84. 彼らの夜
もう眠ったろうか……
医術院からエーリックを大使館邸に送り届け、漸くシルヴァは自分の屋敷に帰って来た。
湯浴みをして、一息吐くとシルヴァは窓辺に置いてあった椅子に腰を下ろし、琥珀色に揺らぐグラスを煽った。
強張っていた肩の力が抜けて、とろりとした甘さと苦みに頭の芯がじんわりと温かくなる。
たった数日しか経っていないのに、想定外の事が起こり過ぎた。
事の起こりは魔法術の導入教育の授業から始まった。魔力の引き出しの最中に、シュゼットが気を失って意識不明になった。それから、レイシルを呼んで……グリーンフィールド公爵夫妻に説明に行った。
それから……
医術院で文献の調査をしていたはずが、セドリックの転落事故により急遽サルベージを行う事になった。
「セドリックのお陰と言うべきか……」
くるりとグラスを回して中に入った氷を眺めた。フッと口の端が持ち上がった。
「まさか、魔力の無いセドリックが、彼女を引き上げる一番の原動力になるとはな」
皮肉な事だ。あの場所には、コレールとダリナス両国でも力のある魔法術士が4人もいたのに。それなのに、最深部から浮上させたのはセドリックだったらしい。自分達には感じることが出来なかった、セドリックの赤い糸と言葉。
シュゼットが言うには、温かい赤い糸。それが落ちて来て彼女を包み込んで浮上したという。そして、はっきりと聞こえたらしいセドリックの声。
一番欲しい言葉。それをセドリックが彼女に言ったという。
無垢な心が彼女を救ったのか。
それこそが、光の魔力に値する力ではないのか。
「……」
グラスの底に残った酒を飲み干すと、傍にあった美しいカットガラスの瓶から継ぎ足しをした。普段なら寝酒は一杯で十分だったが、今夜はそうはいかなかった。
セドリックが大怪我を負ったのは、コレール王国の財務大臣の娘を庇ったせいだ。本来なら、そこにいるはずのない二人が出会った事で事故は起きてしまった。
シュゼットの病室があった5階のフロア―には、レイシルの容赦ない結界魔法が張られていた。それも、鑑定と錬金、魔法科学省の師長と副師長による厳重な重ね掛けが施されていたのだ。
結界のキーワードはシュゼットに害成す者だ。意識の無い彼女に悪意を持っている人間は近づけない様にしていた。
なのに、結界に弾かれたのは、クラスメイトの少女だった。
少女は、シュゼットと同じ婚約者候補の一人だと聞いている。シュゼットやカテリーナ、他の候補者もそれぞれに華やかな見た目の高位貴族だが、その5人の中では珍しいタイプだった。悪意を持ってシュゼットに近づくなど考えられなかったが。
「見た目では判らないという事か。しかし、レイシルや陛下はどうするつもりだ。セドリックの怪我をどう責任取る? あれでもダリナスの外交大使で公爵家の跡取りだ」
グラスの中の氷がカランと音を立てた。
この事故を上手く使うか。
「セドリックとは豪い違いだな。アイツが起きたら泣かれそうだ。いや、その前にエーリックに殴られるかもしれないな……」
無垢なモノからどんどん遠ざかる。だから、清らかな光が欲しくなるのか。そう思うと溜息が出た。
シルヴァは誰にも聞こえない声で呟く。
「どうか、今夜は安らかに眠れ……」
そう言うと、グラスの残りを一気に煽った。
エーリックがシルヴァに大使館邸まで送って貰うと、深夜にも関わらず官邸は煌々と明かりが灯っていた。セドリックの両親である、マラカイト公爵夫妻が走り寄る様に二人を出迎えた。
心配するマラカイト公爵夫妻には、シルヴァからセドリックの容態が説明され、治療は問題無く終わった事と、それでも落ち着きはしたが絶対安静であることが告げられた。
「ご心配をお掛けいたします。エーリック殿下……」
アッシュブロンドの髪とアイスブルーの瞳が、公爵譲りである事が良く判る。セドリックの色素は父親である公爵からだが、目元の黒子は母親である夫人と同じ位置にあった。流石に二人とも疲れた表情で、夫人の方は泣きはらした真っ赤な目をしていた。
「今は眠らせてやろう。セドはきっと治る。治して見せる。貴方達が倒れたら、私がセドに叱られる。私の両親に何て事を言ったのですか!? って。さあ、もう休んでくれ。そして明日また面会に行こう」
そう言うとエーリックは、夫妻の両手を握った。同じ者を心配する同志、心は同じ様に痛み疼いているから。せめて、少しでも和らぐようにと思う。
「セドの回復を祈ろう……」
部屋で一人きりになると、エーリックは着替えることも無くベッドに突っ伏した。すべすべしたシーツが毛羽だった心をほんの少し癒してくれた。
目の奥に浮かぶのは、血色に染まったセドリックのアッシュブロンドの髪。蒼白い顔に跳ねたように散った血の雫。生気を感じない不自然に曲がった腕と足……
そして、もう一つ。
天使の祝福を受ける、セドリックの姿。伏せられた左目の瞼に、シュゼットがキスをした。
「初めて見た」
口に出してみると、思いのほか気分がざわついた。
いや、傷ついた。
結局、シュゼットのサルベージはセドリックがキーマンになった。彼がいなかったら成功しなかったかもしれない。意識の無いセドリックは、シュゼットを引き上げる赤い糸になって、彼女が欲しい言葉を言ったという。
自分もその場所にいたのに。サルベージを行うという強い意志を以て望んでいたはずなのに。
自分とシュゼットの関係は、意識を失っているセドリックよりも希薄なんだろうか?
「シュゼットは、セドリックの事が……」
そこまで言って、エーリックは口を噤んだ。
全部言ってしまえば、その通りになりそうな気がしたからだった。
レイシルは王宮の廊下を足早に歩いていた。
フェリックスと共に王宮に帰って来ると、深夜にも関わらず国王との謁見を申し込んだ。本来ならば考えられないが、今回は特別だった。
「レイ叔父上、私もご一緒致します」
前を歩くレイシルが、静かに振り返ってフェリックスを見た。
「……そうだな。関係者は皆、お前のクラスメイトだ。それにローナについては、お前にも聞きたい事があるしな」
レイシルはそう言ってフェリックスの肩を引き寄せた。仮にも、自分の婚約者候補の一人が引き起こした事故。その理由に、自分が関係しているとなれば事は重大だ。
「セドリック殿は……大丈夫かな……もし、もしも元通りにならないなんて事になったら……」
セドリックにもしものことがあれば、大変な事になる。ダリナスのマラカイト公爵家にも、エーリックにも、カテリーナにも、シルヴァにも……謝っても謝りきれない。
当然、シュゼットにも。
自分を引き上げてくれたセドリックに、彼女は友情以上の気持ちを持ったのではないのか?
……だとしたら、一生恨まれるだろう。今までの5年間の比では無い。
「大丈夫だ。きっと……良くなる。必ず直す。コレール全ての力を以て対処しよう」
そこまで言って、レイシルは口を噤んだ。ここから先はフェリックスには酷だと思ったからだ。
大きな借りをダリナスに作ってしまった。
多分、フェリックスも感じているはずだ。口に出さないだけで。
王の執務室で、主が来るのを待った。暫くすると王が夜着にガウンを羽織っただけの姿を現した。そして、黙ったまま頷くと奥の小部屋の扉を開けた。
王に続き、王弟と第一王子が部屋に吸い込まれた。
そして三人が部屋から出て来たのは、薄っすらと辺りが明るくなり始めた頃だった。
……いつもとは違う朝が始まった。
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