赤色の花_前
願いごとを決めましょう。
決めましたらば、それに沿う花言葉を持つ花を用意しましょう。
生花でなくとも構いません。写真でも絵でも大丈夫。
準備が整いましたら、祈りましょう。
夕暮れ時に願いましょう。
瞼さえ透かして目を焼く、強いオレンジの光の中で。
心からの願いを込めましょう。
「――ぇ?」
夕焼けの光に目をつむったのは、ほんの一瞬だった。だのに、目を開ければ、景色は一変していた。私の口はポカンと開いて、母音が情けなく零れる。
広い、広い庭に私は一人ぽつねんと立っている。
石畳の通路やもっさりと茂る草花に、イングリッシュガーデンのような印象を受ける。パンジーやチューリップなんていう馴染みのある花が見えて、ホッとした。
「……どこ、ここ…」
ホッとはしたけど、それも束の間。私はじわじわと嵩を増す不安に、両手を胸の前で握った。するとクシャッという軽い音と感触がする。
びっくりして、突き放すように両手を前に出せば、ひらりと一枚の紙が舞った。
「……ポストカード…かな?」
足元に落ちたそれをおっかなびっくり覗き込む。しわが寄ってよれよれになってしまった紙面には、赤い花が描かれている。
「バラ? チューリップ? …いや、でも…なんか、違うっぽい…」
まるで画像編集したみたいに輪郭がぼやけにぼやけていて、なんの花なのか分からない。
知らない庭――しかも広い――で一人っきり。訳の分からないくしゃくしゃでぼやけたポストカード。小さい子なら泣き出したって許されるんじゃないだろうか。だがしかし、私は二十歳も過ぎたいい歳である。勿論泣いたって構わないが、それだけで物事が解決に向かう訳ではないことを知ってしまっている。
「あぁ、うぅ…。…はぁ……ひとまず、この小道を進んでみよう」
唸って溜息を吐いて、なけなしの平静を保って、私は一歩を踏み出す。深呼吸のついでに仰いだ空が夕闇手前の薄紫だったことについては、あえて口にしない。口に出したらフラグな気がした。
拾い上げたポストカードのしわを伸ばしつつ、足を動かす。
いつもの靴。今日の服装。痛みもないから怪我もないだろう。ひとまず、五体満足で無事である。
「……ほんとうに、ここはどこ…」
私は誰? なんてテンプレな続きは絶対口にしない。何が何でもするもんか。
赤い花っぽいものが描かれたしおれたポストカードを、まるでお守りのように両手で握りしめて歩く私は、ほどなくして開けた場所に出た。
優しい色のレンガが丸く敷き詰められたそこには、アイアンの丸テーブルとお揃いのイスが二脚。そして、真っ白いくしゃくしゃな髪をした人が一人。
「あぁ。やぁ、いらっしゃい」
「!」
イスの片方に座っていたその人は、私を見てニコリと微笑んだ。
「あ、え…あの…えっ?」
「ひとまず、座るかい? さほど距離はなかったと思うけれど、立ち話もなんだろうし」
中性的な顔立ちで見つめられて、中性的な声で促されて、私はいつの間にか引かれていた向かいのイスにストンと座ってしまう。アイアンのイスは思ったほど冷たくはなくて、高さも丁度良かった。
こんなところで優雅に午後のティータイムなんてしたら、きっと素敵なんだろうな。なんて思考を飛ばす私は、良くはないけど悪くもない。そう思いたい。
「さて。改めて、いらっしゃい。ようこそ自慢の庭へ。
突然のことで驚かせてしまったことをお詫び申し上げます」
「ぅえ、あ…はい? どうも?」
落ち着けるはずもなく、目をあっちこっちさせる私を、白髪の人は注意するでもなく、笑うでもなく、静かに見てくる。
「わたしはヒギシ。貴女の案内役、もしくは相談役を務める。どうぞよろしく」
「あ、っと…此方こそ? あぁ私は――」
「――名乗らなくていい。貴女とわたししかいないからね。言ってしまえば、わたしが名乗る必要もないのかもしれないが…まぁ、それはそれということで」
「は、はぁ…」
白髪の人――ヒギシさんはそう言って、テーブルの上で指を組んだ。髪はくしゃくしゃだけど、きちんと着たスーツ? 執事服? と相まって仕草はとっても様になる。きれいかそうじゃないかと言われたら、きれいだろう。
ヒギシさんの暗い赤色をした目と、ひたっと視線が合った。
「では、何から話そうか」
「じゃ…では、その…あの、男の人ですか? 女の人ですか?」
ちょこっと挙手して質問をした私の目の前で。ヒギシさんはキョトンとした。
赤色の目をぱちくりと大きく瞬く姿は可愛いかもしれない。なんて現実逃避に思っていれば、ヒギシさんの笑い声が聞こえてきた。
「……すみません。でも、その…ほら、重要じゃないですか。こんな、広いお庭で二人っきり……ですし」
「ふ、そうだね。そうだった。君たち人間には、性別も重要だったね。まぁわたしたちにも大事なことではあるけど、ふ、ふふっ。
はぁ。うん。わたしは女性性だよ。どちらにも見えて紛らわしいと、よく言われるけれど」
よかったと息を吐く私を見て、ヒギシさんは微苦笑を浮かべた。
「笑ってすまなかった。聞かれることは多いが、まさかそれを開口一番にとは思っていなかったんでね。
大体は“ここはどこだ”とか“お前は誰だ”とかだったもので」
「すみません。あんたずれてる、とはよく言われます」
少し決まりが悪い私に、ヒギシさんは「そう」と柔らかい相槌を打ってくれた。
気を取り直して、私は咳払いの後、質問を再開する。
「えっと…では。その、此処はどこ…ですか?」
「此処は庭。まぁ見ての通りなんだ」
「ですね」
ヒギシさんが広げた片腕に釣られるようにして、私は改めて辺りを見回す。
ザンネンながら、ガーデニングなんて素敵なご趣味はない。一つ二つ名前が浮かぶものもあったけれど、色とりどりに咲き乱れる花はさっぱり種類が分からない。分からないが、果たして今の季節にこんなに咲くものだろうかと、疑問が浮かんだ。
花々から顔を戻して、正面に座るヒギシさんを見る。
白い髪。白い肌。暗い赤色の目。健康的なピンクの唇が、柔らかい弧を描いて閉じている。
「………あなたは、ヒギシさんは……、……なに、ですか」
第六感なんてすごいものはない。女の勘など言えるほど経験もない。ただ、この状況で目の前の人が『人』である気もしなかった。
「お察しの通り、わたしは人ではないよ。わたしは『花』さ」
「はな」
「そう。ほら、そこらへんに沢山咲いているだろう?」
なんでもない事のように、形の良い顎でしゃくって言うヒギシさんを見て、私は両手で頭を抱えた。いっそ白昼夢であってくれ、なんて。
「夢だと思ってもいい。あながち間違いでもない」
「! こ、こころよみましたっ!?」
「そんな力はないよ。“夢なら覚めてくれ”なんて、叫ぶ奴も多かったからねぇ」
「…私以外にも、人が?」
「あぁ、いたよ。沢山」
「わぁ過去形」
行儀が悪いが気にしていられない。私はテーブルに突っ伏した。アイアンの程よい冷たさが、混乱と不安に熱くなる頭と目頭に気持ちいい。
「死んだわけじゃない。みな出て行っただけさ」
「…帰れ、るんですか」
のっそりと姿勢を正せば、再びヒギシさんと目が合う。
私は繰り返す。
「帰れるんですか」
「あぁ。帰れる。出られるよ、此処から」
「どう、やって!」
「願いごとを見付けるのさ」
目を瞬く私に、ヒギシさんが微笑む。
「……願い、ごと…」
「そうだ」
ヒギシさんが頷いた。
「あぁ良かった。ちゃんと持っててくれたんだね、招待状」
ヒギシさんにそう言われて、私は、よれよれのポストカードをギュッと握りしめていたことに気付く。
招待状と言われたポストカードが、途端気味悪さを増した。けれど、心と体は反対のようで。私の手は、それを手放そうとしない。
「気味悪い、身に覚えがないってどこかに捨ててくる人もいてね。まぁここに来た時点でなくても大丈夫なんだけど。
でも、それがあったほうがいい筈だ」
ポストカードのぼやけた赤色から、視線を恐る恐るヒギシさんへ向ける。
ヒギシさんは、にっこりと笑った。
「貴女がやることは、願いごとを見付けること。
…いや、思い出すこと、かな」
微笑むヒギシさんから目をそらし、私はまたぼやけた赤色を見下ろす。
「ねがい、ごと」
呟いても、頭の中には何も浮かんでこない。
「願った筈だ、強く。
あったはずだよ? 心からの願いが。
だから、君は此処に招かれたんだ」
本当に、そうなのだろうか。
人じゃないなにかがいる場所に来るほど強い願いが、私の中にあったのだろうか。
胸に手を当てても、心臓の音が伝わってくるだけだった。