悩み男と相談ネコ その1
ある男が街中をフラフラと歩いていた。目の焦点が合わず、足元がおぼつかない。今は夏の夕暮れ。日は沈みかけ、涼しい風が吹いている。男は青いつばのある帽子を被って俯きながら歩いている。「ここか、、、」男は小さく呟いた。男は街外れの丘の上の一軒家に着いた。玄関には「相談屋」と書かれていた。門と家の扉が開いていたためそのまま入ることにした。「お邪魔します」。男が家の中に入ったことを知らせるための挨拶をしても人気が無い。人気が無いことに不安を感じながらも玄関を入った目先にある受付まで進むと「ご相談の方は左奥のお部屋でお待ちください」と立札があった。男は立札の通りに左奥の部屋に入った。部屋にはテーブルがあり、椅子が向かい合って配置されていた。男は手前の椅子に腰掛けて待つことにした。暫くするとトットットッと物音が聞こえ、1匹の猫が入って来た。白く大きな毛の長い猫が男の向かいにある椅子に上って腰を据えた。男が猫を驚きながら見ていると「ようこそ相談屋へ」と声がした。男は周りを見回して声の主を探したが見当たらない。すると「君の目の前にいるよ」とまた声がした。男はまさかという表情で目の前にいる猫を見た。「ようこそ相談屋へ」と同じ声が再びした。猫が発した声だった。猫が男に話しかけた「ふふっ、驚いたかな?人間の言葉を猫から聞くのは初めてかい?でも驚くことはないよ。猫以外にも人間の言葉を話す者はいるよ、鳥とか犬も人間の言葉を話す者がいる」。猫は続けて話す「ここに来たってことは何か悩みがあるんじゃないか?この相談屋は私が訪れた者の相談相手をしている。医者みたいに治療や処方はしないよ、君の話を聞いて一緒に解決策を見つけるか、私と話すことを通じて君自身で解決策を見つけるかだ。私は手助けをするだけだ。解決策と言ったが、完全には解決しないこともあると思う。その場合は悩みで生じる辛い状態を和らげる方法を一緒に探すことになる」。男は「はあ、、」とただ相槌を打つだけだった。まだ状況を呑み込めていないらしい。猫は呆気に取られている男に自分自身のことを話した「私は元々は人間だったんだよ。ある日目が覚めたらこの姿になっていた。君はここへ来る時に街から来たが、元は人間だった者達の姿を見たんじゃないか?この世界は自分の気持ち次第で姿が変わるからね。原理はわからないが、いつからかこの世界は心の状態や形で姿が変わるようになったからね。私は人間だった頃の記憶はほとんどないが、ここにずっと住んでいたようだ。家族はいないか、別の所にいるのかも知れないが、もう人間だった頃の記憶が無い。ただ人と話すので好きだったのでここで相談屋として来る人の話を聞いているのさ。そしていつからか相談に来た人達の悩みが解決していくのでたまに君のように悩みを抱えた者が来るのさ」。男はようやく会話としての言葉を発した「ええ、ここなら今僕が抱えている悩みを解決してくれると聞いて来ました。まさか猫が相談相手とは驚きましたが」。猫は「そうだろう。ここに来る人は皆驚く。だけどすぐに慣れるさ」。「さて、前置きが長くなったが君の悩みを聞こうか、君の名前と、後、被っている帽子を取ってくれないか」。男は「水野空です」と名乗った後、被っていた帽子を取った。帽子を取った水野の額には角が生えていた。眉間の少し上に5センチほどの角が生えている、角は皮膚を突き破らずに皮膚が角を覆っているが、形が角であると分かるほどに隆起していた。帽子を被っていると丁度つばの影で目立たなくなる。猫は水野の額の角を見て驚きもせずに「ほぅ、それは鬼の角だね。このままだと角は大きくなり、君は鬼になってしまう。そうすると君に関係のない者や物を壊れるまで暴れるだろう。そうなったのには何か原因があるんじゃないか?」と水野に尋ねた。「はい、昔のことを思い出して辛くなるんです。その時に角が生えるようになりました。最初は暫くすれば角は収まっていたのですが、最近は角として生える頻度が多くなり、生えてもなかなか収まらなくなりました」。「フム、君の内面に何か原因がありそうだね。君は君自身が思う性格と思い出す辛いことを話してくれるかな」。猫に促され水野は話始めた「僕は自分では繊細でプライドが高いと思っています。思い出す辛いこととは、かつての同窓生についてです。僕は中学から大学までいじめを受けていました」。水野の顔が暗くなる。猫は水野が落ち着いて話を続けるのを待った。水野が再び話始める「中学の時は同じ部活の人でした。理由はわかりませんがちょっかいを出されるようになりました。小林(仮名)は他の人にもちょっかいを出しては返り討ちにあっていましたが、私は返り討ちにすることができませんでした。理由は私の両親が地元の町でお店を営んでおり、私が私が問題を起こすと親に迷惑がかかると考えてしまったのです。そうして、仕返しをしないは私に彼は更にちょっかいを出すようになりました。耐えられなくなった私は親に相談し、部活の顧問を通じて彼に注意をしてもらいました。体裁上は彼が私に誤って収まったことになりましたが、彼は周りに気づかれないように私に嫌がらせをするようになりました。私も辛かったのですが、いつか終わるだろうと我慢していました。当時の私は勉学や運動が得意ではなかったのであまり問題を起こしたくなかったのです。それに、嫌がらせを受けていることを周りの友人に知れるのも嫌でした」中学3年のある時、私と友人数人とその嫌がらせをする彼と下校している時に彼が私の前で私の悪口を友人に言おうとしました。私は頭に血が上り、彼の首を思いっきり両手で絞めました。彼は私の手を解くことなく耐え続けていました。きっと誰かが私を咎めるのを彼は待っていたのでしょう。しかし、誰も咎めませんでした。時間にして1分が経った後、私は絞めていた首から手を解きました。彼は目に涙を浮かべてただ黙っていました。一緒に帰っていた友人の一人が彼になぜ涙目なのかを聞き、私に首を絞められたからだと言いましたが、友人は彼を小馬鹿にするだけでした。それから中学を卒業して20歳になる年に同じ部活のだった人が川で溺死しため、お葬式に参列することになりました。当時の部活のメンバーも全員集まっていました。当然彼もいます。私は彼にされたことをまだ覚えていて怒りが収まっていなかったので葬式中は彼にはずっと睨んでいました。葬式の後、部活のメンバーが集まって、一緒に参列していた部活の顧問の話を聞くことになりました。私は部活内で仲の良い数人と一緒に顧問の話を聞いていましたが、彼は私達と少し離れた所で一人でいました。中学時代のガキ大将が彼になぜ部活のメンバーが集まって所にいないのかと吹っ掛けていましたが、小さく縮こまっていました。顧問が話している間、私はずっと彼を睨みつけていました」。猫は興奮した様子の水野が話し終えると落ち着いた口調で「それは辛かったね、でももう大丈夫だ。もう彼はここにはいない今の君を苦しめることはないよ」と言いました。しかし、水野は興奮した様子で「今も苦しいです。嫌がらせを受けた当時のことが何度も動画再生のように頭の中でグルグルと映し出されるのです。忘れようとしても忘れられないんです!!」。続けて水野は言う「今、小林(仮名)が目の前に現れたら多分僕は正気じゃいられないと思います。殴りかかって当時のことを謝らせようとします。でも私はもう29歳です。中学の時とは違い、今殴り掛かれば彼は死んでしまうかも知れません。私は当時の嫌がらせを受けたことを思い出し、怒りや悲しみ、恐怖を痛烈に感じて日々過ごしています」。猫は言う「過去のことに囚われてその復讐を彼にする、もしくは関係のない誰かを傷つけて癒そうとすることは寧ろ君自身を傷つけることになる」。「お葬式で彼が君に睨まれて怯えていたなら、もう君の存在の方が彼よりも強いことの証明じゃないか。君は君が負かした相手を更に相手にし続けるのかい?もう関わりのない彼との過去を思い出して今の時間を無駄にすることになる。もう過去でも今でもそんな奴に関わってやる必要は無い。今関わりのある大事な人達のことを更に大事にすればいい。今、君自身が大切に思える人たちがいるかな?」。男は言う「います。妻と友人たちが、友人たちの中には中学の時の部活を通じて今でも仲の良い人たちがいます」。猫は「よろしい。ではこれからは君の妻と友人たちを更に大切にするんだ。聞いたことがあるかも知れないが、愛情の裏返しは無関心だ。君が愛しいと思う人たちには君なりの愛情で接するんだ。そして中学の時に嫌がらせをしてきた彼に対しては無関心でいることだ。それが彼にとっての一番の復讐となるだろう。子供なら何かしらの方法でやり返すが、大人であれば相手にされないことが何よりの対応策だ。実にスマートだろ」猫はゆっくりと水野に語った。水野は落ち着いた表情で「ありがとうございます。なんだか楽になりました。確か彼は小さい時に両親が再婚して片方の親は血がつながっていないはずです。私からすれば分かりませんが、家庭内で何かしらストレスを感じることがあってそれが私への嫌がらせになっていたのかも知れません」と言った。しかし猫は水野が言ったことには同意しなかった「両親が再婚した家庭が上手くいっているケースもあるから一概にそのような言い方は良くないよ。それに、彼には辛い背景があったとしても君が受け止める必要は無い。それは彼の親の役目だ。君は彼の親ではない。君が彼のストレスの面倒まで見る必要は無いんだよ。そうしないために彼に対して無関心を貫くんだ」。水野は「はい、すいません」と小さく言ったが猫は「君は誰にでも優しいんだよ。優しくなれるということは人として余裕があるんだ。これは強みだよ。ただ、全員に優しくする必要は無い。そもそも全員に同等の優しさを向けるのは不可能だ。そんなことができるのは聖人くらいだ。君は君自身を大事にし、君が愛しいと思う人達だけを大事にすればいいそうすれば君を中心とした世界は幸せだ」。水野は「ずいぶん深いですね。確かに考え過ぎていたのかも知れません」。猫は水野が話に納得したのを確認した後に続けた「ただ、君に対して聖人であることを求めてくる者には関わらないようにするんだ。そのような者達は自分達の都合の良い者を傍に置きたい、都合のよい者にしたいだけだ、君自身を見ていないし、別に君でなくても良いんだ。君に聖人であることを求める者とは距離を置くんだ。彼らは彼らの世界で生きていればいい。君とは関係ない」。水野は「そうですか、、、気を付けます」と短く返した。猫は水野が疲れているのを察して家の周りを少し歩いてくるのを提案した。水野もそれに応じて家の周りを歩くことにした。外はすっかり暗くなっていた。しかし1日快晴だったため夜空には星々がはっきりと輝いていた。街から見るよりも丘の方が星がはっきり見える。相談屋の周りには街頭や建物が無いため、灯りとなるのは夜空の星や月か見下ろす街並みの灯りだけだが水野にとっては十分だった。夜の済んだ空気を堪能した後、水野は猫のいる部屋に戻った。猫は相変わらず椅子に座っていた。猫は水野が席についてから「リラックス出来たみたいだね。角も収まっているよ」と言った。水野も額を触って確かめたが、家の周りを歩いた後から角が収まっているのだろうと触って確認せずとも感じていた。「今日はありがとうございます。おかげで楽になりました」水野が礼を言う。猫は「それは良かったよ。私は特に何もしていないが感謝されるのは悪い気分ではない」と言葉を返した。「ただ、君は今は角が収まってもまた生えてくるかもしれないね。さっきまでの話は中学までだったが、高校・大学でも辛い経験をしているのならふとした時にそれらの記憶が蘇り角が生えてくるだろう」と猫は続けた。水野は「はい、恐らくは、今はお話をいろいろ出来て気分が楽になりましたが、また何かと思い出して辛くなると思います」と不安げな表情をした。猫は「角はストレスの象徴だ。記憶を基に心から沸いたストレスが体に訴えて出る反応だ。心は角が生えたこと自体にもストレスを感じて更に悪化する。そうして鬼になる」と言った。「鬼になるとどうなるのでしょうか」水野は猫に聞いた。「君の周りには恐らく鬼はいないだろう。もし鬼が出たとすれば周りの者や物を破壊するまで暴れるか、自ら命を絶つだろう。自分の命を破壊するんだよ。そのため、鬼は負のエネルギーの塊だ、今の社会は負のエネルギーが発生して周りに危害を加えるようであれば捕まえて社会から隔離するんだ」。猫に鬼について説明された水野は顔が強張ってしまった。自分が鬼にならないとも限らないからだ。「じゃあ、私はどうすれば良いんでしょう、、、今は良くてもいつか私の中の鬼が目覚めてしまうかも知れません」水野は言った。猫は「大丈夫。角が生えた時はまたここに来ればいい。そしてまた話そう。鬼と言うのは外に向ければ強い負のエネルギーだが、今日みたいに君自身から負の感情や辛かった出来事を言葉にして口から吐き出すことで負のエネルギーはしぼんでいく。また、一緒に解決策や考え方を探すことで浄化されていく」。「鬼と言うのは強い感情が積りに積もって消化しきれなくなった時に腐敗して負のエネルギーが形になったものだ。強い感情は元々、自分自身を守るための感情であったり、抑え込まれた欲求だったりする。普段は水や空気のように流れがあるものだが、一か所に留まり続けると固まって負のエネルギーを発する基となるんだ」。「鬼と負のエネルギー、、」水野は猫を見ながら呟いた。「どうやら今夜だけでは君の中にある負の塊は消え切っていないようだ。時間をかけて無くしていこう」。猫の提案に水野は安心したのか「はい、よろしくお願いします。」と穏やかに言った。早くも今までの悩みが消え去ったような表情だった。猫も「じゃあいつでもおいで。待っているよ」穏やかに言った。水野はそのまま相談屋を後にした。空には相変わらず星々が輝いていたが、水野にとっては普段よりも眩しく感じられた。