5
イングとの邂逅から三日が経ち、四月六日。この三日間をニックスは鬱々と、そして恐々と過ごしていた。二アナやヴィル機関を滅亡させる。ニックスはイングに対してそう啖呵を切り、決心も固めた。しかし、日を経ていくごとにその意志はニックスに孤独と焦燥を与えてきた。目的を達成しようとする者は自分しかいなくて、なおかつ自分しか含めないということを自覚させてきたのだ。
現在午前十時半、ニックスは仕事を終えて、家路に就いていた。といっても夕方になったらまた職場へと向かわなければならない。だが、ニックスにとってそれはありがたいことだった。彼は一人になりたくなかったのだ。家路に就く道中も、彼は人恋しさから大した用もないのに雑貨屋や万屋を覗き、波止場に居るつれない釣り人を冷やかした。挙句の果てには頼まれてもいないのにわざわざ他人の世話を焼こうとする始末だった。その中には余計なお世話というのもあり、幾人かを白けさせた。それでも結局、平日の昼頃においてニックスの相手をしてくれる人間というのは限られており、やがて彼は肩を落として自宅へと歩を進める。
アパートの自宅に戻ってきたニックスは居間で寝転がり、懸命に眠ろうとしていた。これまでの二日間、彼は昼寝に失敗している。今日もそんな予感があった。目を閉じようとも意識はいつまでもはっきりとしていた。
廊下を叩く靴の音が響いてくる。ニックスはその度に耳をそばだてる。やがて、二つ隣りの部屋のドアが開き閉めされる音でようやく杞憂であることを悟り、ため息を吐く。
早く夕方にならないものか。ニックスは寝返りを打ちながら心中でそう呟いた。孤独が身に染みていた。
目を閉じてから三十分、冴えている聴覚はすぐさまその音を聞きつけた。ニックスは目を開けて、依然鳴り続けている音を辿るように手を伸ばす。ケータイが鳴っていたのだ。
ケータイを手に取ったニックスは縋るようにして画面を見やった。孤独を紛らわすことができると思ったのだ。
「あ……」
しかし、ニックスは表示されていた番号と名前を一瞥して、思わずそう声を漏らした。
アサネからの電話だったからだ。ニックスはほんの少しの間、応じるかどうかを迷った。出てはいけないと分かっていても、彼は人と関わることのできるこの機会を逃したくなかったからだ。
結局、ニックスはこれで最後だと自らに言い聞かせると、ボタンを押して耳元にケータイを当てた。
「もしもし」
「あっ、こんにちは。アサネです」
「ああ」
「一週間ぶりくらいですかね。元気にしてましたか?」
一週間前のことですらニックスには懐かしいものだった。アサネの声を聞いて、一々感傷にひたってしまうほど。
「ぼちぼちってところかな。お前こそどうなんだよ?」
「元気ですよ。それに、最近良いこともあったので」
アサネの声音は朗らかものだった。聞いているニックスも思わず笑みを漏らしていた。
「そうか、それなら良かった。で? 今日はどうしたんだ?」
「いえ、ただ連絡を入れておこうと思っただけなんです。あと、気になったこともあったのでついでに確認しておこうかと」
「あー、そうだった……うん、そうだな。俺のお目付け役だったもんな、アサネは」
ニックスは、アサネの『気になったこと』に一切触れないようにして言葉を返した。その内容についてニックスは予想できていた。本当なら三日前にはアサネの耳に入っていた情報についてではないか、と。
「監視というのは正直名ばかりなんですけどね。特別何かが起きたわけでもありませんし」
「何か、か……」
それはアサネが知らないだけなんだ。俺の心は随分変化したもんさ。
アサネの言葉を聞きながらニックスは心中でそう思った。そして、そう思った瞬間、彼のうちにくすぶっている孤独感がより強くなった気がした。『自分だけ』ということをさらに意識してしまったからだ。まもなく、その孤独感は不安と恐怖に転換され、襲い掛かってきた。それは耐えがたい程に痛々しく、彼は思わず空いている手で胸元を抑えた。
もう何もかも全部明かしてしまいたい。ニックスはそんな衝動に駆られていた。
何か重要なものまで失ってしまいそうだが、もうどうでもいいだろう。自制心が役割を放棄した。
「ニックス? どうしました?」
黙り込んでいたニックスのことを心配してか、アサネが様子を窺ってくる。
「なんでもない。それで……」
ニックスはそこで一度言葉を切って、躊躇するように口を震わせるが結局、
「アサネ、聞きたいことっていうのなんだ?」と自分から端を発した。もう恥も外聞も無かった。
「ええ。聞いておきたいことというのは、あなたの住む街の近辺で先日ヘリコプターが目撃されたらしくて――」
予想通りだった。ニックスはアサネの言葉を遮って、「知ってるよ」とだけ答える。
「そうでしたか。それではそのヘリコプターから――」
「パラシュートで降下してきた奴のことだろう? 知ってるよ」
「その人物について――」
「それも知ってる。もう何もかも知ってるし、今更知っても無駄なことだ」
その段になってアサネはなにかに勘付いたらしく、
「ニックス、もしかして?」と持って回った言い方をしてニックスに尋ねる。
「ああ。三日前、二アナの刺客と闘ったよ」
ニックスは事も無げにそう答えた。
「三日前? どうして――」
「連絡しなかったかって? そうおかしいことだ。俺はお前に連絡すべきだった。何を強がっていたんだ。どうしようもなく臆病なんだ、俺ってやつは。だから、アサネに頼るべきだったんだ」
「臆病、ですか?」
「ああそうさ。臆病だ。知らなかったろ? 俺はどうしようもなく情けない男なんだよ。今思えば、お前の言った俺が勝利にこだわらない理由だって、それはただ単に今まで俺が大した勝負事には首を突っ込まなかったってだけなんだよ。そういうことから無意識に逃げてたんだ。もういいんだ。なにもかもどうでもいい。やっぱり無理なんだ、俺には。とてもじゃないが――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
アサネはそう声を張り上げて、捲し立てるように言葉を紡ぐニックスを静止させた。
「私にはあなたの事情も言ってることもさっぱりわかりません。でも、まず冷静になって考えてみて下さい。その行動はニックスにとって本当に正しいことなんですか?」
「正しさなんかどうでも――」
「もう一度聞きますよ。ニックスにとって本当に正しいことなんですか?」
ニックスは一度嘆息を吐いてから、
「違う。確かに違う。でももういいんだ」
「どうしてですか?」
「独りが辛いんだ。独りの身の丈には荷が重すぎるんだよ。だからもうそれを捨て去りたい……三日坊主の決心だったよ」
そう言ってニックスは自嘲するように乾いた笑い声を上げる。
「決心……ニックスにとって大事なことですか?」
「もういいって言っただろ。俺には無理なことだ。アサネを頼れなくなるのは困る」
「頼れなくなる? どういう意味ですか?」
「それは俺が……俺はアサネに対して後ろめたい隠し事、いやもっと直接的に言うなら企みがあるからだよ」
「企み? 私にも関係あることで?」
「近からず遠からず。でも俺達の間で確執は生まれるかもしれないこと」
「なるほど、そういうことですか……うーん」
考えるように唸ってしばらくしてから、アサネは「だったら」と呟き、
「企みがあるってことをどうして私に言ったんですか? 私はニックスに隠し事があるなんて元々知らなかったのに。私を頼りたいと言ってくれたことは嬉しいです。でも、わざわざそんなことを明かさなくたって私はあなたをサポートしますよ?」
「それは……駄目だ」
「どうしてですか?」
「言ったろ? 確執を生むかも知れないことだって」
「私に知られなければいいことじゃないですか」
「それは道理にかなってない。そもそも俺には隠しおおせる気もしない」
「余程のことなんですね」
「そうだ」
二人の会話が途切れた。両者各々に何かを思い巡らし始めた。
しばらくしてからニックスは腹の内を全て明かそうと口を開いたが、
「ニックス、少し考えてもみて下さい」
先に沈黙を破ったのはアサネだった。先程までとは打って変わった酷く落ち着いたその声調子にニックスは驚いた。
「私はそもそも職務としてあなたをサポートしなければならないんです。つまり、私にとって一番困ることはあなたと一切の接触ができなくなること。そうですよね?」
「まあ、そうなんだろう」
「もうひとつ、あなたがその隠し事を明かした場合、この後の私たちの関係にどれほど影響を与えるのかも分かりません。そうですね?」
「ああ」
「なので、私は最低限あなたに避けられるのを防ぐため、あらかじめこれだけは言っておきます。『私は何も聞きませんでした。そして何も聞きません』」
アサネのその方便は、それを語る声調子は、やはりどこまでも事務的なものだった。なので、一聴したところ、彼女はあくまで合理的に自分の利害を語っているように思わせる。
「アサネ、お前は……」
しかしニックスはその言葉の裏にあるアサネの魂胆にすぐさま気が付いた。アサネの言い分には論理として穴があったからだ。それというのも、ニックスの企みをそっくりそのままヴィル機関の上層部に知らせたところで、その首尾としては彼らがニックス・ハットについて不要な、あるいは排除するべき存在として認識するだけのこと。アサネには彼らからまた別の業務や何なりをあてがわれるだけのはずだからだ。彼女への影響は微々たるものだ。つまるところに自分はニックスと運命共同体にあるというアサネの主張はほとんど破綻していた。もちろん必ずしもありえないというわけではない。しかし、その可能性は薄いとニックスは考えた。アサネの落ち着き払って冷たいほどに事務的なその口ぶりからは動揺の一片も見受けられなかったからだ。そのようなところがアサネらしいとニックスは思った。
皮肉なもんだな。お前は素直過ぎるから、どこまでも従順で単純な嘘つき者に徹することはできる。でも、その所為で少し捻くれただけの優しい嘘を貫き通すができないんだよ。ニックスは心中でそう呟いた。
「私とあなたはあくまでビジネスパートナーです。だから、細かいことは気にしなくていいんですよ」
アサネは未だに態度を変えない。ニックスはそのアサネの態度を指摘することもなく、
「本当にいいのか? 俺はお前を体よく利用することになるんだぞ?」と尋ねる。最終確認だった。
「やっぱり細かいことです。それなら私だってあまり変わりません。そうでしょう?」
「そう、か」
ニックスはしばらくしてから、「俺はお前に隠し事がある」と不意にどこか格好を付けたように呟いた。
「え?」
「だが俺は卑怯にも決してそれをお前に明かすことはない。俺はお前をも利用して画策する。断ればどうなるか分かってるよな?」
ニックスが三文芝居な口ぶりでそう言うと、アサネは「あ」と反応し、ややあってから、
「酷いです。許し難いです。でも、あなたとの関係を保つうえで私は目を瞑るしかないですよね、とても悔しいことですけど」
繰り広げられた一連の茶番、その可笑しさから二人は同時に笑い声を上げた。
「ありがとう、アサネ」
「別にお礼を言われることなんて」
「そうじゃない。ノッてくれたことに対して言ったのさ。そいつもビジネス業務のひとつなのか?」
アサネは拗ねたように「むう」と声を漏らし、
「やっぱりばれてたんですね。もうっ。分かっててからかわないでくださいよ。今になって恥ずかしくなってきたじゃないですか」
「無理なんてするものじゃないってことさ」
「お互いに、ですね」
「まったく」
二人は再び小さく笑った。
この前、借りを返したばかりなのに、また作っちまうなんて。心中にてそこまで呟くと、ニックスは「アサネには頭が上がらないなあ」と電話口で続けてそう言った。
「べつにそんなことは――」
「アサネ、一つ俺の話を聞いてやってくれないか? つまらないもんなんだけどさ」
「え、急ですね?」
「そうでもない。さっきの話にも関係あることさ。というのも俺の夢についてなんだ」
「夢。前にも言っていましたね。でもいいんですか? 前は内緒だって」
「ああ、やっぱりアサネに対して何もかも隠したままというのは気持ち悪いんだよ。だからひとつ、俺の弱み、俺の行動原理を知っておいてもらおうかなと思ってさ。ぜひ、聞いてもらいたいんだ」
「ぜひ、ですか」
思案するようにアサネは少しの間唸っていたが、やがて、
「分かりました。それでは、聞かせてください」と遠慮がちに促した。
「よし」
一度深呼吸してから、ニックスは人生で始めて、誰かに明かすその秘め事の重大さに備えた。その気配が伝わったからか、アサネは固唾を呑んでニックスの言葉を待っていた。
「俺の夢は……」
これから語り始めようとしたその瞬間、ニックスの胸中には、たちまち期待や希望が埋め尽くすほどに広がってきた。最前、彼が失いかけていたものだ。
「俺の夢はさ、家族を作ることなんだ。お互いに心の許せる連れ合いを見つけて、子どもを作る。二人か三人くらい。金も家も物足りないぐらいが丁度良い。伸び伸びと暮らしていければそれが最上。そんな人生を送るのが俺の夢、俺が最も大事にしてる目標だ」
ニックスは、誰に見せているわけでもないのに満面の笑みを浮かべていた。
「なるほど。本当に立派な夢だったんですね」
「だろ?」
「だから、何にも縛られたくないんですね」
「それが誇れることなら話は別――」
しまった。話の流れで口を滑らせ過ぎた、とニックスは思い、片手で頭を抱えながら、
「……すまん。また余計なことを」
「いえ、今更気にしないでください。少しは理解しているつもりですから。それに、そういう夢ならニックスにはぜひとも叶えて欲しいと私は思っていますし、出来うる限りで助けになりたいとも思っていますよ」
「いや、もう十分、助けになってくれてる」
「そうですか? だったら、後は相手探しの手伝いぐらいですかね?」
「そうだな……え?」
ニックスは少し戸惑ったが、どうもアサネ自身は他意を含ませたつもりも無いようだった。その証拠に彼女は、
「そうだ。私の話も聞いてくれませんか? さっきも言った最近起きた嬉しかったことについてなんですけど」とニックスの様子の変化を気取ることもなくそう尋ねた。
「俺の話を聞いた代わりに、ってことなら別に気にすることはないぞ?」
「そういうわけじゃないですよ。ただ、人って嬉しいことがあったら誰かに聞いてもらいたくなるものでしょう?」
「なるほど。俺もその手の話を聞くのは結構好きだし、聞かせてくれ」
「はい。私、友達ができたんです。年下の女の子なんですけど。とても元気で、無邪気で、可愛い娘なんですよ。名前は――」
アサネが続けて口にした名前を聞いて、ニックスは「ああ」と呟きながら、心中ではやっぱりと呟いた。そうして、一度大きくため息を吐いてから、
「そうか、朗報だな。きっとそいつもアサネのことが気に入ったんだろうな」
「そうだったら、嬉しいです」
「絶対そうだよ。俺が太鼓判を押すさ」
「そ、そうですか。でも……うん。信じさせてもらいます」
そう言ってアサネは恥ずかしそうに小さく笑った。
アサネの話を聞いたニックスは堪らなく嬉しくなり、笑いながら思った。
やっぱり、この国の人間に気に入られるタチなんだな、アサネ。これで、お前に下げっぱなしの頭も少しは起こせるってもんだ。今度アイツにも何か奢ってやらないとな。
その後も二人はしばらく談話を続けた。終わったのは手元の灯が落ちた頃であり、陽が落ち始めた頃だった。
「これから仕事か面倒だな、まったく。面倒さ」
夕刻、ニックスはそうぼやくと、欠伸を噛み殺しながら身支度を始めた。
四月八日、真夜中。ニックスは人気の無いある荒野にまでやってきていた。まとわりつくような草木や障害となるような岩石も少ないため車の通り道として度々利用されている。その証拠にニックスの視線の先には、どこまでも続く轍があった。
「着いたぞ、相棒」
インカムのマイクにニックスはそう告げる。すると、すぐに
「その場でしばらく待機していてください」とアサネは言葉を返してくる。
「しかし、本当にこんなとこに来るのか?」
「正確にはその辺りを通る、ですね。青い車が来たら注意して下さい」
「四人だったか?」
「はい」
「前と一緒だな」
「ええ。でも油断はしないでください」
「分かってるさ……ん?」
エンジン音がニックスの耳に届いた。音のする前方を見やると、前面のライトが微かに車体の青と運転手の装束を映しながら、一台の車が徐行していた。
「噂をすれば何とやら。来てくれたようだ」
ニックスは傍にある石ころをいくつか拾い取ると、その車に向かって放り投げた。石ころは車のバックミラーとフロントガラス、前部左側面のドアに命中した。
車が穏やかに停まると、ややあってから、全てのドアが開かれて、スーツを着た四人の男が姿を現した。ニックスは男たちの方へとゆっくり歩み寄りながら、
「やあやあ、諸君。あなたたちがお探しのニックス・ハットだ。ファンがわざわざ会いに来てくれたとあって俺も嬉しくなって迎えに来ちまったよ。そんな礼服までこしらえてくれるとは尚更嬉しくなる」
男たちは互いに頷き合うと冷笑を共有する。そうして、それぞれニックスの方へと向き直り、準備を始める。一人はナイフを取り出した。一人はスタンガンを取り出した。一人はナックルダスターを指にはめる。恰幅の良い一人は何も持たずに身構える。
そんな彼らを見回しながらニックスは、
「車を傷つけたんで怒っちまったか。だったら、力づくで詫びさせてみな!」と声を張り上げ、背中に携えていた得物を手に取ると、両手でつかみ直して構える。すると、男の一人はそれを見て眉を曇らせ、「あれは」と呟いた。闘いの幕はその男によって開かれた。彼はニックスに駆け寄って、殴りかかろうとした。
ニックスは瞬間的に思った。
俺は勝ち続ける。あらゆる逆境をもろともしない。
俺は追い続ける。後退することはありえない。
俺は求め続ける。二度と覆したりはしない。
迫りくる男に対応するためにニックスは勢いよく棒を振るった。
「あなたならできます。『君に誉れあれ』」
ニックスの心境を知ってか知らずか、アサネは彼の右耳でそう発破をかけてきた。
「『あなたよりも誉れ高く』」
ニックスは、したり顔で期待に応える。