2. 琴音
いよいよ儀式の日が近づき、アルスは現在の住処であるバダキア郊外の兵学校寮から王都へ向かうべく出発した。
供も連れず馬も使わないのは、一人で考える時間が欲しかったからだ。徒歩で行っても、朝早く出発すれば、日が暮れる頃には王都のリュタン邸には着く。
そんなに急ぐわけではない──と言うより、足取りはむしろ重い。ふと気づくと、足元に紫色の花が咲いているのが目に入った。
(リュタン……)
リュタンの花。リュタン家の紋章であり、姉にこのようになって欲しいと言われた花だ。そしてこれこそが、アルスの気を重くしている一因でもあった。
「竜胆の花ですね」
いきなり声をかけられ、アルスは驚いて飛び退った。
声の主は二十代前半の女だった。背に荷物と楽器を背負い、長い杖を持つ姿からすると旅芸人のようだ。長い黒髪の美しい女だった。彼女がいつからそこにいたのか、アルスにはわからなかった。
「あら、驚かせてしまいました?」
彼女はにこにこ笑っている。とりあえず敵意はなさそうだった。
「あなたは……?」
「私は見ての通りの者ですわ。白拍子の琴音と申します」
琴音と名乗った女は優雅に一礼した。白拍子とは、歌舞音曲を生業とする女達の中でも最上位の存在だ。元は歌舞の女神ハルディナに仕える巫女だが、皇帝の侵攻により各地のハルディナ神殿はことごとく壊滅し、生き残った巫女達は白拍子に身を落としたという。彼女もその一人かも知れない。
「俺……は、アルス・リュタンです」
「リュタン家の方? ちょうどいいわ、私は王都へ行きたいの。案内をお願い出来ないかしら?」
少しだけ考え、アルスは答えた。
「……いいですよ」
相手は女性だ。もし彼女がいきなり襲って来ても、どうにかなるだろう。彼女としては、女一人では不安なので、自分を護衛代わりにしたいのかも知れない。いずれにしろ、王都までそれほど離れているわけでもない。しばしの二人旅だ。
見た目に彼女は歩き旅に慣れているらしく、アルスですらしばしば置いて行かれそうになる程の健脚を見せた。
「やはりリュタン家の方でしたら、気になりますか? ──竜胆の花が」
琴音が微笑みながら話しかけて来た。彼女の言葉の発音は、時に独特だ。国を持たず、大陸全土を漂泊する人々──いわゆる「渡り」の民は、彼ら独特の文化を持つという。名前や言葉の発音もその一つなのだろう。
どう答えるべきか、アルスは少しだけ迷った。この花に対する感情は、一言では言えない。
だが、結局アルスはこの白拍子に姉のことを話した。黒髪で日に焼けた彼女は、姉とは似ても似つかない。それでも何処か彼女は姉に似ている気がした。
病弱だった姉のこと。亡くなる間際、姉に「リュタンの花のようになれ」と言われたこと。……その真意が、わからないこと。
「リュタンの花の花言葉を知っていますか」
アルスは訊いた。琴音は軽く首をかしげた。知っていて知らないふりをしているのか、本当に知らないのかは、彼女の表情からは読み取れなかった。
「姉が死んでから、姉の持っていた花言葉の本を見てみたんですよ。──リュタンの花言葉のページには、栞がはさんでありました。そこに書いてあったのは──」
「悲しむ君を愛す」。そんな言葉だった。
「最初は、リュタン家にふさわしい男であれと言われたんだと思っていました。リュタンの花はリュタン家の象徴ですから。……でも、この言葉を見てから、わからなくなりました。……エレナは、悲しんでいたのかと思えて」
エレナは、自らの境遇を悲しんでいたのだろうか。そして、そんな自分を愛して欲しかったのだろうか。──俺はちゃんと、姉を愛せていたのだろうか。
これが、アルスの心に引っかかっていたものの正体だった。いくら考えても、エレナに訊くことはもう出来ない。正解は永遠にわからない。
琴音は静かに微笑んだ。
「優しい方なのですね、アルスさんは」
「え⁉ いやいや、そんなことは」
唐突にそんなことを言われると、何だか照れてしまう。
「お姉様と仲が良かったようで、羨ましいですわ。私には腹違いの兄がいますが、仲が良かったのは子供の頃だけ。今では……」
琴音は不意に言葉を切った。表情が険しくなる。今までとは全く違う鋭い目つきで、彼女は辺りを見回した。
不穏な雰囲気は、アルスにも感じられた。来る。何かが。アルスは油断なく、腰に下げた剣に手をかけた。
トトトトッ、と短く細い杭のような物が何本か目の前に刺さった。杭には細かい紋様が刻まれているのが見て取れた。紋様が一瞬光を発した。と、周りの塵芥や小石、木の葉、枝などが杭に集まり始めた。それらは杭を中心に瞬時に形を成し、人のような姿を作った。
「何だ、こいつ……?」
「人形ですわ」
冷静に、琴音は言った。
「私の兄の差し向けた刺客です。中心の杭が本体ですから、それを破壊すれば倒せます」
「わかった!」
人形はゆっくりと近寄って来た──ように見せて、いきなり尋常ではない素早さで襲いかかって来た。鋭い爪のような手を、アルスは咄嗟に薙ぎ払った。左腕を斬り落としたが、すぐに辺りの塵芥を集めて再生する。やはり中の杭を斬らないと駄目だ。
アルスは襲い来る人形に、正面から剣を振るった。正確に正中線を切り裂く。杭を真っ二つに斬った手応えがあった。人形は瞬時に崩れ、塵芥に戻って行った。
(そうだ、彼女は!)
琴音の方を見ると、彼女は三体の人形に囲まれている。
「ちぃっ!」
アルスはそのうちの一体を斬った。だが、残り二体は琴音に襲いかかる。斬った一体も仕留め損ねていたらしく、再生して向かって来た。
「琴音さん! 逃げろ!」
彼女は、襲い来る人形を舞うような身のこなしで避けた。口の中で何かを唱え……いや、口ずさんでいるようだ。
(唄? こんな時に……)
考えている暇はなかった。再生したばかりの人形はまだ動きが鈍い。一気に斬りつけ、滅ぼす。琴音の方を振り返る。早く助けないと。
その時。
「──焔!」
良く通る声が、空気を震わせた。節がついているようにも聞こえた。
と、残った人形の内部から炎が上がった。炎はあっという間に人形の全身を包み、内部の杭共々灰にしてしまった。
琴音はきっと天空を睨んだ。
「兄様! 見ていらっしゃるんでしょう?」
虚空に向けて、彼女は叫んだ。
「こんなものを差し向けても私を討つことなど出来ないのは、あなただってご存知でしょう。あなたが何をしようと、いずれ私はあなたの首をいただきに参ります。覚悟して待っていて下さい!」
禍々しい気配が去って行くのを感じる。危機がなくなったのを見て取って、琴音はアルスに微笑んだ。
「さあ、行きましょう、アルスさん」
「あ、はい。……魔術を使えたんですね、琴音さん」
先程のは確かに魔術だった。ただ、学校や魔術院などで教わるものとは少しやり方が違っているようにも思えた。
「嗜む程度です。自己流ですし」
白拍子はそう答えた。