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forty four (side 小梅)


その声で視線を上げると、スウェット生地のワンピースを着た女性が立っていた。

鹿島さんのお知り合いだと思い、慌てて腰を上げて挨拶をしようとして、ぎょっとしてしまった。

花奈さんと呼ばれた女性の形相が。

今までに見たことのないような、憎しみの顔に。

花奈さんが、何かを叫んだ。耳には入ってくるのだが、叫んでいる言葉の意味がわからなかった。

そう。何が起きたのか、わからなかったのだ。


「あんたが要さんを横取りしたの? この泥棒猫っっ」

「要さんも要さんよっ‼︎ こんなのひどいわっ‼︎ わたくしのお見舞いに、浮気相手を連れてくるなんてっ‼︎」


その迫力に恐れ慄いてしまって、私はカバンを抱え直した。

二人のやり取りを私は呆然と聞いていたけれど、それでようやく、この女性が鹿島さんの別れた恋人なのだということを認識した。


(ああ、なんて綺麗な人なんだろう)


怒り狂っていても、その顔の造形はまるで乱れていない。

形相が恐ろしいと思ったのも、よく見ればその美しさからくるものだ。


(こんな綺麗な人が恋人だったなんて。どうして、別れちゃったんだろう)


シンプルにそう思った。

そして、私は。こんな綺麗な人と別れちゃうなんて、なんてもったいないことをしたのだろう、とまで思ったのだ。

その時。

花奈さんの身体が、私に近づいた。あっという間に腕を掴まれて、私も正気を取り戻す。ぐいっと引っ張られ、その拍子にイスから滑り落ちてしまった。

痛みはあった。けれど、掴まれた腕が痛いのか、床に崩れ落ちた時にどこかを打ったのか、それすらもわからない。混乱した。


「何するっ、やめろっ‼︎」


鹿島さんの怒声。


初めて耳にする、感情の昂ぶった声。普段は優しい鹿島さんも、怒ることがあるんだな。ただそれだけ思っただけで他には何も考えられなかった。

花奈さんが、まだ何かを叫んでいる。

その声でふと見上げると、花奈さんが花束を持って立つ。


(ああ、やっぱり。可愛い花束がとても似合う……)


そう思ってからの、一瞬の出来事。


頭の横に何かが当たった。結構な衝撃を感じて、私は我に返った。

手をついていた床に、バサバサとスイートピーの花びらが散らばって落ちていくのが、スローモーションのように見えた。


「やめろっ、やめろ‼︎」

「こんな地味な女のどこがいいのっ‼︎ こんな、こんな見すぼらしい、貧乏くさい女のどこがっ」

なぜか。

『貧乏くさい女』という言葉だけがはっきり、耳に入り込んできた。フィルターのついたスピーカーやマイクを通したようにでも。鮮明に。鮮明に。


「花奈、いい加減にしろっっ‼︎」

「鹿島さんっ」


振り上げた右手を見て、花奈さんがぶたれる、と思った。


「だめです! そんなことやめてくださいっ。だめです、だめです、だめで、す……」


自分が何を叫んでいるのかわからなかったが、とにかくありったけの力で叫んだ。ひっくり返る声。次第に声が震えていくのがわかり、言うのを止めた。

病院の待合いの床はひやりとして冷たく、スカートで来てしまったことを後悔した。これはモリタの多摩さんの娘さんが、ちょっと太ってしまったから履けなくなったと言って貰った、いただきもののスカートだ。

『貧乏くさい女』

蘇ってきて、頭の中で繰り返し再生される言の葉(ことのは)

にがい。悲しい。痛い。苦しい。

本当のことだけど、真実だけれど、苦くて悲しくて痛くて苦しかった。


顔を上げると、鹿島さんが花奈さんの肩を抱いて、エレベーターホールへと向かう姿が目に入った。

二人の背の高さは、ちょうど良いくらいに釣り合っていて、花奈さんのすらりと細く長い足がスウェットのワンピースから見える。

ふと、自分の足を見て。スカートから出ている足は、花奈さんの半分も満たしてはいない。スタイルのあまりの違いに、私は苦く笑った。

いい加減、お尻や太ももが冷えてきて、私はようやくよろっとしながら立ち上がった。

その瞬間、スカートからはらはらとピンクの花びらが舞い落ちていく。

花びらを。

このままにしていって良いのか、迷う。病院の人が掃除するのだと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

けれど、こんな所にはもう居られない。ひとりの辛さを、孤独の哀しみを、住んでいる世界の隔たりを、こんな風にして思い知らされて。

私は病院のエントランスへと向かった。

足のバランスが悪いのか、よろよろとして足元は覚束ないが、足を捻ったとか、そういうことはない。私は身体だけは、頑丈で丈夫に生まれてきたことを、両親にも神さまにも感謝しながら、夜の道を歩いた。

そして、花奈さんを思い出す。

綺麗な人だったな。

私は花奈さんの、花束を掴んだ手の爪が、綺麗な色に彩られていたのを思い出していた。

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