第一話 別れよう、那由。
水曜日、午後十八時。
海道道長は天宮高校二年の健康優良児である。
弓道部として活躍し、勉強にも運動にも全力で努力する近年まれにみる優良物件だ。
良い男には良い女が側に来るというのが、世の法則。モニター越しの美女を見て、自分には縁がないと嘆く男が多いが、それは自分が努力してないだけの話。
報われない恋もあるが、報われる恋だって世の中には往々にして存在する。
道長の恋は、報われた側の人間の恋だった。
それを目撃してしまうまでは。
部活も終わり、ウィンドブレーカーのまま帰る生徒が多い中、弓道という道を究めようと努力する道長は、きちんと制服に着替えてから弓道場を後にする。その分荷物が増えてしまうのだが、道長はそれも鍛錬とし、学校から駅までは走って帰るようにしていた。
部活で汗を流した後の身体は、妙に温まり走りやすいものである。
道長が普段とは違うルートを選択したのは、本当にたまたまだったのかもしれない。
ふと、道長の足が止まり、公園の方へと顔を向けた。
彼が注視したものは、夕暮れに赤く染まる公園に設置されたベンチの一つ。
一組のカップルがその身を寄せ合い、愛を囁くように小声で語り合っている姿だ。
「……え、那由?」
道長には付き合っている彼女がいる。
出牛那由、同学年だが遅生まれの道長からしたらちょっと年下の彼女。
補足だが、道長の誕生日は四月二日であり、学年全生徒が年下になる。
校則に従った黒い髪をおさげにしたり、ハーフアップにしたり、横に流したり。
気分次第で髪型を変える那由だが、基本的には道長が好きな三つ編みにしている事が多い。
女優を目指している彼女は、自身の体型を非常に気にしていて。
道長の半分くらいの体重しかないのに、五百グラムも太った! と叫ぶ女の子だ。
一言で言えば可愛い。花満開の笑顔は、それだけで周囲を……道長を幸せにしてくれる。
身長も道長とキスをしやすい十二センチ差、ベストカップル様々だ。まだ未経験の様だが。
二人は昨年十一月に出会い、親睦を深めたあと、雪降る聖夜に那由からこんな質問をした。
『道長君って、好きな子いるの? 幼馴染とかいるって聞いたけど……』
『幼馴染は幼馴染だから、好きではないよ。妹みたいな感じ』
『……そっか、じゃあさ、私にもチャンスがあったり……する、のかな?』
冬の寒さに当てられた那由の頬は、耳まで真っ赤だった。
その時ははっきりとは告白されなかったものの。
年明け早々に那由から告白され、道長は照れながらも告白を了承した。
幼馴染にも報告し、良かったねと言われたのが今年の頭の事である。
それから十か月が経過した現在、道長はそれを目撃してしまった。
少々話が逸れるが、海道道長の視力は右も左も2.0である。
弓道の的の中心部分の、黒い点の横にある僅かな汚れにだって気付くことが出来る。野鳥の会に入り、誰よりも早く飛び立つ椋鳥を数える事が出来る動体視力だって持っている。
彼に見間違いという言葉は存在しない。
そんな道長の目に、普段と違う髪を解いた那由の姿があった。
相手は那由が在籍している演劇部の部長、三年生、船田宇留志。
糸目だがくせっ毛、端正な表情は、爽やかさを形にした様な男だ。
筋肉一筋の道長とはまた違う男の魅力を持っている。
同じ部の先輩後輩という立場であり、二人が学校内で一緒に居る事はおかしな事ではない。
けれど、今は夕暮れ時の公園。しかも駅に向かうルートではない。
若干の違和感を感じ取ったのか、道長は最愛の那由に声を掛けずにその場で立ち止まる。
そして見てしまったのだ。
おもむろに立ち上がった那由と船田が互いの腰に手を回し、顔が近づく瞬間を。
海道道長は冷静な男である。
弓道の試合で皆中が続き、一本外れたら負けという状態になっても精神が乱れない男だ。
唇が重なった瞬間こそ、那由の髪が邪魔して見る事が出来なかったが、今も顔は近い。
最近那由と見た動画に『浮気をされたイッチが復讐した』という動画を見ていたせいだろう。
背負っていたリュックのサイドポケットからスマホを取り出すと、即座にカメラを起動する。
その時の道長の顔は何というか、『無』に近い顔をしていた
感情が消え、いま自分が何のためにカメラを起動しているのか、道長は理解しているのだろうか? この写真を撮る事により消えない傷が証拠として残る事を、今後起こりえる愛する那由と戦わなくてはいけない事を、道長は分かっているのだろうか?
その答えは道長にしか分からない。
彼がした事は、無心でカメラのシャッターを切り、そのままランニングを再開した事だ。
道長には幼馴染がいる、名を雪之丞雪華、可愛らしい名前だ。
同い年であり同級生でもあるが、高校は違う。
両親が名付けた雪華という名前は、雪に咲く華の様に、強く可憐な女の子に育って欲しいという願いが込められているのだろう。
名は体を表すという。
雪華という名前に負けないくらいに、幼馴染である彼女は強く、そして可憐に育った。
真っ白な肌に落とす様な艶やかな黒髪は、彼女の品の良さを雰囲気だけで判断させてしまう。
トップスを突き上げる双丘は彼女の成長の証。ふとももが見える短めのパンツを穿いた彼女は、幼馴染相手だからだろう、あぐらをかいて油断をそのままに、道長へと視線を向けていた。
「……え、もう一度言ってくれる? 那由ちゃんが浮気してた?」
そう、雪華という冬でも可憐に咲き誇る名前の彼女は、とても強いのである。
身体を鍛えたとか、そういうのとは関係なしに悪即斬を地で行くタイプだ。
ランニングを終え電車に乗った道長は、その足で隣に住む雪華の家を訪ねていた。
写真を撮ったがどうしていいか分からないという道長を尻目に、雪華は彼の質問を繰り返す。
「これ、写真」
「あら、本当ね。それにしても道長、よくこんなの撮れたわね」
「もう……死にたい」
海道道長は那由の事が大好きだった。心の底から愛していた。
家は遠くても毎日学校最寄りの駅で待ち合わせをし、休みの日も那由と一緒に過ごす。
誕生日には奮発してブルーダイヤのピアスもプレゼントした程だ。
お値段二万二千円、高校二年生の道長からしたら大奮発である。
那由の笑顔は道長の喜び。
そう言える程に道長は那由を想い、これまでを行動してきた。
疑われた雪華との関係も、本人を呼び出して三人で話し合い、何も無いと証明もした。
雪華も道長を幼馴染以上には思えない、道長も雪華を幼馴染以上には思えない。
全ては那由を思っての事だった。
つまりは、雪華は那由の事を知っている。
わざわざ道長との関係性まで洗いざらい喋ったのだから、那由と雪華の関係は浅くない。
だからだろう、雪華は直ぐに怒ったりはせずに、可能性の確認を求めた。
「なんで浮気されたか、思い当たる節とかはないの?」
「……ない、今日だって昼間は学校でお喋りしてたし、部活で遅くなるのは知ってただろうし」
「でもね、これ見ると……そういう風にしか見えないわね。それで? 道長はどうしたいの?」
夫婦で浮気をしたら慰謝料、離婚というのが通例である。
しかし未婚での浮気はどうなのだろうか? 恋人という法的束縛が無い状態だ。
残念ながら、その場合は貞操義務が存在しない。
つまりは自由恋愛の一つとしか見なされず、慰謝料の請求はおろか復讐も許されないのだ。
「……俺にダメな所があったんだと思って、諦める」
「そんな、奪い返したりしないの? 負けっぱなしなんて貴方らしくないわよ?」
「でも……」
「とりあえず、相手を調べて、それからじゃない? 何ならハニートラップでも何でも協力するわよ? とことんやっつけちゃっても良いと思うけど。それに船田とかいうこの男、コイツについても調べたりとか――」
「ありがとう……でも、俺の心が持たないよ」
「道長……」
落胆する道長の事を雪華は優しく抱きしめた。
大好きだから、別れるしかない。
そう呟く道長は、子供の様に泣き続けた。
少し時間が遡り。
公園で道長が那由を見かけた当日の昼。
出牛那由は高校のお昼の時間、最愛の人である海道道長との幸せなひと時を過ごしていた。
作ってきた大きなお弁当箱をぺろり平らげる道長を見て、那由は微笑む。
「明日は何が食べたい?」
「ん~、那由が作るお弁当なら何でも」
「じゃあ今日と同じになっちゃうよ?」
「同じじゃない、今日よりも那由の愛が込められてるから」
臭いセリフを言い合えるのも、両想いの安心感から出て来る言葉なのだろう。
そんな道長の事が大好きで、彼が死ぬときは自分も死ぬと幼馴染に漏らす程に好き。
誰よりも愛情深い女、それが出牛那由という女性であり、道長の彼女である。
絶対に自分に浮気はないと周囲に言っていた那由が、なぜ船田と一緒にいたのか。
中学の時に、那由は文化祭で演劇のヒロイン役をやらされる事があった。やらされるの言葉通り、自ら望んで参加したわけではない。可愛いから、ただそれだけで選出され、参加した演劇だったのだが。
自分の一挙手一投足に皆が注目する事に、当時の那由は感動を覚える。
『高校に入ったらもっと本格的な演劇がしたい。将来の夢は女優になる事です』
これが、那由が高校受験の時に書いた志望動機の一部である。
那由が演劇部に入ったのは、もはや自然の理とも言えよう。
道長と知り合ったのは、一年生の時の文化祭がきっかけだ。流行り病を鑑みて、クラスの出し物程度で終わりになったとても小規模な文化祭。二人のクラスは出し物として、短い劇をやる事になった。
那由は演劇部員という事もありヒロイン役だったのだが、道長の役は大木である。
一言で言えばいてもいなくても変わらない役。
なのに、道長は与えられた役には全力で挑んだ。
セットが移動し場面が変わっても、大木の着ぐるみ姿のまま微動だにしなかった道長。大木の側で愛を語らうシーンもあったのだが、動かない道長のせいで感動のシーンはお笑いへと変化してしまう程だ。
周囲の人間はそれに対し不平不満をぼやいたが、那由は違う。大木として動かないというのは設定であり、道長はそれを忠実にこなしたに過ぎない。クラスでの出し物という枠組みでなければ、道長の演技は称賛されるものであったと、那由は語る。
それから何かにつけて那由は道長の事が気になり始め、その誠実さに惚れていく。
同じクラスだった二人が恋に落ち、彼氏彼女へと発展するのに時間は要らなかった。
そして、場面は水曜日の夕方へと移る。
文化祭間近、今年の演劇部は演劇部のみで劇を行う事が決定していた。
昨今流行っていた病も終息を見せ始め、数年ぶりの晴れ舞台。
三年生にとっては、高校入学して最初で最後の文化祭だ。
熱の入れようが昨年までと違う、悔いの残らないよう全力で挑む。
ヒロイン役の那由と主人公役の船田は、互いの役についての打ち合わせを行ってたのだが、部活動終了のチャイムとアナウンスが流れ、気付けば時刻は十八時。他の演劇部の面々は解散するも、満足のいかない船田は那由を誘った。
「那由さんごめん、別れのシーンだけもう一回練習がしたい。時間的に部室が使えないから、近くの公園で続きをしてもいいかな? あそこなら生徒はいないだろうし、人気も少ないから練習してても少しくらいなら平気だと思うんだけど……」
こんな船田の言葉に那由はOKを出し、学校から少し離れた公園へと向かったのだ。
あくまで演劇の内容であり、他は一切喋っていない。
那由に道長という彼氏がいるのは、船田含め全員が知るところだ。
なんなら学年全体と言っても過言ではない。
お昼休憩のたびに愛を語らっているのだから、周囲からしたら妬み僻みのオンパレードだ。
「では、宜しくお願いします。――――セジャンヌ、僕は君の幸せを誰よりも願っている、だからこそ行かないといけない。今のままの私では君に相応しい男とは言えないのだ」
「カルテックス様、私は爵位など無くなってしまえばいいと思ってしまいます。貴方が公爵なら、私は蝶のように、自由に貴方という花に飛んで行くことが出来るのに……」
「セジャンヌ……愛しているよ、必ず生きて帰る。もし、私が帰らなかった場合――」
「もし、何て言葉は言わないで下さい。貴方を失う未来なんて私の人生の色を無くしてしまうのと同じこと」
「セジャンヌ……」
「カルテックス様……」
二人は音もなく歩き距離を縮め、互いの腰に手を回し、顔を近づけた。
夕暮れに染まる公園で、制服に身を包む二人の顔が近づく。
周囲には誰もいない。
吹く風が少し寒いこの時期に、二人は前髪がぶつかる程の距離に接近する。
――が、キスはしていなかった。
するはずが無いのである、二人はあくまで劇の練習をしていただけにしか過ぎない。
「顔、近くないですか」
「本番でもこれぐらい近い方が盛り上がると思うんだけど」
「弾みで少しでも触れたら刺し殺しますよ?」
「うぐ、それは怖いな」
「私のファーストキスは、道長君以外あり得ないんです」
「……そうだよね、ごめんね、こんなのに付き合わせちゃって」
「いえ、部長達の最後の文化祭ですから、これぐらいは当然かと。それに、いつかは演技でキスシーンをする必要性が出て来るかもしれません。その為の練習だと思って、今は頑張ります」
はにかむ那由の言葉に、船田は心からの感謝を告げる。
その後も練習に熱が入ってしまい、気付けば時刻は十九時間近だ。
「あまり遅くなってしまうと、家族が心配してしまうので。船田部長、今日はありがとうございました」
「うん、気を付けて。って、近くの駅まで送ろうか?」
「……そうですね、私の身体に何かあったら道長君が可哀想なので。先輩、ボディガード宜しくお願いします」
「はいよ、任されました、お姫様」
綺麗な星空の下、那由は船田に守られながら電車に乗り込み、最寄駅まで一緒に過ごした。
そして駅から家へと向かう帰り道の途中で、愛する道長へとSNSを発信する。
やっと部活終わったよ、道長は? そんなお気楽な内容を送ると、秒で既読が付いた。
そして来た返信が『明日大事な話がある』、道長からの返信はこれだけだ。
当然の如く那由は色々と質問のSNSを送るも、返事は一切なく既読すらつかない。
「また何かサプライズでもしてくれるのかな? えへへ、じゃあ明日のお弁当はもっと沢山の愛情を込めちゃおうかな……♡ 愛してるよ、道長♡」
明日を楽しみに口元を緩ませ、那由は一人道長を想い、感じる夜を過ごした。
翌朝、大きなお弁当をリュックに入れて、那由は学校近くの天宮駅で道長を待つ。
七時四十五分着の上り電車、毎日それに乗って道長は乗ってくる。
待ち合わせ場所は皆が向かう階段と反対側の、ホームの端っこ。
毎朝同じ場所、毎朝同じ時間。
笑顔の那由を待ち受けていたものは。
「……別れよう、那由」
最愛の人からの、別れの言葉だった。
次話「僕って、那由さんの事を愛する事が出来たりするの?」