プロローグ──紅月百が案内人鳥になるまで(1)
むしゃむしゃ、もぐもぐ、むちゃむちゃ。
赤みがかった桃を乱雑に掴んでは口へ放り込む。綺麗なガラス皿に盛りつけられてもフォークは用意されておらず、そうするしかなかった。
むしゃっ、もぐ、ごくん。むしゃむしゃ。
最初のうちは濃厚な甘味を堪能していたはずが、今は一心不乱に食らいつく。乾ききった喉も空腹だった腹ももう満たされているのに両手が止まらない。
(なんで俺、食べているんだっけ。あ、そうだ。三日間何も口にしていなくて。……美味しいんだよな?)
一瞬、理性が戻るもまた皿が空いても空いても無限に出てくる紅色の皮がついた桃を食べ続けた。
「おま、たっせー!」
咀嚼音のみが響いていた白いモヤモヤした雲のような中。桃とテーブル以外は真っ白な空間で女性の高らかな声加わり、顔を上げると開いた暖簾が見える。女湯。あまりにも衝撃的なことに手が──止まることはなかった。
「フゥー、お客様をお迎えするからつい長湯しちゃった。用意が遅い女でごめんね〜。気長に待ってくれる人、だーいすきだよ!」
(長湯? 待たせた? 大好き?)
しかし手は止まらず桃を食らっている。ジューシーさは思い出せてきてごくんと生唾も一瞬に飲み込んだ。
一方で女は謝罪するも慌てる様子はなくマイペースに暖簾から出てきたが、変だった。丸々し過ぎず整った顔にぷるぷるの桜色唇と筋の通る鼻、目尻が垂れた瞳はぱっと見桃色の瞳をしており、瞳と同色のゆるめの髪が鎖骨まで伸びていてゆるふわにスパイスとしてセクシーさを取り入れたような顔立ちだ。
ゆで卵が剥けたようなツルツルした肌と肩、腹に余分な肉はなくスッキリ、脚もすらりと伸び、スタイルも美しい。だが問題はそこであってそこじゃない。
女はこっちへ近寄ってくる。
「お待たせお待たせ! あ、そんなに食べてくれたんだ。嬉しいな〜、無限にいけちゃうでしょ?」
女が歩く度に右上ぼよん、左上にぼよん。上半身に位置する二個の桃みたいな部位が激しく揺れる。もぎ取れるかってくらいに。細身の女はそれすら気にも留めず、見知らぬ青年に微笑んで話しかけた。
「人間界のを真似て作ったあかつき桃なんだ〜。白桃や黄桃とは違うから赤くてあまーいよね」
「……あかつき……」
「そうだよ。君の名前と同じあかつき桃。紅月百君、ここへようこそ!」
近づいてきたら意外と背もある女に百と呼ばれた青年はため息を吐く。口の半分まで入った一切れの桃を無理矢理飲み込んだ。
「……あの」
「はいはい?」
「入浴していたのなら服着たらどうです? 女性ならご存知かと思いますが湯冷めといって出た直後は涼しくても内蔵には悪いかと」
隠してるとしたら首にハートのアクセサリーがついたチョーカーを、脚の付け根は雲で覆われていた。
どこか既視感のあるすっぽんぽん巨乳女性に対して冷静に指摘し、自分の羽織っていたブレザーを脱ぐ。
「サイズは合いませんが念の為にこれ差し上げます」
「ど、どうも……?」
困惑しながらも受け取る女に百は安心した。ひと仕事を終え、視線をあかつき桃が復活した皿へと戻し、一切れパクリ。たしかに濃厚でジューシーな甘味が虜となり、もう一切れへと手を伸ばしたくなる。食感も柔らか過ぎず、とてもいい。
「それから客と会う際には必要最低限でも衣服着用をすること。面積が小さいのはダメです。風邪引きますからね。まあ、裸族というのも存在しますが僕個人してはあまり増えないで欲しいかな……と」
私情を挟みつつ、説教し続けたせいだろうか。鼻を鳴らし、大粒の涙を零す女性が顔を上げたらいて、百は空いた口が塞がらなくなった。当然、桃は口の中にないが。
(え、ちょっと待ってちょっと待って……。な、泣くほどのことだったか!?)
いや確かに、見ず知らずの相手に面倒な説教を受ければ嫌な気持ちになるだろう。女の言動からして、こちらはもてなされる側だ。サービスの一環なら黙って耐えるのが世の性かもしれない。
恐る恐るもう一度確認するとやはり涙をポロポロ零している。相手には失礼だが泣いた姿もとても絵になる人だった。
「も、申し訳ございません! 僕、とんだ失礼を! こ、ここの桃、最高に美味しいのでいかがですか!?」
椅子から立ち、頭を深く下げテーブルにあった皿を女の前に出す。舌に残る甘さが胸焼けしそうだった。
(あの乱暴な姉ちゃんでさえ失礼なご主人様に対して事を起こさず、笑顔で対応してたもんな)
『皆が言う私が問題起こす時は世の道理から外れている相手に対しての最終手段。今はメイド喫茶で奉仕する側だけど家族や他のメイド達が肉体的にも精神的にも犯されたらそりゃ……ね?』
濃いメイクを崩しながらも家族に語った信念は姉が昔から大切に貫き通すもので、バイトを経験したことのない百を始め、両親達の心に響いた。
姉の状況を借りるのなら百は今、迷惑な客であった。女は初対面の客を笑顔で迎えてくれたのに、ファッションを否定するような言い方をした。伏せながら唇を噛む。
(いやでも、迷惑ではあるんだが裸で出歩くのは体にも悪いんだって! 紅月家女達のように一部大丈夫な奴らもいるけど、父さんみたいに腹下す奴もいるんだって!)
最早常識という概念がわからない。状況や場所によって微妙に差があるため、頭痛がしてきた。
「ぷっ、ふふふ。紅月百君って面白い子だね」
「へっ?」
可愛らしい笑い声に吸い寄せられ、女を見る。ちょうど目線に胸はあるが上手い具合にブレザーが役割を果たしており、さっきまで泣かせていた顔を窺った。
女は眉を八の字に困らせ、朗らかに笑う。元から目尻が垂れていることもあり、笑顔だとさらに華やかさが増す。
「まあ、人間界だとそれが普通だよね」
「人間界……」
(そういえば、どうしてここに僕はいるんだろう)
そもそもここがどこかなのかすら不明だ。気がついたらあかつき桃を貪り食っていた。高級桃で貧乏の自分には手に入らない代物なのに。
「桃は大丈夫だよ。こちらこそ驚かせてごめんね。よし! 今、普通の服に着替えるから」
すると女は瞼を閉じる。キラキラした長い睫毛だな、と観察していたら足元から花弁が舞う。桜と見間違えるその花は桃の花。可憐にいくつもの花を全身に纏い、散る頃にはミルク色のセーターを着用していた。
魔法少女の変身バンクを想像させる技に目を見張ると、女は自慢気に胸を張る。
「ふふん、凄いでしょ! あまりお客の前で披露する機会のない変身だったけど、どうだったかな? 可愛い?」
はにかんで笑うところに愛嬌を感じ、思わず口が滑って女の言葉を繰り返しそうになった。だが。
「あ、あの」
一応、視線を元に戻す。
「うん? なにかな、紅月百君」
「逆だと思います」
「んくももきつかあ?」
「僕の名前を逆するのではなく。ノースリーブのタートルネックセーター……つまり、流行が去り始めた童貞を殺す系のセーターだと思うのですが、後ろ前が多分というか逆です」
肩から腹まで開いた服は最早、通常の服としては機能しておらず、魅せるファッションになっている。
ほぼ裸にも動じず似たような指摘をする百に女は目を瞬かせ、一気に顔を赤く染めた。ぼふんと音がする。
「ご、ごごごめんなさい!! 着用に力を使うの久々で勝手がわからないというか……その、いつもは閻ちゃんに仕立てて貰っているというか……」
どうやら二度目の失態に本人が恥じらい、あわあわとその場をうろちょろする。
「い、いや……後ろ前変えたらいいだけだと……」
「そっか……って脱ぎ方知らないよ! おかしいな。先日、異世界転生させたところではこれが流行だったのに人間界ではもうこれが流行りじゃないの!? 発展とか時間のスピードが早すぎるよお!」
ぶつぶつ文句を言うが百には理解し難い内容だ。特に異世界転生させたとはどういうことなんだろう。
(異世界転生とはあの漫画とかライトノベルの設定にあるあれか?)
「こうなったら、紅月百君のリクエストにしよう!」
「はい!?」
「なにがいい? 水着? セーラー服とか!?」
女のファッションセンスはどうなっているんだ。偏りにもほどがある。痴女ではないと思いたい。
気迫の強さと色白の肌に映えた赤らんだ涙目に押され、
「え、ええっと……その服の袖を長めにして、開いた部分を布で埋めたらどうです? あと、パンツ……いや、長めのスカートなんてどうでしょうか」
「そっか、ありがとう!」
百の提案に笑顔の花を咲かせ、面積度の高い(普通の)ニットを着る女が現れる。同時に白いモヤも晴れていき、木製の天井に背丈より小さなロッカー、牛乳瓶が入った販売機が目に入る。
「どう、かな?」
要望通りの服を仕上げ、首を傾げる女には目もくれずに百は周囲を見回した。
女湯と廊下を挟んだところに男湯の暖簾、壁には『番頭』の立て札が用意されており、背後には『桃ノ湯』と大きな暖簾。
「……銭湯……?」
百の感想に女はぷくぅと頬を膨らませ、腰に手を当てる。萌え袖だった。
「ちっ、がーう……くはないけど! ああ、もういいや。紅月百君にはお風呂入らせませーん!」
「えっ」
いつの間にかテーブルも百を翻弄し続けていたあかつき桃も忽然と消えている。不思議な出来事の数々に生きている実感がない。
「もー、せっかく桃湯を堪能した後に桃源郷特性ピーチミルク飲むチャンスと極上マッサージチェアを体験させてあげようと思ったのになー。台無しだー」
「だから今説明を」
「説明もゆっくりしたかったのにー。女の気持ち、全然わかってない!」
「すみません、その件については早急に謝罪します。とても良くお似合いです」
むくれっ面の面識のない女に振り回され、状況説明から遠ざかるのは事実だろうが今の返しは良くなかった。姉妹に挟まれた男だからわかる。不躾承知で褒めれば「本当に?」と怪訝な顔で覗き込んできた。
「お似合いなのは本当です。セーターやロングスカートって女性をより一層大人びた雰囲気にさせるファッションだし、着こなしによっては守ってあげたくなるような危ない愛らしさも深まります。自然体に着こなされてるのに似合うのはとても凄いことかと」
実際によく似合っていた。恵まれた四肢を生かしつつ、少し大きめにサイズ調整したのかだぼっとするセーターから顔を出してるのも女の可愛さを引き立たせており、揺れるスカートから覗くほっそり締まった足首もしなやかな手も同性が惹かれてやまないだろう。
自信の無さを一割足した本心ならきっと届くはずだ。
女はパタパタと自分の顔を扇いだ。よく見れば火照ている。風呂上がりだと言っていた。
「そっか、似合うくらいには成長したか……」
「なにか言いました?」
「ううん! 褒められるんだったら最初から褒めてよー」
緩みきった顔で背中をバシバシ。うん、痛い。
「さすがに衣一枚もない姿を褒めるのはセクハラになります」
「お堅いな〜」
良かった、ここで「童貞だな〜」と見抜かれたら絶対にへこむ。
「鈍感だけど正直に褒めてくれた君に事の経緯を説明しようか。まず、第一に紅月百君は死んだことになっている」
「なるほど、僕は死んだことに……」
ほぼ言いかけたが、脳が処理するまでに時間がかかった。
(僕が死んでいる……?)
間髪入れずにセーター姿の女は新しい情報をねじ込んできた。まるで最初から決めていたように屈託のない笑顔を向けて。
「次に! これが一番重要。紅月百君をここのスタッフとして雇うから、桃ノ湯サービス『異世界転生』の案内役を任せるね」
「……はあああ!?!?」
玄関に響き渡った声はエコーを重ね、こだましたものが鼓膜を震わせる。事態の大きさは桃何個分だったろうか。