳許で囁かれたそれに恐れより先にぞくぞくとした甘い痺れを感じてしまう。
再び、頭の上から、感情を抑え込んだようなノワールの声が降ってきた。
「アレックス、少し距離をおきましょう。私は学園を離れようと思います。」
なんで?
10年後ヒロインに心を奪われるまで、友人としてだけなら俺とノワールはずっと一緒にいられるんじゃなかったの?それまででいいからノワールを独り占めしたかった。
約束を破って髪をほどいたことを怒っているの?俺だってここ最近ずっと放っておかれた事を怒ってる…。
衣装ズタズタ事件の時も結局ノワールは来てくれなかった。今までだったら、離れていても俺に何かあればすぐに駆けつけてくれていたのに…。
俺は淋しかったんだ。淋しくて、ずっと友達なんかじゃなくて、もっと強い絆を求めて欲が出てしまったんだ。
でも、ヒロインが出てきたらわきまえてちゃんと身を引くから。だから、今だけほんの少しでいいから思い出が欲しかった。
一生口に出すことすら叶わないこの想いを今だけほんの少しだけ昇華させてあげたかったんだ。
学園行事のどさくさに紛れて、古代の結婚式の真似事をしたくらい良いじゃないか。先に思わせぶりな事をしたのはノワールの方じゃないか。
ささやかな真似事さえ許せないくらい俺の事が嫌いなの?俺の側にいたくないのは、俺がノワールに纏わりつきすぎたから?
怒りと絶望で頭が真っ白になった。
「ずっと側にいてくれるって、親友だって…。俺がそんなに俺の事が嫌いなの?」
怒りで責めるような口調になる。
「アレックス、今の私にはそんな資格はありません。」
感情を抑え込んだようなノワールの声が震える。
これ以上聞いていられなくなって俺は顔に被せられた上衣を乱暴に剥いだ。
禍々しい程の赤い夕陽に照らされてノワールはただ音もなく涙を流していた。ノワールの黒真珠のような瞳からつぅーと涙が伝う。
涙がこんなにも美しいものだなんて俺は知らない。息を呑む程綺麗で触れてしまえば壊れそうな程繊細だった。
ノワールは俺の事泣く程嫌いだったんだ。突きつけられた事実に言葉もなく項垂れた。自棄糞になってノワールの胸に顔を埋める。ノワールにこうして触れられるのもこれが最後なのか。
嫌いなら、こんなに優しく抱き上げて運ぶとか止めて欲しい。ノワールはズルい。こんなに俺を甘やかして突然突き放すなんて。期待しちゃうじゃないか、俺の事少しは好きになってくれるんじゃないかって。頑張ればヒロインから奪えるんじゃないかって。
「アレックス、このまま側にいたら、私はあなたを傷付ける。だから、あなたを守るために…。」
守るためにって何だよ。傷付けるってなんなんだよ。ノワールが俺の側から離れる以上に俺の心を傷付ける事があるのかよ。
俺は唐突に理解した。
10年後の未来で俺が本当に恐れていたのは断罪される事でも監禁凌辱される事でも無い、ノワールと10年もの間疎遠になる事。そして、10年後ノワールの心がヒロインに奪われる事だ。




