two (side 鹿島)
「社長、そろそろ帰られた方が……」
秘書の深水 郁の声がして、鹿島 要は意識を戻して、腕時計を見た。
「ああ、もう……8時半か」
つい、1時間ほど前に終わった商談の成果が頭の中を占めていた。
仕事のことを考え始めると、鹿島はよく意識を飛ばしてしまう。有能な秘書として常に鹿島について回る深水に、声を掛けられて我に返る、ということが度々あった。
「今日は、花奈さまのお誕生日ですよ」
「ん、ああ。分かっている」
鹿島は、ちらと横に目を流した。
仕事の書類が山のように積まれているデスクの傍には、小ぶりではあるが高級紙で作られた紙袋がちょこんと置いてある。中には包装紙とリボンにくるまれた小さな箱が入っているはずだ。
「それにしても、さすが花奈さまです。いつもトレンドの最先端をいってらっしゃいますね」
「ブランドがか?」
鹿島は、目の前にある書類をばさばさと音を立てて、整えた。
「ブランドもですが、このチョーカーをお選びになるあたり、」
深水が感心するような声で言った。
「モデルのリナとのコラボです。今日発売の限定品ということで、それはそれは長蛇の列でしたよ」
「……そうか。君にこんなことを頼んでしまって、すまないね」
鹿島は書類の海に目を落とした。今日まとまった商談の契約書を目で追うが、見つからない。
「くそっ、どこにいった」
紙を掻き分ける。すると右手の人差し指に、ちかっと痛みが走った。どうやら紙で切ったらしい。人差し指の腹から血が滲んでくる。鹿島は指を軽く唇で咥えると、舌に血の味が伝わってきて、その味の悪さに顔をしかめた。
「花奈さまがお待ちですよ」
深水の言葉が、鹿島を追い詰める。
「わかった、わかった。もう帰るよ」
広いデスクと書類の海の中から目的の契約書を見つけ出すと、鹿島はそれを引っ張り出して、深水へと手渡した。
「これを下に落としておいてくれ」
「承知しました。お疲れ様でした」
深水が部屋の隅に置いてある書類棚へと寄っていくのを見ながら、鹿島は身支度を整えた。
「悪いが先に失礼するよ」
部屋を出ると、エレベーターホールへと向かう。階下へのボタンを何度も押すと、開いたドアへと滑り込んで、エレベーターに乗った。
「はああ。誕生日かあ」
呟くと、仕事モードだった脳がプライベートへと変換される。ガクンっとエレベーターが止まって一階でドアが開く。視線を上げて薄暗いホールへと出ると、警備員のいるエントランスへと足を向ける。正面に設置されている時計は、すでに9時を回ろうとしているところだった。
(あー時間が……くそっ)
恋人の花奈が、自宅で待っている。
ケーキとシャンパンは宅配で届くように注文してあるから、あとは軽く飲めるようにとツマミを作っていてくれるはずだ。
(……とは言っても、訳の分からない葉っぱが入ったサラダくらいだろうけどな)
ふ、と失笑する。
(あんな長い爪では、ナイフも握れないだろ)
冷蔵庫には、確かスモークサーモンがあったし、食料庫にはキャビアか何かの缶詰くらいあるだろ、鹿島はぐるぐると頭の中で、今夜の誕生日祝いの計画を練っていくと、ひとつ、足りないことに気がついた。
(……しまった、)
途端に焦りが足元からせり上がってきて、鹿島は足を速めた。