結婚の約束をした幼馴染と再会しましたが、陽キャになりすぎていて近寄れません。
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子供の頃の「いつか○○と結婚する」といった約束は、得てして守られないものである。大抵の場合、そういうものは幻想であり、いつの間にか別に好きな人ができるというのが普通であるだろう。無論、例外はあるのかもしれないが、少なくともそれが自分に適用されないことだけはわかっている。
かつて、俺はとある少女とある約束をした。一言一句覚えている訳ではないが、確か「大きくなったら、結婚しよう」とか、そんな約束だったと思う。
小学校二年生になる前に、俺は引っ越すことになった。その際に、彼女とそんな約束をしたのである。
俺達が何も知らない子供だったことは明白だ。そんな約束をしたのに、連絡先すら知らなかった。だから、あれから彼女とは一言も話していない。
恐らく、彼女の中で俺という存在は子供の頃の思い出になっているはずだ。いい思い出と思ってもらえているなら幸いなのだが。
例えば、現在の俺と彼女が会えば、その思い出は絶対に忌まわしいものなるだろう。
というのも、今の俺は決して褒められるような人間ではない。はっきりと言って、俺は落ちこぼれた人間である。そんな俺の現状を、彼女に知られるということは、あまり嬉しいことではない。
彼女の中で、俺という存在は、できることなら綺麗な思い出であって欲しいと思っている。そうすれば、彼女の中で俺は大切な存在として刻まれるのではないか。そんな期待をしてしまっているのだ。
そんなことを考えるくらい、俺は彼女のことを思っている。結局の所、俺はあの幼かった頃の輝かしい記憶を思い出にできていない。彼女への思いは、ずっとこの心に残り続けているのだ。
◇◇◇
由佳と再会したのは、高校の入学式の時だった。いや、それは再会というべきではないかもしれない。なぜなら、こちらが一方的に彼女を認識しただけだからだ。
久し振りに見た彼女は、俺が知っていた頃とは大きく変わっていた。年月を経て成長することは当然のことではあるのだが、少なくともそのピンク色の髪は明らかに自然なものではない。
入学式であるというのに既に着崩すされた制服も煌々と光るネイルも、彼女の印象を覆す要因の一つである。
極めつけは、彼女の周りにいる者達だ。派手な見た目をしたはっきり言ってチャラい者達は、俺が生きている世界とは、まったく異なる世界の住人である。
幼い頃に、俺の後ろについてきていた少し恥ずかしがり屋なおしとやかな女の子はもういない。彼女は煌めく世界の住人になったのだ。
葛藤はあったが、俺は彼女に近づかないことを決めた。決して相容れない世界の住人となった彼女とは、交わるべきではないと思ったのだ。
幸か不幸か、俺と彼女は別のクラスだった。元々、影は薄いので、俺のことなど隣のクラスには伝わらない。そんな俺の目論見は、見事に成功し、彼女は俺の存在に気づくことはなかった。
もっとも、少し前までは、俺も気づいていながら、何も言ってこないという可能性もあると思っていた。一目見れば、俺の現状などは手に取るように把握できる。
俺と同じように、住む世界が別になったと思って話しかけてこない。その可能性は、否定できるものではなかったのである。
そんな俺が、自分の目論見が完全に成功していたと理解したのは、入学してから一年が経った頃だった。
何故、わかったのか。それは、非常に単純な理由である。クラス替えによって、同じクラスになった彼女が、わかりやすく反応を示してくれたのだ。
「ろーくん?」
「……」
「ろーくんだよね?」
俺という人間は、馬鹿だったのかもしれない。クラス替えで、同じクラスになることなど容易に想像できたはずである。それなのに、どうしてあの入学式の時に声をかけなかったのだろうか。
いや、本当はわかっている。俺は怖かったのだ。彼女に拒絶されることを恐れて、話しかけなかったのである。
今思えば、それは愚行だった。俺に少しでも勇気があったならば、今ここで彼女にこんな悲しい顔をさせずに済んだのに。
「同じ、学校だったんだね……」
「……ああ、そうみたいだな」
「そっか……それなのに、私、全然知らなかったよ。馬鹿みたいだよね?」
由佳の声を聞いて、俺は少しだけ今の彼女のことを理解した。幼い頃から、彼女は優しい少女だった。その根底は、今も変わっていないようだ。
「ろーくんは……知っていたんだよね?」
「それは……」
当然のことながら、由佳は俺にその質問をしてきた。彼女は少々天然な所はあるが、馬鹿ではない。ここに至るまでのやり取りで見せてしまった俺の表情から、俺が一方的に知っていたことなどいとも簡単に見通すことができるのだ。
そんな彼女に対して、俺はどう答えるべきなのだろうか。知っていた事実を隠しても無駄なことはわかっている。問題は、その先だ。
何故、知っていながら何も言わなかったのか。きっと、彼女はそんな質問をしてくるだろう。
それに対する俺の答えを、彼女に聞かせていいのかどうかは少々判断に困る所だ。
きっと、彼女は俺の答えを理解してくれないだろう。この一瞬のやり取りの中で、俺はそんなことを思うようになっていた。
「知っていた……入学式の時に、ゆ……お前の顔を見て、それですぐにわかった」
「……どうして、何も言ってくれなかったの?」
「きっと、お前にはわからない……」
「言ってくれないと、わかる訳がないよ?」
「……住む世界が違う。俺とお前は、もう同じ世界に住んでいないんだよ」
「……どういうこと?」
まるでわからない。由佳は、そんな表情をしていた。
やっぱり、彼女は何も理解していないようだ。だが、それは当たり前のことである。頂点に立っている者達には、これは理解できないことなのだ。
人には住む世界がある。輝かしい世界に住む者と、暗い世界に住む者。そこには、はっきりとした溝がある。
暗い世界に住む者は、いつも輝かしい世界を見ている。その眩しさに憧れて、決して手が届かないとわかっていても、手を伸ばしてしまうのだ。
しかし、輝かしい世界に住む者は、暗い世界のことなんて気にしていない。そんな世界のことを気にする必要がないため、目に入って来ないのだ。
「大体、俺とお前にどういう関係があるっていうんだ?」
「え?」
「確かに、昔は一緒に遊んだかもしれない。でも、小学校一年生の時だったか? そこで別れて以来、別に連絡も取っていなかったじゃないか?」
「それは……そうだけど」
「赤の他人といっても、過言ではないだろう? 別に、わざわざ話しかける必要なんてないんじゃないか? ほら、お前には今の友達がいる訳だし」
「ろーくん……」
言ってから、俺は少しだけ後悔していた。由佳が、目に涙を浮かべていたからだ。
これでは、まるで悪者である。いや、まごうことなき悪者か。
でも、これでいい。これで、由佳が俺に関わろうという気がなくなってくれるなら、例え悪者になっても本望だ。
俺達は触れ合うべきではない。こんな暗い世界の住人に、由佳が手を伸ばすなんてあってはならないことなのである。
それで、彼女に悪い噂でも建てられたなら、それこそ嫌だ。いい思い出にはならなかったが、今となってはこの結末が俺に一番似合っているとさえ思える。
「ごめん!」
「……へ?」
そこで、由佳は俺に頭を下げてきた。その行動の意味が、まったくわからなくて、俺は思わず固まってしまう。
「手紙とか、出せばよかったよね……」
「……何を言っているんだ?」
「私、全然思いつかなくて……お母さんに聞けば、住所くらいはわかったよね」
「いや、そういう問題じゃないんじゃないか?」
由佳の言葉に、俺は思わず頭を抱えていた。彼女は、少し天然である。その天然が、今ここで発動してしまったのだろう。
今までの俺の言葉に、手紙を出せばよかったとか、そういうことは関係ない。それはあくまで、そちら側の事情であり、俺が言ったこととは何も関係ないのである。
「え? でも、ろーくんは拗ねているんだよね? あんなに仲良かったのに、連絡してこなかった、って」
「いや、別にそういう訳ではない」
「それじゃあ、どういう訳なの?」
「いや、それは……」
何故だろう。微妙に話が噛み合っていない気がする。
なんだか、懐かしい気分だ。そういえば、由佳はこんな感じだった。話していると無性に疲れる時がある。それが、彼女なのだ。
「ろーくん、寂しかったよね……でも、ろーくんのことを忘れたことは一回もないよ。それは、本当だからね?」
「え? あ、はい……」
由佳は、俺との距離を詰めながら、色々と言ってきていた。正直、俺は今彼女がなんと言ったかよくわかっていない。近づかれた時点から、俺の意識は会話から離れてしまっているのだ。
現在の俺は、可愛いだとか、いい匂いがするだとか、そういう邪な気持ちで胸がいっぱいになってしまっている。頭を切り替えるべきなのだろうが、目の前にいる可愛らしい少女を見ていると、そんな考えは一気に吹き飛んでしまう。
「ろーくん? どうしたの?」
「いや、別になんでもない……」
「でも、下がってるよ?」
「なんでもないんだ。本当に……」
結局俺は、由佳から離れることにした。あの距離で会話すると、思考が働かないので、これは仕方ないことなのである。
「ろーくん……」
「うっ……」
そんな俺に対して、由佳は悲しそうな瞳を向けてくる。なんだか、子供や小動物にねだられている時の気分だ。
こんな瞳を向けられると、もう後退なんてできるはずもない。由佳が距離を詰めてきても俺は動かず、また至近距離に逆戻りだ。
「ねえ、ろーくん、連絡先交換しようよ」
「え? 連絡先?」
「これから毎日連絡するから。今までの分、埋め合わせしないとね」
可愛らしくウィンクしながら、由佳は俺にスマートフォンの画面を見せてきた。そこには、俺でも知っているアプリの画面が写し出されている。
由佳の連絡先。それは、俺にとって非常に魅力的なものである。
しかし、今はそれが必要ないと思ってしまう。これ以上、彼女と関わるとよくない。俺は別にいいが、由佳が変な噂の的にでもされるのは嫌だ。
幸か不幸か、俺にはこの提案を断る口実があった。とても簡単だが、相手が確実に折れてくる言葉を俺は知っているのだ。
「悪いが、俺はそのアプリを入れていない」
「え? そうなの? それなら、今から入れようよ」
「……へ?」
俺の言葉に、由佳はすぐに返答してきた。おかしい。こう言えば、大抵の人は諦めるはずなのだが。
俺は、頭を回転させた。今のが駄目だった以上、他の口実を探さなければならない。
いや、他の手もある。今の由佳の言葉に反論すれば、それでいいのではないだろうか。
「いや、通信料が……」
「あ、そっか。それなら、帰ってから入れてね」
「え? あ、はい……」
名案だと思っていた返答は、一瞬で崩されていた。よく考えてみれば、由佳とはこれから毎日同じ教室で顔を合わせることになる。例え、今乗り切れたとしても、明日があるのだから、今の言葉はまったく意味がなかったのだ。
「でも、今日電話したいから、普通に番号教えて」
「え? いや、それは、個人情報なので……」
「別に、悪いことになんか使わないよ?」
「………………はい」
迫って来る由佳に、俺は思わず頷いていた。もう頭の中はいっぱいいっぱいで、これ以上逃れる方法を考えられなくなっていたのだ。
こういう強引な所は、昔とは少し違う点かもしれない。やっぱり、由佳は輝かしい世界の住人になっているのだ。
いや、どうだろうか。そういえば、昔もこんな感じだったかもしれない。彼女に押し切られることは、よく考えてみれば前にもあった気がする。
「あれ? 由佳? こんな所で何をしてんの?」
「あ、舞、それに竜太君も」
「よう、由佳」
そこで、とある者達が現れた。その人物達のことを、俺はよく知っている。もっとも、あちらは俺を知らないだろう。知っていたなら、こんな顔はしていないし、何より由佳が俺を知らなったというのがその裏付けになるのではないだろうか。
何故、俺があちらを一方的に知っているか。それは、とても単純な理由で、彼らが有名人だからである。
有名人といっても、テレビに出ているとか、そういう訳ではない。この学校において、もっと細かく言えばこの学年において、彼らはある程度名が通っているのだ。
「あんた、誰?」
「えっと……」
俺をきつい視線で見つめてきたのは、四条舞という人である。由佳の友達の中でも中心にいる恐ろしい人物だ。
俺は心の中で、彼女を女王だと思っている。この学年にいる輝かしい世界の住人の頂点。それが、彼女なのだ。
「舞、そんなに睨みつけてやるなよ。こいつが、怖がっているじゃないか」
「……別に、睨みつけてないけど」
「うっ……いや、すまん」
そんな四条に小言を言って、すぐに引き下がったのは立浪竜太という男だ。端的に言えば、この男は四条の彼氏である。
だが、ここの立浪という男は王と呼ぶべきではないだろう。どちらかといえば、騎士という表現の方が正しいはずである。
基本的な力関係としては、四条が上で、立浪が下だ。それが明確なのかどうかはわからない。俺が自分で見た光景や、周りから聞いたことで判断した非常に主観的な意見でしかないからだ。
もっとも、今重要なのはこの輝かしいカップルの関係性ではない。この二人が、俺の前に現れたという事実の方である。
「それで、あんたは一体何者なの?」
「あのね、舞。彼は、藤崎九郎……私がいつも話していたろーくんだよ」
「ろーくん……こいつが?」
由佳の説明に、四条は目を細めていた。信じられないというようなそんな目をしている。一体、由佳は俺のことをどのように説明していたのだろうか。
「……意味がわからないんだけど。大体、どうして二年になってから、あんたの幼馴染が現れる訳? 何? 転校生なの?」
「そうじゃないんだけど……」
「そうじゃない? 何それ?」
四条が驚いていたのは、由佳の説明をかけ離れているからという理由だけではないらしい。二年になって、俺が現れたことに困惑しているようだ。
考えてみれば、それは当然のことである。この再会をおかしいと思うのは、とても真っ当な意見だ。
「三人とも、とりあえず、教室に入った方がいいかもしれないぜ」
「竜太? どうして?」
「もう、ホームルームの時間だ。それに、由佳や藤崎は気づいていなかったのかもしれないけど、結構目立っているぜ?」
「え?」
「何?」
立浪の言葉に、俺と由佳は周囲を見渡した。確かに、なんだか俺達に視線が集まっている気がする。
そもそも、廊下で顔を合わせてしまったことが、この話の発端だ。当然、廊下で言い争っている男女がいれば目を引く。人の目が集まるのは、別におかしいことではない。
なんだか、変な汗が出てきた。いつも目立っている由佳はともかく、俺なんかが目立ってもいいことなんて何もない。そんな俺と由佳が関わっているというのも、非常にまずい状況である。俺と関わることで、彼女に不利益がかかるなんて、あってはならないことなのだ。
「あれ? ろーくん?」
「お、行動が早いな……」
「行動が早いって、何も言わないで行くことはないじゃない」
「ま、あいつにも色々と事情があるんだろう」
という訳で、俺は一目散に教室に逃げ出した。これで、周囲の人達は目立つ人達に絡まれていた哀れな男くらいにしか思わないだろう。
黒板に書かれている座席表を見て、俺は自分の席を発見した。ついでに、由佳の席も見ておいた。どうやら、俺達の席は離れているようだ。
これで、とりあえず一安心できそうだ。もし隣の席だったりしたら、先程の話が繰り返されるだけである。
こうして、俺は一先ずではあるが、安息の地を得るのだった。
◇◇◇
ホームルームというものは、とても退屈なものである。連絡事項だけ済ませればいいというのに、どうして教師というものはこうも話したがり屋なのだろうか。
いつもならそんなことを思う俺だが、今日だけは話を引き延ばしてくれている教師に感謝していた。なぜなら、この後のことを考えるために少しでも時間が欲しかったからである。
朝に別れてから、俺は由佳とは話していない。ホームルーム、始業式、ホームルームという日程であったため、話す隙などなかったのである。
間に休み時間もあったが、その間、俺はトイレに行っていた。そもそも、由佳も四条と立浪に事情を話していたため、そこに隙はなかったようだ。
だが、担任の教師が満足すれば、このホームルームは終わってしまう。今日は他に授業もないため、そのまま放課後に突入する。
そうなると、どうなるか。当然、由佳は俺に話しかけてくるだろう。
朝の様子からして、それはほぼ間違いない。しかし、正直それはなんとかして避けたいものだ。特に、人々の目がある中で、由佳に話しかけられるなんて、色々とまずいに決まっている。
ホームルームが終わったら、一気に駆け出そうか。それなら、由佳にも捕まらないで済む。
しかし、追いかけて来られたそれはまずい。あまり脚力にも体力に自信がないため、すぐに追いつかれる気がする。
そもそも、学内で追いかけっこになった時点で、かなり目立ってしまう。それは、できれば避けたいものである。
ここでの最適解は、由佳と場所と日時を変えて話したいということかもしれない。放課後、どこどこで待ち合わせとかにして、予定が変わって行けなくなったということにすれば、いいのではないだろうか。
いや、でも、それは結局先延ばしな気もする。明日からどうするのかという問題もあるので、それで解決ということにはならないだろう。
「さて、それじゃあ、今日のホームルームは終わりよ。皆、気を付けて帰りなさい」
そんなことを考えている内に、教師のホームルームを終わらせる声が聞こえてきた。いよいよ、放課後が来てしまったのだ。
俺は、とりあえず深呼吸して落ち着くことにした。何が起ころうとも、動揺するべきではない。あくまでも、冷静に対処するのだ。
「ちょっといい?」
「……へ?」
そんな俺の耳に聞こえてきたのは、女性の声だった。ただし、それは由佳の声ではない。
その声は、馴染みがあるという訳ではないが、聞いたことがある声だった。一番直近でいえば、今朝ホームルームが始まる前に聞いた声だ。
「あんたに、話があるんだけど」
「え? 俺に……?」
「あんたしかいないでしょうが」
「えっと……あ、はい」
俺に話しかけてきたのは、四条舞だった。由佳ではなく、何故彼女が。そんな疑問で頭がいっぱいになって、俺は思わず固まってしまう。
「よう、悪いけど、少しだけ頼むよ。多分、そんなに長い時間はかからないと思うからさ」
「え? あ、そう……」
四条の後ろには、立浪もいた。この金髪カップルが、どうして俺に話しかけてくるのか。そんな疑問が、頭の中でぐるぐるしている。
もしかして、これはカツアゲなのだろうか。この二人は、髪も染めているし、ほぼ不良みたいなものだ。俺から金をたかろうとする可能性は、あるのではないだろうか。
しかし、流石の俺も、カツアゲはまだ経験したことがない。今のこの世の中でそんなことをする奴がいるなんて、あり得るのだろうか。
「それじゃあ、行くわよ」
「……行く? それは、どこへ?」
「人の目がある場所だと話しにくいわ。いい所を知っているから、ついて来なさい」
どうやら、俺はこれから人目のない場所に連れて行かれるようだ。これは、もしかしたら本当にカツアゲなのではないだろうか。
今日の財布の中身は、残念なことに潤っている。それを持っていかれるのは、正直結構痛手だ。
でも、抵抗しようなんて思わない。お金を渡してその場を逃れられるなら、それに越したことはないからだ。その場はやり過ごして、後で先生辺りに言う。それが、最も賢いやり方である。
もっとも、教師が動いてくれなかったらどうしようもないというのが、この作戦の欠点だ。この学校の教師は、一年間接してきて非常に一般的な教師だとわかっている。そういうことに熱心になってくれるかどうかは、五分五分といった所だろうか。
「こっちよ」
「こっち? でも、こっちは立ち入り禁止なんじゃ……」
「立ち入り禁止ということは、誰にも見られてなくて済む場所ということよ」
「いや、それは……」
「悪いな、藤崎。今回だけだから、どうか見逃してくれないか?」
「……まあ、仕方ないのか」
四条と立浪の目的地は、屋上だった。この学校の屋上は、基本的には立ち入り禁止だ。確か、部活動か何かなら先生の同伴と許可を得て仕えると聞いたことがある。
当然のことながら、俺達には教師の同伴もなければ、許可もない。完璧な校則違反ということになるだろう。
まあ、不良のやることなのだから、それは仕方ない。俺は無理やり連れて来られたということにすればいいので、今は気にしないでおこう。
「……それで、俺に一体何の用なんだ?」
「由佳から話は聞かせてもらったわ」
「うん? ああ、それがどうかしたのか?」
「どうかしたのか? あんた、ふざけてるの?」
俺の言葉に、四条は目に見えて怒っていた。正直言って、とても怖い。四条の眼力だけで、俺は思わず固まってしまう。
「あんた、なんで由佳に話しかけなかったのよ?」
「うわっ……!」
四条は、俺を壁に押し付けながらそんなことを聞いてきた。
これが、所謂壁ドンというやつなのだろうか。まったくときめかないし、むしろとても怖いのだが。
女子に近づかれて緊張するということ自体は、よくあることである。だが、恐怖によって心臓の鼓動が早くなるのは、もしかしたら初めてかもしれない。
それくらい、四条には迫力があった。俺が勝手に思っているだけだが、やはり女王と呼ぶに相応しい威厳である。
「舞、少し落ち着くんだ」
「竜太、あんたは黙っていなさい」
「うっ……」
彼氏であるはずの立浪も、四条をまったく止められなかった。やはり、力関係ははっきりしている。
「……いや、舞。今のままだと、藤崎は怖がって話せない。少しだけ落ち着くべきだ」
しかし、意外なことに、立浪は引き下がらなかった。俺は、一つ勘違いしていたようだ。立浪は、やる時はやる男なのだ。
俺は心の中で願っていた。立浪、頑張れ。この女王様を止めてくれと。
「怖い? 私が?」
「舞は今、怒っているだろう?」
「まあ、怒ってはいるけど」
「怒っている相手は怖いものだ。つまり、藤崎も今の舞は怖いはずだ。だから落ち着いた方がいい。舞が、藤崎を怖がらせたくないと思っているなら」
「……はあ、仕方ないわね」
立浪の説得は、なんとか成功した。だが、これで一安心という訳ではない。これから俺は、恐らく質問攻めに合う。俺の受難は、まだまだ続きそうである。
立浪は、俺に向き直った。その表情は優しさに満ちている。少なくとも、四条よりは気が楽だ。男の顔の方がいいなんて思う日が、来るとは思っていなかった。
だが、それはどうでもいい。今重要なのは、立浪の言葉である。
「まずは、俺の自己紹介からしようか。俺は、立浪竜太。こっちは、四条舞。お前の名前を改めて聞かせてもらっていいか?」
「……藤崎九郎」
「藤崎……いや、九郎。俺達は、由佳の友達だ。付き合いは中学の時からだ。舞と由佳が気が合って、俺はその繋がりで知り合ったんだ。舞と俺は、小学校の時からの付き合いでな」
「そうか」
由佳と四条達は、中学で出会ったらしい。それは、ある程度予想していたことである。
小学校なら、まだ俺が知っているはずだからだ。流石に、俺もこんな印象深い人達を忘れるはずはないだろう。
高校で知り合ったという可能性は、入学式の時点で否定できる。その時から既に、由佳達は仲良さそうにしていたからだ。
「由佳は、中学の時からずっとろーくんなる人のことを話していた。幼馴染なんだよな?」
「ああ、そういうことになるな……」
「なるほど、それで問題なんだが……」
「あんた、なんで由佳に話しかけなかったの?」
「おい、舞……」
順を追って説明していた立浪を遮って、四条は俺に質問してきた。どうやら、我慢の限界だったようだ。
彼女が言っていることは、当然俺が一年の時由佳に話しかけなかったという事実だろう。その質問に答えてもいいが、きっとこの二人も理解しない。由佳と同じ輝かしい世界の住人に、俺の気持ちなんてわかるはずはないだろう。
「別に、理由なんてなんだっていいじゃないか。大体、連絡もしていなかった疎遠の幼馴染と、何を話せばいいんだよ。もう他人だと思っていた。強いて言うなら、それが理由だろうな」
「あんた、由佳のことはよく知っているでしょう? あの子は、天然だけど優しい子。あんたが話しかけて無下にしないなんて、予想できたはずよ」
「俺の知っている由佳は、少なくとももっと地味だったさ。外見が変わっているんだから、内面も変わっていると思うのは至極全うなものだと思わないか?」
「それは……」
俺の言葉に、四条は少しだけ怯んだ。その直後、彼女は悔しそうな顔をする。俺に言い負かされて、腹が立ったのだろう。
別に、怒らせるつもりはなかった。むしろ、やり過ごそうと思っていたくらいである。そのため、俺は少しだけ焦っていた。どうして、こうなってしまったのだろう。
いや、その理由はわかっている。俺は熱くなっていたのだ。四条の言葉に対してイラついて、つい力強く言い返してしまったのである。
よくわからないが、俺は四条と相性が良くないのかもしれない。こんな風に熱くなるなんて、今までなかったことである。なんだか、自分でも混乱してしまう。
「……そういえば、あんたはどうして由佳に連絡しなかったのよ?」
「なんの話だ?」
「あんたが転校してから、すぐ由佳に連絡していれば良かったじゃない。どうして、そうしなかったの?」
「それは……」
言い負かされたからか、四条は話を変えてきた。その話題転換は、結果的に俺を怯ませていた。
この話は、俺にとって分が悪いものだ。俺が何故、由佳に連絡できなかったのか。できることなら、その理由は言いたくない。
「一体、どんな理由なのよ?」
「いや……」
「言いなさいよ」
四条は、俺に迫って来ていた。俺が怯んだからか、なんだか少し嬉しそうにしているのが腹立たしい。
だが、実際、俺は窮地に立たされている。このように迫られてしまったら、理由を言わざるを得なくなってしまう。
「舞、やめろ」
「え?」
「何?」
「誰にだって、言いたくないことの一つや二つくらいあるだろう」
「そ、そんなに睨まなくたっていいでしょう?」
そんな四条を、立浪は強く制止した。今までの奴とは、表情が違う。有無を言わせぬ、迫力がある。
実際にその視線を向けられている四条はもちろん、庇われているはずの俺すら恐怖していた。一体、何が立浪にそんな表情をさせたのだろうか。俺も四条も、よくわからなかった。
わかっているのは、俺が助かったということだ。これで四条は、これ以上追求しようとは思わないだろう。いくらなんでも、それはないはずだ。
正直、安心していた。あまり人に話したくはなかったからだ。特に、由佳に伝わる可能性があるこいつらに話すというのは、俺にとってできれば避けたいことだった。
「……悪かったな、九郎」
「……いや」
「話を戻さないといけないよな」
次の瞬間、立浪は何かに気づいたような表情をしながら、笑顔になった。先程までと変わらない笑顔だ。だが、俺はもうその笑顔を真っ直ぐに受け止めることはできそうにない。
作り笑いに見えてしまった。無理をして仮面を被ったような印象を受けてしまったのだ。もしかしたら、四条もそう思ったのかもしれない。立浪が笑顔を見せても、彼女の顔は晴れず、むしろさらに曇った。何も思っていないということは、恐らくないだろう。
しかし、立浪が何を抱えているとしても、俺には関係がないことだ。助けてもらった感謝の気持ちはあるが、それ以上は何もない。だから、気にしない方がいいだろう。
もっとも、立浪にとっては気にされないことの方が感謝になるのかもしれない。触れられたくない面というものは誰にでもあると、本人も言っていた。だから、そちらの方が立浪にとっては望ましいことなのかもしれない。
「俺達は、由佳のことを心配している。お前にも色々と事情はあるのかもしれないが、できれば由佳と仲良くしてくれないか?」
「それは……」
立浪は、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。その言葉に、偽りなんてない。それを示すかのように、真っ直ぐな視線だ。
眩しくて仕方ない。違う世界の住人の言葉というのは、俺にとって中々に厳しいものだった。
これに対して、どう答えるのが正解なのだろうか。この場をやり過ごすためには、頷けばいいのかもしれない。だが、それではまたいつか同じことを言われるだけなのではないだろうか。
それなら、最初からはっきりと自分の気持ちを口に出した方がいいのかもしれない。結論は出ている。俺は、由佳と仲良くしようだなんて思わない。
「……由佳は、ずっとお前のことを話していたよ。本当に、ずっと……話していたんだ。お前の小さい頃の思い出は、俺達でも結構知っていると思うくらいに」
「……」
「美化されているのかもしれないが、由佳の思い出の中に出てくるお前は、とてもいい奴だと思った。今まで話していて、俺の印象は変わっていない。お前はいい奴だ」
「……何を言っているんだ?」
「もし、お前が違う世界の住人だというなら、それを由佳に示せばいい。それで、由佳が失望して離れていくというなら、それでいいんじゃないか?」
「……!」
立浪の言葉は、俺の胸に刺さってきた。確かに、その通りだと思ってしまったのだ。
俺は、変わった。昔とは違う。それを理由に、由佳から離れようとしていた。
だけど、由佳はそんなことは知らない。昔のままだとそう思って、俺と接しようとしている。
それを由佳に知らせるには、実際に話してみるしかない。そうしなければ、由佳だって納得するはずはないだろう。
それを頑なに避けたのは、俺の中で由佳に失望されたくないという気持ちがあったからだ。俺は自分可愛さから、由佳と関わることを避けようとしていた。本心では、由佳に嫌われたくないと思っていたのだ。
由佳のためになんて、どの口が言えたのだろうか。自分の矮小さというものに嫌気が差してくる。
しかし、同時によく理解できた。こんな俺を見れば、由佳だってすぐにわかってくれるだろう。あの頃の俺は、もういないのだと。
「そうだな……立浪、あんたの言う通りだよ」
「竜太でいいさ」
「そうか……わかった」
「由佳と仲良くしてくれるか?」
「ああ、由佳が俺のことを嫌いになるまでは」
「そうか……」
俺の言葉に、立浪……いや、竜太は苦笑いを浮かべた。俺の考えというものはあまりいいものではない。そういう表情になるのも無理はないだろう。
「さて、それじゃあ、早速、由佳と話してみますかね」
「ああ、俺達はしばらく席を外す。ゆっくりと二人で話し合うといいさ」
「わかった」
「それと、階段の下には注意した方がいい。先生に見つかったら、流石に何か言われるだろうからな」
「了解」
それだけ言って、俺はその場から去ることにした。四条が少し不満そうな顔をしているが、それは気にしないことにする。
とにかく、俺は今の俺として由佳と話してみることにしよう。そうすれば、由佳だってわかってくれるはずだ。
「……由佳がお前のことを嫌いになるなんて、俺はないんじゃないかと思っているぞ?」
最後に立浪が、そんなことを呟いていた。
それを聞かなかったことにして、俺は屋上から去るのだった。
◇◇◇
教師に見つかることなく、俺は屋上を後にした。
由佳と話してみると決意したので、俺は彼女を探すことにした。といっても、多分教室にいるだろう。直前の状況から考えて、俺達が話を終えるのをあそこで待っているはずだ。
教室でなかった場合は、少し厄介である。由佳がどこにいるかなんて、俺には皆目見当もつかない。
例えば、俺なら図書室にでも足を運ぶだろう。だが、由佳のような人種は違うはずだ。図書室は、むしろ選びそうにない気がする。
友達と話すために、別の教室に行った。この方が由佳の行動としては正しいだろうか。それだと、少し辛い。友達がいる中話しかけるなんて、できれば避けたいものである。
「もしそうなっているなら、帰るか……」
俺の決心は、一瞬で揺らいでいた。だが、別に今すぐに由佳と話さなければならないという訳でもない。話すと決意したのだから、明日また話せばいいだけである。
そんなことを考えながら、俺は教室まで辿り着いた。中を覗いてみると、目的の人物を発見することができた。
「……え?」
しかし、目的の人物である由佳は一人ではなかった。派手な格好をしている二人と、仲良く話しているのである。
どうやら、正解は友達の方が由佳を訪ねて来るだったようだ。よく考えてみれば、由佳達のグループの中心は四条である。他の者達の方が教室に来るという方が自然なのかもしれない。
「……帰るか」
その光景を見て、俺はすぐさま帰ろうと思った。俺の決心などいうものは、臨機応変に形を変える。この状況なら、由佳と話せない。それが、俺の結論だ。
だが、その直後に困ったことに気がついた。俺のかばんは、まだ教室の中にあるのだ。
つまり、教室に入らなければ帰れないということである。教室に入れば、当然由佳は俺に話しかけてくるだろう。そうなれば、あの二人とも関わらなければならない。
「どうして、俺にはこうも無理難題が降りかかってくるんだ? 日頃の行いが、悪いからか?」
俺は、思わず頭を抱えていた。こんなことになるとは、先程までは思っていなかった。由佳と話す。それで終わりだと思っていたのに。
「あれ? ろーくん? ろーくん、帰って来たんだね」
「げ……?」
そんなことを教室の前で考えていると、由佳が俺に手を振ってきた。考えをまとめるなら、少なくともこの場を離れるべきだった。とても初歩的な失敗をしてしまう程に、俺は動揺していたようだ。
当然のことながら、由佳と話していた二人の視線も俺の方に向いて来る。四条や由佳と同類の二人の視線は、俺の体を強張らせるのには充分なものだった。
「へえ……」
「え?」
固まっている俺に、由佳の友人の一人が近づいてきた。その表情は、まるで悪戯っ子のようだ。
あ、これから俺は辱めを受けるのだな。そんな感想が自然に出てくる。それ程に、彼女の表情は愉悦のようなものに満ちていたのだ。
「あんたが、由佳の言っていたろーくんなんだね?」
「あ、ああ……」
「由佳の話からは、かっこいい感じだと思っていたけど、どちらかというと可愛い感じだね?」
「か、可愛い……?」
「あ、照れてる。ちょっときもいかも」
「なっ……」
甘ったるい声で話しかけてきた彼女は、確か月宮千夜という人物だ。四条一派の一人であるため、その噂はよく聞いている。
なんでも、結構遊んでいるらしいのだ。四条一派の中では、一番軟派。それが、彼女を称する時によく聞く言葉である。
見た目から考えても、確かに結構遊んでいるように見えなくもない。染めた茶髪、そこに一筋入っている赤いメッシュ、四条や由佳以上に改造された制服。どれも、やり過ぎなくらいに派手な印象を与えてくる。
「でも、やっぱり可愛い系なんだ。ふーん……」
「千夜、あんまりからかったりしない方がいいよ」
「涼音は固いね?」
「別に、そういう訳ではないけど……」
そんな月宮を止めたのは、水原涼音という人物だ。四条一派に属する女子四人の中では、彼女は大人しい方である。
それは、その性格だけではない。見た目に関しても、他の三人よりも控えめなのだ。
ただ、一般的な生徒と比べると、やはり派手といえる。特に、月宮と同じように入っている一筋の青いメッシュは特徴的だ。髪の色は黒であるが、その一筋だけで大分派手な印象を与えてくる。
「彼は、由佳と話があるみたいなんだし、私達は席を外した方がいいんじゃないかな?」
「まあ、そうかもしれないけど……」
「ほら、行くよ」
「そんな引っ張らなくても……」
月宮は、水原によって引っ張られていった。どうやら、ここから立ち去ってくれるつもりのようだ。
これは、俺にとってとても助かることである。月宮の相手は、とても疲れそうだった。それに嫌気が差していた所だったので、これはすごく嬉しい。
水原は、きっといい奴だ。この一瞬だけで、俺の彼女に対する印象はすごく良くなっていた。
「ろーくん、話は終わったの?」
「あ、ああ……」
そこで、由佳が俺に笑顔で話しかけてきた。輝かしい笑顔は、とても可愛らしく、彼女が昔と変わっていないことが伝わってくる。
その笑顔を見ているだけで、なんだかとても緊張してくる。覚悟は決めたはずだ。それなのに、俺は何を迷っているのだろうか。
「四条も竜太も、いい奴だな」
「え? うん、そうだよ。二人とも、すごく優しいんだ」
「……四条に関しては、優しいとはあまり思えなかったな」
「そう? まあ、少し口調がきつい時があるから、かな?」
とりあえず、俺は由佳に二人の印象を伝えておいた。話の内容を伝えずとも、こういえば特に問題がなかったことを理解してもらえると思ったからだ。
きっと、友人二人が俺を呼び出したことに、由佳は不安を感じていたはずである。それは、表情に少し出ていたので、まずは安心してもらうことにしたのだ。
その目論見は、恐らく成功しただろう。由佳の表情に、明らかに安堵が見えた。
「どんな話をしたの?」
「まあ、俺のことや由佳のことさ。おかげで、俺も色々と整理できた」
「そうだったんだ……後で、二人にお礼を言っておかないと駄目だね」
由佳に話したことは、本当のことである。あの二人のおかげで、俺は色々と整理ができた。竜太の言葉だけではなく、四条の言葉でさえ、俺にとっては良かったものだったと今は思っている。
「……由佳、俺はさ」
「え?」
「うん?」
俺が話を切り出そうと呼びかけると、由佳は目を丸くして驚いていた。何か、変なことを言っただろうか。
そう思った直後、俺は自分が由佳の名前を口にしていたことに気づいた。今朝は恥ずかしくて言えなかったはずの名前を、とても自然に言うことができたのだ。
それを自覚して、とても恥ずかしくなってきた。なんというか、それはとても情けないことのような気がしたからだ。
「ろーくん、私のこと、由佳っていうんだね?」
「え? あっ……」
しかし、由佳が驚いたのは俺とは違うことだったようである。よく考えてみれば、俺は由佳のことを昔は違う呼び方をしていたのだ。
「いや、流石に……なんというか」
「恥ずかしいの?」
「まあ……」
「でも、私はろーくんなのに……」
「ちゃん付けは、なんというか違うとは思わないか?」
「そうかな?」
「いや……」
俺は、由佳のことを昔は「ゆーちゃん」と呼んでいた。だが、今その呼び方をするのは、何故か無性に憚られた。なんだか、とても恥ずかしいのだ。
「まあ、でも、由佳って呼ばれるのも、なんだか嬉しいし、ろーくんがそう呼びたいなら、それでいいかな……」
「そ、そうか……」
とりあえず、由佳と呼ぶことは許してもらえた。少しだけ、安心である。
だが、ここで完全に安心することではできなかった。なぜなら、俺はこれから色々と言わなければならないからだ。
「それで、由佳……俺が一年の時に話しかけなかったのはすまなかった」
「え? あ、それは大丈夫……そもそも、私が気づかなかったのも悪いと思うし……」
「まあ、それは俺の影が薄いだけだ」
「でも……」
「そんなに気にしないでくれ」
まず、俺は由佳に謝ることにした。俺は、自分の身可愛さに由佳に話しかけなかった。それは俺の落ち度であるといえるだろう。
由佳が俺に気づかなかったことは、仕方ないことだ。影が薄い俺の存在なんて、普通に考えてわかるはずはない。
「理由については、噛み砕いて伝えよう。なんというのか……そうだな、由佳が俺の知らない友達と仲良くしていたものだから、もう俺との関係性はないものだと思った、という所だろうか」
「えっと……連絡も取っていなかったから、もう他人同然だと思ったということかな?」
「ああ……といっても、別に俺は由佳のことを嫌いになったという訳ではないんだ。昔と変わっているから、話しかけにくかった。俺のことを嫌いになっているかもしれないし、話しかけても迷惑かもしれない。色々と考えた結果、そうしてしまったんだ」
俺は、由佳に対して自分の思いを噛み砕いて説明していった。こういえば、由佳にもなんとなくわかるのではないだろうか。
「なんとなくわかるかな……よく考えてみれば、私、昔とは見た目も変わっているし、ろーくんに私が昔とは全然違う人になっていて、ろーくんのことを忘れていると思われることは、おかしくないと思う」
「ああ、まあ、そんな感じだ。本当に、すまなかった」
「ううん、もう気にしないで……私も、ごめんね。色々と……」
由佳は、俺の言葉にある程度納得してくれたようだ。これで、俺達の間にあった疑問は、解消されたといってもいいだろう。
少し誤魔化すような形になってしまったのは、少し申し訳ない。だが、言った言葉に嘘偽りはない。俺は由佳が、大きく変わってしまったと思っていたのだ。
「でも、これからは友達……元通りの幼馴染ということで、いいんだよね?」
「あ、ああ……そうだな」
「良かった……一年も無駄にしてしまったのは残念だけど、ろーくんと再会できた。私、すごく嬉しいよ」
「そうか……俺も、由佳と再会できて嬉しいよ」
俺と由佳は、笑い合った。不思議なことに、俺は自然に笑みを浮かべていたのだ。
もしかしたら、俺は心の中では、由佳と再会したがっていたのかもしれない。いや、もしかしたらなどではない。間違いなく、再会したがっていたのだ。
由佳は、俺にとって大切な幼馴染である。それは、今も昔も変わっていない。そんな幼馴染と再会したくなかったなんて、思っていたはずがなかったのだ。
俺達のお互いを思い合う気持ちは、恐らく昔と変わっていない。変わってしまったのは、俺という人間だ。
由佳と離れている間に、俺は変わった。もう昔の俺ではないのだ。
由佳がそれを理解すれば、何かが変わるだろう。その何かが変わるまでは、由佳は昔と変わらない態度で俺に接してくるはずだ。
その一瞬を、俺はしばらくの間謳歌すればいいのだろう。もちろん、ある程度の線引きは必要だと思うが。
「さて、連絡先を交換しておく必要があるんだったよな?」
「あ、うん。後で電話したいから」
「帰ってから、俺もアプリを入れるよ。そっちで連絡した方がいいだろう?」
「そうだね。できれば、その方がいいな」
俺達は、お互いの連絡先を交換し合った。考えてみれば、女子とそんなことをするなんて初めてである。
いや、もっとよく考えてみれば、男女含めて初めてだ。俺は高校からスマホを持つようになったが、男友達もいなかったので、身内以外ではこれが初めてということになる。
「よし、これで帰ったら連絡できるな」
「うん。電話するね」
「電話? メッセージでやり取りすればいいんじゃないのか?」
「電話の方が話しやすいから……それに、声も聞きたいし……」
「そ、そうか……」
由佳の言葉に、俺はすごく緊張していた。そう言ってもらえるのは、とても嬉しい。とても嬉しいから、こんなに鼓動が早くなってしまうのだろう。
俺は、少し深呼吸をする。とりあえず、心を落ち着ける必要があったからだ。
冷静になってきて、俺はあることに気がついた。由佳と話すべきことは、これで大体終わったのだ。
「……さ、さて、それじゃあ、そろそろ帰るか?」
「あ、舞と竜太君を待たないと……」
「ああ、そうか。あの二人は、まだ帰って来ていないんだな……」
用事も終わったので、もう帰ろうと思っていたのだが、そういえば四条と竜太がまだ教室に帰って来ていないのだ。
仲の良い由佳は、あの二人を待ちたいのだろう。それは、よく理解できる。
問題は、俺がどうするかだった。あの二人を俺も待つ必要があるのだろうか。先程話したとはいえ、あの二人とはほとんど繋がりがない。それなのに、待つというのもおかしい話なのではないだろうか。
「えっと、俺は……」
「うん……」
立ち上がった俺を、由佳は上目遣いで見つめてきた。その視線からは、一緒に待って欲しいという思いが伝わってくる。
こういう風な視線を向けてくるのも、昔とは変わっていないようだ。俺はこの視線で見つめられると、大抵の要求は受け入れてしまうのである。
「あ、えっと……由佳は、昔と比べて、かなり見た目が変わったよな?」
「え? あ、うん。そうだね」
俺が座り直すと、由佳の顔が明るく輝いた。こういう顔を一度見てしまうと、彼女の頼みを無下にするなんて、無理になるに決まっている。
「まあ、数年も経っているから、当たり前なのかもしれないが……そういう趣味だったんだな?」
「そういう趣味?」
「派手好きとでもいうのか? なんというか……すごいな」
俺は、由佳の髪を見ながらそう呟いた。彼女のピンク色の髪は、すごいとしか言いようがないのだ。
そんな髪の色をした人なんて、今まで数える程しか見たことがない。しかも、それはメディアに出ているような人物をテレビやインターネット越しで見たということだ。このように、実際に見たのは由佳が初めてである。
由佳の髪を見ていると、四条や月宮といった者達も霞む。髪の色だけなら、彼女が一番目立つといえるだろう。
「どうかな?」
「どうかな?」
由佳の質問に、俺は思わずオウム返ししていた。それ程に、衝撃的な質問だったのだ。
この質問に対して、どういう風に答えればいいのだろうか。今まで経験がないため、よくわからない。
俺の知識では、こういう時は褒めればいいと思う。だが、それが正しいのかどうかを判断できる程、俺はこういう質問を受けたことがないのだ。
「似合っているんじゃないか?」
「疑問形?」
少し照れ臭くて、疑問形で言葉を発した。しかし、それは間違いだったようである。
こういう時は、はっきりと言う必要があるようだ。今後、こういう質問をされた時のために、覚えておこう。
「……似合っていると思う」
「あ、ありがとう……」
俺が言い直すと、由佳は笑顔を見せてくれた。一度失敗したのに、こういう笑顔を見せてくれる彼女はとても優しいと思う。
実際の所、彼女にはピンク色の髪が驚くべき程、似合っている。こういう髪の色が似合うというのは、かなり珍しいのではないだろうか。あまり見たことがないため、そう思うだけなのかもしれないが。
「えへへ、嬉しいな……」
「うっ……」
「ろーくん? どうかしたの?」
「いや、なんでもない……」
俺の言葉を噛みしめるようにして喜ぶ彼女は、とても可愛かった。その可愛さに、思わず声をあげながら目をそらしてしまった程に。
昔から由佳は可愛かった。成長しても、それは変わっていない。それどころか、可愛さが増していると思うくらいだ。
しかも、可愛さだけではない。少し大人っぽくもなっている。成長した彼女を改めて見つめて、俺は心臓の鼓動を早くしていた。
「……何を考えているんだ。俺は……」
「うん? 何か言った?」
「いや、なんでもないんだ。本当に、なんでもない……」
色々と考えて、俺はさらに恥ずかしくなっていた。なんてことを考えているのだろうか。こんなことは、考えるべきことではない。
とりあえず、俺は思考を切り替える。四条や竜太はまだなのだろうか。そう思いながら、俺は教室の外を見てみる。
「うん? あれは……」
「どうかしたの?」
「いや……」
「あっ……」
教室の外を見て、俺は人影があることに気づいた。その二人組には見覚えがある。
というか、明らかに四条と竜太だ。恐らく、俺達のことを隠れてみていたのだろう。
「いや、違うのよ。別に盗み見していた訳じゃないの」
「ああ、そうなんだ。なんというか、非常に入りずらい雰囲気だったから……」
俺達の視線に気づいたのか、二人はこちらに歩いてきた。やはり、二人は俺達の様子をいつからか見ていたようだ。
なんというか、とても恥ずかしい。あれを見られていたというのは、背中がむず痒くなるようなことだった。
由佳も照れているようで、顔を赤くしている。そんな表情も可愛いと思ってしまって、俺はすぐに他のことを考えてその思考を切り替えた。
「まあ、教室だからね。別に、二人が来ることは何もおかしくないことだし……」
「ああ、まあ、そうだな……」
二人を責める気持ちはない。教室に帰って来て、あんな会話をしている中に入っていくというのは、無理な話だろう。
それで、しばらく様子を窺うと思うことは、当然のことである。それに対して、俺達が責める理由はない。
「あ、そういえば、さっきここに千夜と涼音が来たんだ」
「ああ、そうなの」
「うん、私も舞もまだ学校で用事があるって……まあ、ろーくんのことを伝えたんだけど、そしたら二人も終わるまで待っているっていていたんだ。多分、あっちの教室にいるんじゃないかな?」
「そう。それなら、迎えに行かないといけないわね」
そこで、由佳と四条が、月宮と水原に関する会話を始めた。二人を迎えに行く。それは、俺にとってはあまり気が進まないことだ。
そもそも、四条や竜太と一緒というのも、そこまで気が進むようなことではない。さっきのこともあるので、竜太に関しては少しくらいはいいと思うが、四条はまだまだ苦手なのである。
「由佳、俺は少し用事がある。先に帰らせてもらうぞ」
「え? あ、そうなの? それは……引き止めて、ごめん」
「いや、別に問題はないさ。今から帰れば、充分に間に合う」
俺は、適当に嘘をついて帰ることにした。二人も来たので、これ以上付き合う必要はないだろう。
四条一派の女子が揃った中にいるというのは、居心地が悪そうだ。四条一派には竜太以外にも男子もいる。そいつらも加わったら、俺の居心地はもっと悪くなるだろう。
という訳で、逃げるのだ。情けないかもしれないが、今の俺にとってはこれが最良の選択だ。
「じゃあな」
「うん……後で、電話するからね?」
「ああ、わかっている」
由佳の言葉に短く答えて、俺は教室を後にする。
別れ際の彼女の声色が、少し寂しそうに聞こえたのだが、それは俺の気のせいだと思うことにした。
◇◇◇
家に帰って昼食を取ってから、俺はすぐにスマホにアプリを入れた。電話番号を登録していたため、そのアプリでの由佳の連絡先もすぐに登録できた。
無事にできて、少し安心である。初めてのことだったので、実は失敗するのではないかと少し緊張していたのだ。
「うん?」
直後に、俺の携帯にある通知が入った。由佳の方も、無事に俺の連絡先を登録できたようだ。
これで、お互いに連絡することができる。だが、由佳から電話をすると言っていたので、俺は待っていればいいだろう。
「おっ……」
そう思って、スマホを置こうと思ったが、すぐに通知が来た。由佳から、メッセージが届いたようだ。
「えっと……ニ時頃に連絡するね?」
由佳のメッセージは、そんなものだった。今は、十二時過ぎである。結構、時間を開けてから連絡してくるようだ。
そういえば、由佳は四条一派と一緒に帰っている。丁度昼前に帰ったはずなので、あの一派のことだから、寄り道して昼食を取っているのかもしれない。
それなら、由佳も帰るのが少し遅くなるだろう。そう考えると、三時というのは、それなりに納得できる時間なのかもしれない。
「まあ、俺は気楽に……え?」
再びスマホを置こうとした俺に、通知の音が聞こえてきた。由佳から、またメッセージが入ったようである。
「どうしたんだ? えっと……今、何をしているの? なんだ、この質問は……?」
由佳からの突然の質問に、俺は困惑していた。その質問は、むしろこちらが聞きたいくらいである。今、彼女はどういう状況なのだろうか。
どこかで四条一派と昼食を取っているが、俺に連絡をしている。そういうことなのだろうか。
その状況で返信すると、周りの者達に見られたりするかもしれない。そう思って、俺は思わず返信を躊躇ってしまった。
すると、再度スマホが振動した。またも、由佳からメッセージが届いたようである。
「うん? ちゃんと届いているよね? いや、そんなに早く心配になるものなのか?」
由佳の質問に対して、俺は少しだけ違和感を覚えた。なんというか、この質問が出てくるのが早い気がするのだ。
こんな質問は、メッセージを送ってからしばらくしてからするものではないだろうか。直後にしてくるとは、どうにも思えない。
「あっ……」
そこまで考えて、俺はとても重要なことに気がついた。そういえば、こういうアプリは既読とか未読とかが、相手にわかるのだ。
俺は、由佳からの最初のメッセージをすぐに見た。その後のメッセージは、由佳との会話画面を開いたままで見ていた。つまり、すぐに既読がついたということだろう。
それなのに、一向に返信しない俺に、由佳が心配した。もしかして、今はそういう状況ということなのだろうか。
「と、届いている……と」
とりあえず、俺はそのように返信をした。すると、すぐに既読になる。当然のことではあるが、あちらもスマホを見ているようだ。
「え? えっと……そっか、よかった。無事に届いていなかったら、どうしょうかと思ったよ……か」
俺の返信の直後、すぐに返信が来た。十秒も経っていなかったと思うのだが、由佳は文字を打つのが早いようだ。
「力量差を見せつけられているような気がするな……」
由佳の文面を見ながら、俺はそのように呟いていた。
打つのが早いのはもちろん、彼女の文章は明るい。絵文字か何かよくわからないものなどがついているからだ。
はっきり言って、俺にこういうことはわからない。単調な文章を返すことしか、俺にはできないだろう。
「うっ、また来たな……」
そんなことを思っている間にも、由佳からメッセージが届いてきた。俺に休む暇を与えてくれるつもりはないようだ。
届いてきたのは、先程と同じような質問だった。今は何をしているか。それを由佳は聞きたいようだ。
とりあえず、俺は「家で寝ている」と返しておいた。自分でもわかるくらい、淡白な返信だ。これでは、まったく会話が盛り上がらない気がする。もう少し何か言えることはないのだろうか。
「そっか、私は今、舞と千夜と涼音と一緒に昼ご飯だよ。ろーくんは、ご飯をもう食べたの? まあ、大体想定していた状況だな……」
俺の予想通り、由佳はあの三人と一緒に昼食だった。そんな状況の中で、俺にメッセージを送ってきているのか。色々と大丈夫なのか、少し不安になってくる。
例えば、あの三人に俺の返信が見られているとか、ないのだろうか。それは、なんだかすごく嫌である。
そんなことを思いつつ、俺は「食べた」と返信しておいた。話を伸ばす方法はないかと考えたが、あまり返信が遅れても心配されると思ったので、思いついた端的な返信を送ることにした。
「何を食べたの? ちなみに、私達はハンバーガーだよ。ああ、そういう風に話を引き延ばせばいいのか……」
俺は、由佳の返信を見て、これが会話をするということなのかと思った。話を引き延ばす方法というものを、俺は今知った気がする。
いや、由佳は別にそんなことを意識している訳ではないのだろう。彼女にとっては当たり前のことというか、当たり前も何もないようなことなのではないだろうか。
こういうのは、天性のものだと俺は思っている。いくら学んでも、俺にはできないのではないだろうか。そう思うくらいに、由佳と俺との間に壁のようなものを感じる。
「昼……ラーメンだな。いや、だが、それだけでいいのか?」
俺の昼食は、ラーメンだった。袋麺だ。
それをそのまま返信するのは簡単である。だが、俺も何か引き延ばした方がいいのではないかと思った。
しかし、袋麺からどういう風に話を引き延ばせばいいのだろうか。袋麺の詳細でも記載しようか。いや、それを伝えられても、由佳は困るだけのような気がする。
「ラーメンだ。とんこつ味だった。これくらいで、どうだ?」
結局、俺にできる返信はそれだけだった。
その直後、当然のことであるかのように由佳から返信が返ってくる。返信が早すぎるのではないだろうか。できることなら、もう少し落ち着く時間が欲しい。
「袋麺、美味しいよね。私も、好きだよ。ちなみに、ろーくんは好きな食べ物とかあるのかな? 好きな食べ物か……」
由佳からは、また質問が返って来ている。由佳は、なんだか質問ばかりしているような気がする。いや、俺が話を広げないから、広げようとしてくれているのだろうか。
「好きな食べ物……難しい質問だな。急に言われると、少し迷うというか、なんというか……」
由佳の質問に、俺は悩んでいた。好きな食べ物と言われても、何を言えばいいかわからなかったのだ。
色々と好きな食べ物はあるはずなのだが、こう質問されると何を答えるべきか悩んでしまう。だが、早く返信しなければ、由佳が心配する可能性もある。あまり、熟考ができる訳ではない。早く、何か答えを導き出さなければならないだろう。
「ラーメンでいいか? 袋麺好きだし……いや、待てよ。さっきラーメンって言ったんだから、同じ話をするのは駄目か」
ラーメンという答えを返そうかと思ったが、それでは味気ない気がしてきた。ここは、もう少し話を広げらるようなものの方がいいだろう。
だが、そう考えると益々わからなくなってくる。俺は一体、何が好きなのだろうか。
「うっ……」
そう考えている内に、由佳からメッセージが届いてきた。やはり、俺の返信が遅いとあちからから連絡してくるようだ。
「子供の頃は、ハンバーグが好きだったよね? もしかして、今も変わっていないの? ハンバーグ……そうか」
由佳からのメッセージに、俺は自分が子供の頃に好きだと言っていたものを思い出した。
ハンバーグは、今も嫌いという訳ではない。むしろ、好きなくらいだ。
それなら、その旨を伝えればいいかもしれない。子供の頃の話なら、俺でもある程度広げることができるはずだ。
「ハンバーグは、今も変わらず好きだ……由佳は、確かオムライスが好きと言っていたな。よし、それならそのことも付け加えておこう」
俺は、由佳に対して質問をした。彼女が、オムライスを今も好きかどうかを問いかけてみたのだ。これで、俺からも少し話を広げられただろうか。
そう思った直後、俺のスマホにメッセージが届いてきた。やはり、返信が早い。
「今も好きだよ……か」
由佳の好みは、今もそこまで変わっていないようだ。いや、これは単に話を合わせてくれただけかもしれない。
というか、よく考えてみれば、この質問で嫌いとは答えないだろう。好きだった食べ物を嫌いになるなんてことは、中々ないことである。もしかしたら、聞くまでもない質問だったのかもしれない。
いや、そういう訳ではないのだろうか。これは会話なのだから、意味がないとかそういうことは関係のだろうか。
なんだか、わからなくなってきた。俺は少々、複雑に考えすぎているのかもしれない。
「ふう……」
そこで、俺は少しため息をついた。なんだかよくわからないが、無性に疲れと眠気を感じるのだ。
よく考えてみれば、今日は朝から色々と大変だった。由佳と再会して、立浪や四条と話して、普段の俺ではあり得ない程忙しい日だったと思う。
そんな一日に、俺は結構疲れているのかもしれない。なんだか無性に眠いし、ここは一度睡眠をとりたい所である。
「ああ、でも、鳴っているな……」
瞼を閉じようとしたが、またもスマホが通知を告げてきた。また、由佳から何かメッセージが届いたのだろう。
なんというか、会話が途切れそうにない。この話は、一体いつ終わるのだろうか。
別に、由佳との会話が嫌という訳ではない。だが、今はとにかく眠りたいのだ。この話が終わってくれないと、少し困ってしまう。
「いや、別にスマホに付きっ切りになる必要はないのか?」
そこで、俺は考えを改めた。別に、スマホに付きっ切りになる必要などないのではないだろうか。
こういうアプリは、別にすぐに返信しなければならないという訳ではないはずだ。もしかしたら、そういう雰囲気や風潮があるのかもしれないが、少なくとも俺はそんなことは知らない。
俺がしばらく返信しなければ、あちらも何か用事ができたとか思ってくれるだろう。別に、それでいいのではないだろうか。
眠気が限界になっていたためか、俺はそんなことを考えていた。ゆっくりと目を瞑って、俺は夢の世界へと旅立っていく。
「うわあっ!」
しかし、俺は突如スマホから鳴り響いた音に意識を覚醒させることになった。
この音は、電話だ。この状況で電話がかかってくる。それが誰かなのかは、ある程度予想がついた。
だが、どうして電話をかけてくるのだろうか。色々とよくわからない。
考えても仕方ないので、俺は電話を取ることにした。画面を見てみると、やはりかけてきたのは予想通り由佳である。
「……もしもし」
『あ、ろーくん?』
「ああ、そうだが……どうかしたのか? 急に電話なんて?」
『あ、うん……返信がないから、どうしたのかなって……』
「返信がないから? でも、そんな間があった訳ではないと思うんだが……」
『そ、そうなんだけど……』
声色から、由佳が俺のことを心配していることはすぐにわかった。それが返信がなかったことに対する心配だということも、なんとなく理解できた。このタイミングで心配することなんて、それくらいしかないからだ。
しかし、俺は一瞬しか間を開けていない。それなのに電話をかける程心配するのは、なんだか大袈裟ではないだろうか。
『私、おかしいよね……久し振りに会って舞い上がって、混乱しているのかも……』
「いや、由佳の気持ちは嬉しいよ。俺が急に倒れた可能性もない訳ではないし、っそういう風に心配してもらえるのは、ありがたい。ありがとう、由佳」
『お、お礼を言われるのは、なんだか大袈裟かも……』
「そうか……でも、これが今の俺の素直な気持ちだ」
『そ、そっか……それなら、良かったかな?』
最初は大袈裟だと思ったが、俺は由佳に感謝の気持ちを抱いていた。俺のことを、こんなにも心配してくれる人なんて、他にいない。そう思い至って、むしろ少し感激したくらいである。
「ああ、そうだ。由佳に謝らないといけないな」
『え? 謝る?』
「実は、俺が返信できなかったのは、眠気が襲ってきて、少し眠ろうと思ってしまったからなんだ。話の途中だったのに、すまなかったな」
『あ、そうなんだ。別に全然いいよ。こっちが気にし過ぎただけだし。あ、ということは、ろーくんは今家のベッドの上にいるということなの?』
「うん? ああ、そうだな。寝転がりながら、ゆっくりとしている」
『そうなんだ。それは、確かに眠くなりそうな環境だね』
そもそも、今回は俺が変な所で寝落ちしそうになったことが原因だ。それなのに、由佳の判断を大袈裟なんていえるはずはない。感謝どころか、まずは謝罪をしなければならない立場だったのだ。
今は、もう意識がはっきりとしている。突然の電話によって、意識が覚醒したのだ。
「というか、由佳は大丈夫なのか? 四条達と一緒だったはずだよな?」
『あ、うん。それは、大丈夫。皆も、ろーくんとやり取りしていたことはわかっていたから、少し電話してくるって言って来ているんだ』
「そ、そうか……」
四条達は、俺と由佳がやり取りをしていたことを知っていたらしい。考えてみれば、密かにやり取りをするという方がおかしいのだから、それは当然のことである。
あの三人に、由佳とやり取りしていたことを知られているというのは、なんだか無性に恥ずかしかった。なんとなく、どういう表情をしているか予想ができるのだが、その表情が嫌なのだ。
しかし、そこで俺はあることに気づいた。そういう表情をしそうなのは、四条と月宮だけだ。水原は違うと思う。
『それで、ろーくんは眠たいんだよね?』
「うん? ああ……まあ、そうだな」
『それなら、ゆっくりと休んで。私も、今日はこれでもう連絡しないから』
「え?」
由佳の言葉に、俺は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。彼女の言っていることが、学校の時と変わっているからだ。
心なしか、由佳の声は少し暗い気がする。本当は電話したいのに、電話しないと言っているように思えるのだ。
「家に帰ってから、電話するんじゃなかったのか?」
『そうしたいけど……ろーくん、疲れているみたいだから……』
「別に、俺は構わないぞ。一眠りすれば、俺も回復するだろうし」
『ううん、本当に大丈夫。だって、連絡は明日でもできるんだもん。私、ろーくんと久し振りに会えてはしゃいじゃっているから、少し落ち着いた方がいいんだと思うんだよね……』
「由佳……」
由佳の声色から、俺はその言葉に自虐的な意味が含まれていることに気がついた。
恐らく、由佳は反省している。俺と久し振りに会って、はしゃぎすぎてしまったことを。
だが、それは別におかしいことではないだろう。俺だって、由佳と久し振りに話せてはしゃいでいない訳ではない。きっと、それは人として当然のことなのだ。
「別にいいさ。そうやってはしゃいでもらえるのは、俺からすれば嬉しいことだ」
『でも、それで疲れさせてしまいそうで……』
「疲れたって構わない。明日は、学校だけど、別に疲れていても学校に行けない訳ではない」
『そんなのは駄目だよ。疲れはしっかりとって欲しい』
「そ、そうか……」
スマホから聞こえてきた慈悲深い声色に、俺はとても困惑していた。どうやら、由佳は結構俺のことを心配しているようだ。
確かに、俺は今日とても疲れている。朝から色々とあって、その疲労はかなりのものだろう。
正直言って、由佳とのやり取りは体力を使う。思わず色々と考えてしまい、無駄に疲れてしまうのだ。
それにすぐに慣れることはできない。つまり、今の俺は由佳とやり取りをすれば疲れるということになる。
「……それなら、由佳の言う通り、休ませてもらうか」
『うん。それがいいよ……』
「……ああ、そうするよ」
俺は、由佳の言葉に従うことにした。多分、俺は休んだ方がいいのだ。
俺の体は疲れている。それは紛れもない事実だ。休んだ方が、絶対にいいだろう。
そもそも、このまま話していても、由佳を心配させてしまうだけだ。そうすることがいいことだとは思えない。
『えっと……また明日、学校でね?』
「ああ、学校で」
『うん……それじゃあ、切るね?』
「ああ……ありがとう、由佳」
俺の言葉から数秒後、ゆっくりと電話は切れた。由佳が、名残惜しそうなのはその声色からも間の置き方からもわかる。
失われた時間を取り戻したい。彼女は、そう言っていた。本来なら、まだまだ話したりなかっただろう。
それでも、俺を気遣ってくれた彼女には、感謝の気持ちしかない。本当に、由佳は優しい人である。
「さて……寝るか」
そう呟いてから、俺は目を瞑った。この後は、ゆっくりと体を休めるとしよう。
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