赤色の花_中
* 中編です
願いごとを忘れてしまったのは、此処に来るための対価だから。ヒギシさんはそう言った。
「でも、なくなったわけじゃない。散らばって、この庭のどこかに植わってるんだ。
それを見付けること――思い出すことが出来れば、庭から出られる。
来るにも帰るにも、強い思いが必要なんだ」
それが、此処のルールなんだって。
話が一通り終わった今、私はしばらく一人にしてもらった。
此処には、私に危害を加えるモノはいないそうだ。私と、ヒギシさんだけ。本当に二人っきりの庭なのだと聞いたから。
そもそも、人じゃないヒギシさんと一緒にいる時点で危ない気もするが、そこはもう気にしていたらキリがない。
一人になったテーブルで、私は突っ伏した。
「………」
目をつむってみても、やはり何も思い浮かばない。
だからというか、ひとまず今日の出来事を思い返してみた。
今日は、ちょっと寝坊した。目覚ましのスマホをスヌーズにしてあと十分。それがうとうとしちゃって十五分過ぎになって、ハッとして布団から跳ね起きた。まぁ、大学には間に合ったけど、ちゃんと。
いつも通り講義を受けて、友だちとお昼ご飯を一緒して。午後の実習も、まぁ無事なんとかなった。
足りない日用品と自分のご褒美おやつを買って帰って、そして――そして、気がついたら此処にいた。気がする。
(今日のことは、思い出せる。昨日のことも、大丈夫…大丈夫…)
顔を上げて、そのまま腕の上に顎を乗せる。
相変わらず夕闇の手前のままである明るいのか薄暗いのか判断しがたい空の下、私はもう少し記憶を漁る。
願いごと、願いごと…と頭の中をぐるりと見渡す。生憎、人並みであるので高速検索なんて機能はない。いつか人間にもそんな機能・能力がつくんだろうか。SFの中だけかな。なんて、脇にそれながらも探していれば、ふと単語が浮かんできた。
「はなまじない」
いつの時代も、おまじないっていうものはある。
どこの誰が始めたものかも分からない。叶うかどうかも分からない。正しいかどうかも分からない。分からないだらけでも、でも、そんなものにだって縋りたい時は、ある。
「えっと、なんだっけ……はなまじない、だから。だから、花だ。お花がいるんだった、確か。でも、なんの花だっけ…あれ、花が先だっけ? 花の…色? うーん…」
肘をついて、両側の米神を指圧のごとくぐりぐりする。
目を閉じて唸る。そんな私の足元に、何かが当たった。
「ヒッ」
反射的に、蹴るように足を跳ね上げた。でも、何もない。うんともすんとも聞こえない。
足音が聞こえて、飛び上がるように立って振り向けば、小走りでヒギシさんが現れた。
「やぁ。一人にしてほしいって言われたけど、ごめんね。何か聞こえた気がして」
「ヒギシさん、も? え、でも何もいないって! さっき!」
「君に危害を加えるモノはいないよ」
「それじゃあ今のなに!?」
此処は寒くも熱くもない適温だけれど、今朝は放射冷却だったかで寒かった。だから私はパンツスタイルで。それでもくるぶしからふくらはぎ辺りに、確かに何かの感触があった。
「痛むかい?」
「………ううん、ぜんぜん。むしろ…え、柔らかかった?」
さすってみても、痛みはない。ヒギシさんに答えながら感触を思い返してみれば、うん、確かに柔らかかった気がする。
「ぬいぐるみ?」
「女の子は好きな子が多いよね。まぁ男の子でもいるけど」
私も嫌いじゃない。それこそ小さい頃はうさぎのぬいぐるみが好きで、寝る時も一緒だった。
でも、今さっきの感触は、ちょっと違う気がする。
「願いごとに連なる思い出が、出てきたのかもしれない。
こう、足が生えてトコトコトコって。マンドラゴラみたいに」
「マンドラゴラは出てきたら死ぬやつです。引っこ抜かれる時の断末魔でこっちが逝くやつです、ダメなやつ」
「あぁそうだった。人間ってしぶとい様ですぐ死ぬものね」
ヒギシさんは柔らかい表情のままそう言う。至極当然のことのように言う。
間違ってはいないけれど、そういう言葉を聞くと、姿かたちが似てるだけで違うモノなんだなぁとじんわり怖さが滲む。
私は、気休めに深呼吸を一つした。
「ところで。足音なんかは聞いた? トコトコトコ、みたいな」
「足音は、聞こえなかったです…多分」
人間みたく靴を履いていれば、音はしたと思う。
足音がしない、と聞いてぽっと浮かぶのは猫。次に、犬。
犬も、案外足音がしないのだ。単に私が聞き逃している場合もあるけど。
「――あれ? 私、そんなこと…どこで?」
「どうかした? 思い出のひもの端っこでも見つかったかい?」
「ひも…」
私の手は、自然と米神に伸びる。
ヒギシさんの後ろ。薄暗い中へ伸びていく石畳の上を、軽い音が走る。
ちゃっちゃっちゃっ。ちゃっちゃっちゃっ。
こっちに向かって走ってくる。いや違う。私とは反対方向へ走っていく。全速力ではなくて、小走りというか、人間で言うスキップみたいな、そんな緩い速さで。
「…待って。待って! こら! 待てぇ!!」
ぎょっと驚くヒギシさんのそばを、私は駆け抜ける。
夕闇の手前の空の下。私は走る。イングリッシュガーデンみたいなレンガの小道が、いつの間にか、なんの変哲もないアスファルトの道へと変わっていたことにも気が付かずに。
必死に走る私の前を、足音が軽やかに駆けていく。まさにスキップするかのように。そして時折、私を振り返るの。チラッ、チラッて。その顔のなんとまぁ楽しそうなこと!
「待ってよ! ああもうほんとに楽しそうだなコラあ!!」
まん丸お目目の可愛いこと。しかし、可愛さ余って憎さ百倍なんて言葉もあるくらいだ。追いかける私の心中の荒れ模様と言ったらない! そりゃあ確かにリードを離しちゃった私が全面的に悪いんですけどね!!
逃げたら追いかけてくるくせに、こっちが追いかけると逃げるんだ! 解せぬ!!
「待ってよセーちゃん!」
薄闇の中、私をチラ見するまん丸お目目が見えた――気がする。
叫んだ私は、確かに笑っていた。
早く捕まえないと、車とか危ないのに。分かっているのに、焦りの中には確かに楽しさがあった。
思い出して、詰まるように痛みだした喉を押さえるように、私はその場にうずくまった。
おしゃれなレンガの石畳にポツポツと涙が落ちて、いくつもシミを作る。
「捕まえられたかい?」
ゆっくりと静かな足音がして、ヒギシさんの柔らかい声がする。
私は頷いた。
「は、い…大丈夫、です。大丈夫、いつも、ちゃんと…捕まえられました。田舎だから、車も少なくって…人も、いなくって…。…誰かに怪我をさせたことも、ありませんでした…。
あぁでも、他のわんちゃんに噛まれたことはあったっけなぁ…」
たまに、散歩道で遠目に見たことのある犬だった。毛並みはいいのによく吠えていたっけなぁおのれ許すまじ! ってなったことも思い出した。
「怪我は大丈夫だったのかい?」
「はい、幸いに…っ、く…」
嗚咽で、言葉が途切れる。
「………じゅ、みょう、だったんだと…思ってます。
皮膚が、ちょっと敏感な子でした。小柄な方、だったのかな? 散歩で時々“今何か月?”って聞かれて“もう成犬です”って、ぅ、そんな、やりとりも…あって、」
「そう…」
ヒギシさんが傍にしゃがんで、背中を撫でてくれた。
人じゃないのに、人っぽい。ちゃんと手は柔らかい。生憎、幽霊は見たことも感じたこともないので比べられないし、分からない。それでも、死んだ人みたいな硬さも冷たさも感じられないことは、ちゃんと分かる。
「そ、そう…ヨーグルト、とか、乳製品、好きで…。…牛乳ひげ、みたいに、ヨーグルト、ひげとかに付けて、おもしろくて、かわいくて、って…家族で、笑って見てて…。
ちょっと垂れ目気味の、可愛い系、イケメンで…っ…家族の欲目でも、かわいくて…」
「うん」
「距離感も、独特で…でも、でも…私が落ち込んでると、横に来て、一緒にいてくれたんです」
「そう。いい子だったんだね」
「…はい…」
私は顔を上げる。涙は未だしとしと零れている。
道の先、草花の向こう。薄闇の中には、何もいない。
「……いい子、可愛い子……十年以上も、一緒にいてくれたんです…。…それなのに、」
ああ、なんで忘れちゃってたんだろうね。私の薄情者。
堪らくなって、俯いた。拍子にパタパタと零れた涙が、いつの間にか落ちていたポストカードに降り注ぐ。
「それで……願いごとは、なんだった?」
ヒギシさんの声は相変わらず柔らかい。いやきっと、何をしても柔らかいまんまなんだろう。少なくとも、この庭に来た人間に対しては。
「私の、願いごと…」
「貴女は、君は…何を願って花を選んだ? なにを想って選んだ?」
私は、目の前に落ちているポストカードを見下ろす。
握りしめてくしゃくしゃのよれよれになり、涙で濡れてふやけている筈のそれは――新品のように美しくなっていた。
辛うじて赤い花であることが分かるくらいぼやけた絵は、輪郭をはっきりさせ、その姿を現していた。
「…、…彼岸花…」
私の呟きに、ヒギシさんは微笑んで頷いた。
同時に。
絵のおもてを破って、彼岸花が出てきた。ぶわり、と生えてきた。
たったの一輪。それでも、まさに火が灯るような、鮮やかな赤色はきれいだと思った。『彼岸花を家に持ち帰ると火事になる』だったか、そんな迷信も確かにと頷きたくなるくらい、きれいだった。






