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世界外れの絶対勝者  作者: ゴマキタ
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「よお、今日は釣れてるか?」

 波止場にやって来たニックスは、先客であるトールにそう質問を投げ掛けながら、彼の右横に腰掛けた。

「いつも通りだ。つまりは大漁さ」

 トールは海へと垂れ下がる釣り糸を見つめたまま答えた次の瞬間、「冷たっ!」と声を上げて、ニックスの方へ反射的に素早く振り向いた。

「差し入れだ。足りない釣果のひとつにもならないがな」

 ニックスはそんなトールに持っていた二本のコーラの缶を見せつけた。トールは水滴に濡らされた首筋をさすりながら、ニックスから缶一本を奪い取った。

「寝てるとでも思ったのかよ。まったく無用な心配だぜ。獲物がかかった瞬間をこの俺が見逃すものかよ」

 トールはプルタブを片手で引き、缶を開けると、そのまま飲み口に口を付ける。それを確認してからニックスもまた缶を開けた。

「おまえ、最近来なかったな? どうしてたんだ?」

 足元に缶を置いた拍子、トールはニックスに流し目してそう尋ねた。

「仕事の量を増やしたから、っていうのもあるんだが、それとは別にちょっとした厄介ごとに巻き込まれてさ」

「そいつは……ふむ、穏やかじゃないな」

「そうだな、まったく」

「何やらかしたんだよ? お前にしては珍しいじゃないか。そういうのはいつも避けてるのによ」

「問題はそこさ。俺は何もやっていないのにどうしてトラブルに巻き込まれているのかってことだ」

 そう言ってニックスは呷るようにコーラを口に含んだ。強い炭酸のため、目元に軽く刺激が走って、少し目が潤んだ。

「よく分からんが、なんだか大変そうだな」

「そう大変さ。まあしかし、悪いことばかりでも無かったよ」

「へえ、どうして?」

「友人が出来たんだよ。結構面白い奴でな。この国に来たばかりなんだよ」

「外から? 珍しいな。商い関係か?」

 トールが聞くと、ニックスは「いや」とかぶりを振った。

「ますます珍しいな。セイネイに居るんだよな?」

「ああ、居るよ。といっても俺達とは逆側のところに住んでいるらしいから。会うのも難しいし、顔すら見たこともないんだけどな」

「ふーん、なんか複雑だな。外だとそういうのは普通らしいけど。そういえば、珍しいというなら、俺もついさっき珍しいもんを見たぞ」

「へえ?」

 反応したようにニックスはトールの横顔を見やる。しかし、トールはというと見上げて、何かを探すように視線を空で踊らせていた。

「あの辺りでよ、ヘリがうろちょろしてたんだよな」

 トールは手を掲げて、遥か左の空を指差した。

「ヘリ? 確かに珍しいな」

「だろ? それだけでも珍しいのにそのヘリから降下してきたパラシュートなんてのも見たんだ」

「わざわざパラシュートで? それはもう珍しいを通り越してるだろ」

「そうだよな、むしろ怪しいよな。まったく大事にならなければいいが」

 ニックスは眉をひそめて、「そうだな。怪しい、な」と物憂げに呟き、コーラを呷った。

 怪しい。ここ最近のニックスの周囲を取り巻く状況を形容するにふさわしい言葉でもある。だからこそニックスは不穏なものの影について懸念していた。

「なあ、トール」

「ん? あっ、今はちょっと待て。引いてやがるからよ」

 そう言ってトールは立ち上がると、竿を引っ張りながら、リールを巻いて獲物を引き寄せようとする。やがて、海面から引き揚げられた魚はトールの手元にまで手繰り寄せられた。

「よしよし」

 釣り針を魚の口から外しながら、トールは満足そうな笑みを浮かべて頷いた。

「いい時間だし、そろそろメシにするか。魚焼くがお前も食うか、ニックス?」

 ニックスは表情を隠すために一度顔を伏せ、ややあってから顔上げると「いや、今日はやめとく。俺はもう行くよ」と言って立ち上がった。

「もう? 早いじゃないか。それに、さっき何か聞こうとしてこなかったか?」

 トールがそう尋ねると、ニックスは何事か言おうかと口を開いたが、一度躊躇し、次に口を開くと愛想笑いを浮かべながら、「まあいいや、別に。大したことじゃないからさ」と誤魔化すようにそう言った。

「いいのか?」

「ああ。それじゃあな、大漁を願ってる」

 片手を上げながらニックスはトールに背を向け、歩き始めた。その背にトールは「ああ、また来いよ」とだけ言った。ニックスの様子を特別気にはしていないようだった。

 ニックスは歩きながら、海を眺めていた。なだらかで、すなわち穏やかな海面だった。しかし、ニックスの心模様はそれとは真逆だった。

 ニックスの心中は先程から妙にざわついていた。嫌な予感があった。

『パラシュートはどこに落ちたのか』

それこそ、ニックスが友人に尋ねようとした質問の内容だった。しかし結局、彼はトールにそのことを問わなかった。その理由は杞憂であると、勘違いであると、あるいはそうであって欲しいと思ったからだ。ある意味でニックスは予見していたともいえる。敵との再来を。

アサネとの『デート』から五日が経っていた。

五日間、ニックスは高校を卒業してから多少変化した普段通りを問題なく過ごしていた。つまりはタウンエンジンでの仕事に日々明け暮れていたのだ。

アサネとは、『デート』の翌日に一度連絡を取ったが、それ以降は音沙汰なかった。ニックスから連絡する用事は無かった。そして、それはアサネにしても同じことだった。なぜならこの五日間、二アナからの接触は皆無だったからだ。

 本日は四月三日。ニックスの仕事も休みだった。

十時頃、目を覚まして、十ニ時頃、散歩がてらと外出した。そうして、最初に行き着いたのが親友の居た波止場だった。


「あっ、ニックスだ!」

 リンゴをかじりながらニックスが街の通りを当ても定めずに遊歩していると、後ろからそう声を掛けられた。

「ん?」

ニックスは声する方に振り向いた彼の視線の先に立っていたのはリーア、そして彼女の傍らに並んで歩く一人の少女だった。その少女のこともニックスはよく知っていた。ニックスに声を掛けてきたのも彼女だった。

「よう、リーア。おお、それにティエラも。久しぶりだなあ、元気にしてたか?」

 少女ティエラは大きく首を縦に振りながら、「うん、元気だよ!」と陽気に答えた。そうして、勢いそのままにニックスの下へと駆け寄って、「ニックス、久しぶり! 会いたかったよ!」と笑みを浮かべて、彼を仰ぎ見た。

「俺だってそうさ、ティエラ。相変わらず可愛い奴だ」

 言いながらニックスはティエラの頭に手を乗せて、髪を軽く撫でた。

「可愛い!? ありがとう!」

 ティエラは喜色満面の笑みでそう言い、頭の上に置かれたニックスの腕に自分の腕を絡ませてきた。

「本当によく懐いてるよね。兄妹みたい」

 リーアもまたニックスの下へと歩み寄ってきた。

「何言ってるんだ。ティエラ、リーアのことだって好きだよな?」

「うん! 私はニックスもリーアのことも好きだよ!」

 ティエラはニックスとリーアを交互に見やり、笑顔を見せつけながら言った。

「ありがと、ティエラ。私も好きだよ。それにしても、ニックス、最近見なかったけどどうしてたの?」

 ティエラの頭に乗せていた手をニックスが離れさせると、彼女はその手を逃がそうとせずに再び両手で掴み取った。

「ずっと働き詰めだったんだよ。もう学生でもないからな。以前の調子で、という訳にはいかないのさ」

「お父さんと同じでニックスも働き者なんだね」

 ティエラは、掴んでいたニックスの手を引っ張りながらそう言った。

「いやいや、ティエラの親父さんには負けるよ。それにティエラも親父さんに付いてここまで来るなんてえらいじゃないか」

 ティエラの父、バークス・ナセットはニックスと同じくタウンエンジンに務めており、彼の業務はタウンエンジンにとっての肝心要、トラックでの貨物運送である。彼はニックスやリーアの住む街にもしばしばやって来てその都度、友人であるフランク・ビディと会うために彼の経営するパン屋を訪れる。なので、バークスに連れられたティエラは自然、リーアと親しくなり、リーアと親交のあるニックスもまた、ティエラと出会うことになったのだ。

 ティエラはかぶりを振りながら、

「そんなことないよ。だって、私はただニックスやリーアに会いたかっただけだから」と率直に子どもらしく純粋にそう言うので、ニックスもリーアも思わず口元に微笑をたたえた。

「嬉しいこと言ってくれるなあ、まったく。しかし、ただ会いに来たってだけじゃ味気ないなあ。ティエラ、何か欲しいものでもないか? 食べたいものとか」

「えっ! いいの!?」

「ああ。あんまり高いものじゃなければなんだっていいぞ」

「うーん……あっそうだ! だったら――」

 ティエラは悪戯を思いついたというように意味ありげな笑みを浮かべて一瞬後、「それが欲しいな!」と言ってニックスの左手へと飛び掛かり、その手に持っていたリンゴを奪い取った。

「あっ。おい!」

 リンゴを取り戻そうと近寄ってくるニックスを避けつつ、ティエラはリンゴに口を付けて一口かじると、「間接キスだね、ニックス」と照れ笑いを浮かばせながら言った。ちなみに、傍らでリーアはその様子に驚いたためか、「あっ」と声を上げて同時、口元を隠すように両手で覆っていた。

「あんまりませたこと言うなよ。それに、勝手に取るんじゃないよ、まったく」

 言いながらティエラの額をニックスは軽く小突いてやる。彼女は額を押さえながら、

「うー、ごめんね。でも、美味しそうだったから」と呟いて返し、再びリンゴをかじった。

「それなら、食いかけなんかじゃなくて新しいのを買ってやったのに」

「そうじゃなくて。ニックスの食べてるリンゴが美味しそうだったの」

「だから、そのリンゴを売っていた店で買ってやるのに」

「うーん……それも違うんだけど。なんだろうね?」

 ティエラは首を傾げながらそう言った。本人もよく理解していない様子だった。

「いや、俺に聞かれても。リーアは意味分かるか?」

 振り向きざまニックスがそう尋ねると、「え?」と当の本人は虚を突かれたというように戸惑いながら宙で視線を泳がせて「私にもちょっと分からないかな」と返した。そうして、小さく「でも、少し妬けちゃうかな」と続けて呟いた。思惑通り誰にも聞こえてはいなかった。

「まあ大人びたい年頃なんだろうな」

「そうなのかもね。あっ、そうだ。ニックス?」

「なに?」

「ちょっとティエラのこと任せてもいいかな?」

「いいけど、どうして?」

「お父さんに買い出しを頼まれてたんだけど、ティエラにとっては面白いことでもないから。私に付いて来ても暇させちゃうだろうし。だから、いいかな?」

「オーケー、全然問題ない。こっちとしてもティエラは、俺を楽しませてくれるいい話し相手になってくれるしな。ティエラもいいか?」

 ニックスが聞くと、ティエラはリンゴから口を離して、「うん! リーアとはまた後で遊ぶもんね?」とリーアを見上げた。

 リーアは「そうだね」とティエラに微笑を返すと、ニックスの方へと視線を転じ、

「任せるね。三時になったら一回お店まで来てくれる?」

「分かった。それじゃまた後で」

「うん、また後で」

そう返事をするとリーアは、ニックス達に背を向けて歩き始めた。

 リーアと別れたニックスとティエラは、街から少し離れた平原へと赴いた。ニックスが五日前にも訪れた場所だ。いつもの木陰の下、緩やかな傾斜になっている芝原に並んで寝そべり、談話を楽しむ。ニックスとティエラが二人で居るときには、しばしばそういう機会があった。そうして、決まってティエラが自身の近況を嬉しそうにニックスに聞かせる。父親について、母親について、学校生活について、さらにはクラスメートの幼い恋愛事情について等々、ティエラは饒舌に喋っていた。ニックスはそういった何気ない日常の話を聞くことが好きだったので、苦にもせず相槌を打ちながら、時たまにからかいながら、彼女の話に耳をそばだてていた。そうしていくつかの話題が過ぎてゆき、次なる話題はつい最近ティエラが住む街で起こった出来事へと移っていった。

「この前、街でみんなが楽しそうに騒いでたの。本当にすごかったんだよ! お祭りみたいで!」

仰向けの状態から体を半回転させて、両肘を立ててうつ伏せ気味になったティエラは、上体を起こしているニックスを見上げていた。

「へえ、どうして?」

「新しい人が来たんだって」

「新しい人? 珍しい――ん? ああ、そうだった」

 言いながらニックスはあることを思い出していた。ティエラが住んでいる街、その街は『彼女』が住んでいる所でもあるということを。

「なあ、ティエラ?」

「なあに?」

「その新しい人ってもしかして、女か?」

「そうだよ」

「見たことあるのか?」

「うん、見たよ」

「それじゃあええと……あっ、そうだ。帽子を被ってなかったか?」

「被ってたよ」

 ニックスはティエラの返答に幾度か頷くと、一度咳払いをしてから、

「じゃあ、その、胸は大きくなかったか? 服の上から見ても分かるぐらいに」と頬を掻きながら尋ねた。

「うーん……うん。すっごく大きかったよ!」

「ビンゴ!」

 ニックスは確証を得た。

「ニックス、知ってるの?」

「ああ、知り合いだ」

 ティエラはにやつきながら、

「ひょっとして恋人?」

「違う違う。ただの友達だよ」

 正確には友達ともちょっとちがうのかもしれないが。ニックスは心中で呟いた。

友達といえば、ニックスにはもうひとつ思い出すことがあった。それはニックスが懸念していたある問題についてだ。ティエラならきっと適任だろうとニックスは考えた。

「ティエラ?」

「んー?」

「ひとつお願いを聞いてくれないか?」


 三時頃、ニックスとティエラが店の中に入ると、既に帰宅していたリーアが、「おかえり」と二人を出迎えた。

「ただいまー!」

「フランクの親っさんは?」

「バークスの見送りに行ったよ。ティエラが戻って来たら連れてこいって」

 リーアがそう言うと、ティエラは不承気に唇を尖らせて、

「えー! もう帰るの? まだリーアと遊んでないのに」

「でも暗くなったら大変でしょう? ティエラのお父さんも困っちゃうだろうし。今度ちゃんと遊んであげるから。ね?」

ヘイムスは舗装された車道や夜道を照らす電灯などは未だ無く、インフラの整備はまだまだ未熟だった。なので、街近辺ならばともかく、街から遠く離れた場所で夜頃、車を運転するということはそれ自体、大いに事故の元となりえるのだ。

「うん……分かった」

 ティエラは俯き加減で頷いた。

「ニックスもありがと。ティエラは連れて行くから」

「ああうん。まあ俺が行くわけにもいかないからな」

 言いながらニックスは、ティエラと視線を合わせるために屈んだ。

「元気でな、ティエラ」

「ニックスもね!」

「もちろんさ。それとさっき言ったお願いについても頼んだからな?」

 ニックスが声を潜めてそう聞くと、「ええと?」とティエラは顎に指を当てて首を傾げた。しかし一瞬後、彼女は幾度か頷くと、両手を腰に当てながら胸を張り、「ふふん、任せて!」と良い、ニックスに自信の満ちた笑みを見せつけた。

「どうしたのティエラ? 早くいこ」

 リーアは既に店の出入り口でドアノブに手を掛けながらそう言った。

「うん。それじゃあまたね」

「ああ、またな」

 ニックスに手を振ると、ティエラは心持ち駆けてリーアに続き、外へと出て行った。彼女たちと入れ替わる形でフランクが店へと入ってきた。

「あれ? ニックスじゃねえか」

「やあ、親っさん」

「ほほう、パンでも買いに来たか。最近来なかったし、俺のパンの味が恋しくなったんだろう?」

「まあ、恋しいといえば恋しいけどさ。でも、ここに来たのはティエラを送り届けたからなんだ」

「そうなのか?……バークスの奴が来るのを引き留めて正解だったな」

 ニックスは顔をしかめながら、

「おいおい、冗談じゃないよ。恐ろしいな、まったく」

「危うく惨事だったな」

 二人は同時に嘆息を吐いた。

 バークスは娘であるティエラのことを溺愛していた。一度、ニックスがティエラと二人で歩いているところをバークスが目撃した際には、ニックスの胸ぐらをつかみ上げ、鬼のような形相で凄んで見せた。近くに居たフランクによってその場は収められたが、はたしてその助けが少しでも遅れていたらとそんな仮定を考えるたび、ニックスは体を身震いさせる。

「バークスって俺のこと誤解したままなんだろう?」

「ティエラと二人で居たというのがまずかったのかもな。完全に敵視してるぜ」

「はあ。娘ができたら皆あんな感じになるのか?」

「一緒くたに考えるな。人それぞれだろう。現に、お前とリーアが店に二人で居た時、俺がお前を殴りつけたことなんてあったか?」

「殴りつけられてたらそもそもこの店の敷居なんて跨げないさ。しかし、結局のところどういう接し方が正しいかなんてのは分からないんだよな。勉強になるよ」

「感心なこった。そんな勉強熱心なお前に、ほら、売れ残りだが持ってけ」

 フランクはそう言って、ビニールに包まれた食パン一斤を掴んで、ニックスに差し出した。

「売れ残りなのか?」

「売れ残りさ。だから貰ってやってくれないか?」

「なら仕方ないな。貰っておくよ」

 ニックスが突き出した手の上に、フランクはパンを載せる。

「そういえば、ニックス知ってるか? 空からのお客さんのこと」

「ヘリとパラシュートか?」

「耳が早いじゃないか」

「俺の知り合いが見たんだとさ」

「なんでも――」

 その先の事実はニックスが知らないことで、知りたくもないことだった。

「浜辺に降りたんだってな」

 ニックスは不意に表情を隠すように顔を手で覆いながら、「どうして俺に?」と取り繕うようにフランクに尋ねる。

「ん? いや、自治会に顔出した時、パラシュートの残骸はどうなっているかって話になってな。処理するなら人手も必要になるだろうし、だからお前も暇なら手伝ってやって欲しいと思ってさ」

「そう、そういうことか。分かった。パンありがとな」

 そう言いながらニックスは、フランクに背を向けて店の出入り口に歩み寄っていた。

「また来いよ」

 フランクの言葉を耳に入れる前にニックスは逃げるように店を出ていた。


 フランクのパン屋を出たニックスは、真っ直ぐアパートの自宅へと帰ってきた。貰ったパンを台所に置くと、ニックスは居間で仰向けに寝転がり、物思いに耽る。

 パラシュートで来たなんて普通じゃない。浜辺に降りてきた奴は二アナの関係者なのか?俺を捕まえに来たのか? 相手が二アナならそうだろう。なら、このまま問題から逃げたとしても向こうから仕掛けてくる可能性は十分にある。寝込みを襲われるかもしれない。だったら、一応様子を見に行くか? 勿論勘違いであれば、それに越したことは無いだろうし。

 そこまで逡巡してニックスは寝返りを打ち、目を閉じた。心中では馬鹿馬鹿しさを覚えていた。ニックス自身、自分が特異な能力を持っているということも、それを付け狙う組織があるということも全く嘘だと思っているわけではないが、どこかで軽視していた。一度目が起きたからといって二度目はあるものだろうか。偶然だったのではなかろうか。しかし、可能性はある。自分の目の前に再びネオーネのような男が現れる可能性はある。その漠然とした認識がここ最近、ニックスの心中に霞がかるような不安と恐怖を刻々と醸し出していた。それはニックスにとってとてつもなく鬱陶しく感ぜられるものだった。

「あー、くそっ!」

 目を開けてニックスは弾かれたように立ち上がった。そうして、ケータイをポケットに滑り込ませると、駆けるように部屋を出た。

 確認するだけだ、ただの確認。ニックスは廊下を早足で歩きながら心中で呟いた。


 セイネイでは朝陽が水平線から登ってきて、夕陽は地平線へと沈んでいく。傾いた太陽はとっくに海から離れ、西日によってその表面が赤く照らされていた

 再び家を出たニックスは寄り道をした後、浜辺までやって来た。海辺を沿うように歩いているとニックスは一人の男を見かけた。

男は上半身裸で砂浜に流れ着いた流木に座っていた。その傍らには、濡れた衣服の掛けられた長い棒が砂地と流木の表面を支えにして斜めに据えられている。棒は物干し竿というには些か装飾が過多だった。流木から幾らか離れたところにパラシュートの残骸と思しき物もあった。

「おい、アンタ」

 ニックスは男に呼びかけた。すると、まもなく彼はニックスの方へと顔を振り向かせた。

「アンタ、あそこから来たんだな?」

 ニックスは言いながら、人差し指で空を指し示した。

「ああ、そうだ。風船括り付けてな。場所が悪くて、服が濡れちまったんだ」と男は答えた。

「その風船とやらはどうするんだ? 使ったおもちゃは片づけるなんてこと良い子ならちゃんと分かってるよな?」

 男は残骸を見やると、髪を掻いた。

「あー……分かってるさ。後で何とか処理する。それに長居するつもりもないから安心――ん?」

 再び視線をニックスへと転じた時だった。男はニックスについて見定めようと、目を細めて全身を睨め回し始めた。

「なんだ?」

「いや、見たことある顔だと思ってな」

「気のせいじゃないか? こっちはアンタの顔なんて見たことも無いな」

「ああ、そうだろうな。なにせ俺は写真越しに見たことがあるんだ」

 自分の思考整理のために男はそう呟いていた。ややあってから「ああ、間違いない。知ってるよ」と言いつつ流木から立ち上がる。男は不敵な笑みを浮かべていた。

「お前、ニックス・ハットか」

 ニックスは何も答えない。自分の知らない男が自分のことを知っているという状況に眉を動かすこともない。

「ネオーネ・ワンクー、知ってるだろ?」

 ニックスは空を仰いだ。男がネオーネの名前を口にしたことを驚かなかった。自分の名前を知られている時点でなんとなく予想できることだったからだ。

 ニックスは目を閉じ、一度大きく深呼吸した。そうして一連の動作を終えると、視線を再び男の方へと転じた。呆れたような、諦めたような、はたまた憑き物が取れたような表情だった。

「近頃、変なことが起きれば全部自分に繋がってくるんじゃないかと思っていたんだが、どうやら参ったことにもその通りらしい。……お前、二アナの刺客なんだな?」

 男は上機嫌に指を鳴らすと、ニックスに両手の人差し指を向けて、

「イエス! そうしてアンタの答えもイエス! お前がネオーネを倒したんだな?」

「ああ、そうだな」

「やっぱりか。アイツはやっぱりそういう奴だもんな、約束は守るはずだもんな」

「何のはな――」

「こっちの話! お前は気にしなくて結構さ!」

 男は棒に掛けられていたシャツを掴み、勢いをつけてそれを羽織った。

「チッ、まだ生乾きだ。肌着は、まあいいか」

「で? やっぱりそういう方向なのか?」

 そう聞きながらニックスは、すでに軽く拳を突き出して身構えていた。

「もちろん。しかし、まずは名乗ろう。俺はイング。イング・ミスティ。変に嘗められて慢心されちまっても面白くないから、先に言っておくがよ」

「なんだ?」

「俺はネオーネの好敵手だったんだぜ。奴とは勝ちも負けも無い闘いを幾度となく繰り返したもんだ」

 イングは、衣服を掛けていた棒を手に取った。まだ掛かっていた肌着は流木の上に落ちる。

「あいつの? 勘弁してくれ、まったく。こっちは素人なんだよ、一応」

「何を言う。ネオーネを挫いたお前は少なくともこの俺に勝るとも劣らない実力なのは確かなんだぜ」

「アイツに勝ったのだって偶然――」

「偶然であの男が膝を折るかあ! 」

 男はそう叫ぶと、差し渡し一メートル七十センチの棒を片手遣いでなんなく一回転させた後、その先端をニックスへと向けやった。

「アイツはお前の手で負かされたんだ。それに、お前だって自分が普通じゃないということはとっくに分かっているんだろう?」

 イングは棒の先端をニックスに向けたまま、ニックスはイングを睨み付けたまま、両者は海辺から離れていく。

「悪いが、俺はこのロッドを使わせてもらう。棒術しか取り柄が無いんでな。アンタも何か使っていいぜ」

 イングのその提案をニックスは鼻で笑い、

「お前からの断りなんて必要ない。元々、そこまで正々堂々とお前たちに立ち合うつもりは毛頭無いさ。俺はすでに得物を持っている。だが、お披露目はまだだ。楽しみにしてな」

「ほう。てことはしばらく素手でやるのか?」

「不服か?」

「そんなことはない。ネオーネの奴だって俺との闘いに得物を使うことは無かった。それでも俺はアイツに勝ち切ることは出来なかった」

「あっそ。どうでもいい話になって来たところだし、そろそろ……始めるか!」

 そう言ってニックスは拳を固く握った。それを確認したイングは頷いた後、ニックスの方へと走りだしてきた。

「ならば、先攻はもらうぞ!」

 イングは棒をニックスの腹部へと突き出してきた。ニックスは上体を反らすことでその攻撃を躱す。しかし、イングは素早くもう一撃、二撃と同じ攻撃をニックスが逃げた先に繰り返してくる。一撃目は掠るだけで済んだが、二撃目の攻撃は直撃を受けた。ニックスは堪えることもできたが、続く攻撃を予想して、わざと後方へ飛び退いた。

なんとか足で着地したニックスは呼吸を整えようとする。しかし間もなく、飛び掛かってきたイングが上方からニックスを真っ二つにせんとばかりに棒を降り下ろしてきた。ニックスは後ずさりして躱そうとする。結果、棒は何もない砂地を叩いた。しかしそのまま、半円を描くような軌道で砂地を削ってゆく。その軌道はニックスの足元を捉えていた。ニックスの右足の脛に一撃が加えられた。幸いなことに左足は棒の軌道から僅か後方に構えていたので巻き込まれることは無く、転倒を避けることは出来た。だが、イングからすればそれで十分だった。相手がよろめくだけで十分だった。彼は、半円で留めるつもりだった棒の軌道を体ごと回しながら、さらに走らせて一回転させると、勢いそのままにニックスの上体、特に胸から上を狙って、棒を振り上げた。

次の瞬間、ニックスは後方遥かまで宙を滑っていった。そうしてそのまま、当然の帰結を迎え、砂地に背を打ち付けた。

決着は着いたのか。イングはそう思っていなかった。棒が捉えたのはニックスの胸元、そして両碗だった。瞬時にニックスが防御するために繰り出したその両腕をイングは目撃していたのだ。

「チッ。ニックス、悪くないじゃないか。素人臭い動きなのに時折冴えた踊りを見せるもんだから捉えづらくてかなわんぜ」

「うれしくないんだよ、くそっ。……ったく痛いなあ、おい」

 呻き声を上げながら、仰向けの体を回してニックスはうつ伏せの状態になった。イングの位置からは彼の背と、体の右側面しか窺うことはできない。

 ニックスは顔だけをイングに振り向けて、

「やっぱり普通じゃないんだな、お前も。ネオーネと同様に。その棒に刃でも仕込まれてたら、俺はとっくに死んでたろうし」

「無粋さ、そんなものは。棒術というのはあくまで棒を振るうことが前提だ。刃やら針を込んだ時点で技を生かせなくなる」

「相手を倒すために必要なのは技だけってことか?」

「そうとも。それが俺の信条でもあるんでな。技を繰り出すことを第一に考えた時、その妨げになるかもしれない要素は徹底的に排除していく。余裕が必要なのさ」

「アンタもやっぱりそうなんだな。ネオーネの奴もそうだったんだ。あいつも足以外は使わなかったんだよ」

「当たり前だな」

「そう、それが当たり前だと言えるお前たちを正直、俺は尊敬している。芸達者で羨ましい。俺にはそんな取り柄は無いからな」

「よく言うぜ。皮肉のつもりか?」

 よし、準備完了。ニックスは心中でそう呟いた。そして、勢いをつけて立ち上がり、

「痛みも引いてきた。ここからが逆転劇さ!」と叫び、不敵な笑みをイングに見せつける。すると、イングもまた喜悦を多分に含ませた笑みをニックスに返した。

「おいおい、少しやりすぎたと思ってすらいたのに。まったくお前は素晴らしいじゃないか。流石は勝利に愛された男だ。楽しませてくれる」

 イングは両手で棒を持ち直す。

「今度はこっちから行くぞ!」

 ニックスはそう叫び、イングの下へと駆けていく。

「真っ直ぐ来るか! でも何も無きゃそれが一番の正攻法だよな!」

「そうさ! 無駄な遠回りなら、する必要なんて無いんだよ!」

 イングは先程と同じように腹部を狙って、棒を突き出してきた。

 躱しても無駄だ。奴はどのみち瞬時に次の一撃を放ってくるんだ。ニックスはそう思った。だから、ニックスは。

「なにっ!?」

ニックスは繰り出されたその刺突を重ねた両手のひらで受け止めた。イングの攻撃手段、そして防御手段を一時絶ったと判断してニックスは彼の足を蹴ろうとする。イングはそのニックスの攻撃を避けるために後方へ僅かに飛び退いた。

「もらった!」

ニックスはそれを好機と捉え、棒を掴んで引っ張ろうとする。たまらず棒を手放していると思ったからだ。しかし、それは浅はかな目論見だった。棒は微動だにしなかったのだ。イングは未だその手にしっかりと棒を握っていた。

「そんな簡単には渡せねえな!」

 そう言うとイングは力を込めて、棒を掴んでいるニックスの手を引きはがそうとする。ニックスは掴んだまま懸命に堪えようとしたが、自分の体すら揺さぶられるほどのイングの腕力に危機感を覚えて、自ら手放し、後退する。

「賢明だ。俺の武器を奪おうとしたことも、そして呆気なく手放したこともな。放さなかったらこれで決着だったかもな」

「分かってるさ、そんなこと」

「でも、どのみちという気もするな。時たま驚くようなことをしてくるが、結局下がるだけなんじゃあ勝つことはできないぜ」

「さあ? どうかな?」

「勝算があるのか? いや、きっとあるんだろうな。だったら、俺も次で終わらせるつもりで行くぞ!」

 イングはニックスの方へ駆けて、彼の頭部に棒を振り下ろしてくる。それをニックスは上体を斜めに逸らせて避ける。棒はそのまま地面を叩くこともなく、それ以前に軌道を転換させて、横薙ぎに再びニックスへと攻撃を繰り出してくる。ニックスはそれを左腕で防御する。防御されたことで弾かれた棒、イングはその勢いをも利用して逆側の先端でニックスの右上半身を攻めてくる。反応が遅れたニックスは、防ぐことも出来ずに右の下腹部を打たれた。イングは攻撃の手を休めない。棒は再び振り上げられて、先と同様にそのまま振り下ろされる。ニックスはまたも対応することが出来ずに左肩を打たれる。その時ニックスに大きな隙が出来た。

「そのガラ空きの胴に、大きめのプレゼントだ!」

イングはその隙を見逃さず、棒を一度手放して宙に浮かせると、それを地に落とすことなく掴み取り、地面と平行になるように構え直した。

「なめるなっ!」

その瞬間を攻めの機会と見てニックスは拳を繰り出す。イングの胸部を狙っていた。しかし、

「甘い!」

イングは、突き出されたニックスの腕を断ち切らんとするように棒を掲げて、その攻撃を防ぐ。腕に走った激痛にニックスは呻き声を上げる。その拍子、露わになったニックスの胸部にイングは棒を押し付けるようにして横一線の一撃を加えた。ニックスはよろけながら後方に下がっていき、砂地に背中から倒れ込む。

「間髪入れない。もう終わらせるぞ!」

 駆け寄ってきたイングはニックスの腹部めがけて棒を突き立ててくる。すると、ニックスは片方の口角を上げて、「ここからが俺の勝ち筋さ」と小さく呟くと、その一撃を転がるようにして避け、素早く立ち上がった。その時、砂塵が巻き上がった。

「オオオッ!」

ニックスがそう掛け声を上げた瞬間だった。突然、イングの上体がニックスの方へと吸い寄せられていったのだ。正確には彼の腕が、彼の手が、いや、彼の得物が吸い寄せられていたのだ。

「クソッ! どういう――」

「イング、これが俺の勝利への一手だ!」

ニックスは、目の前にまでやってきたイングの顔面を思い切り殴りつけた。

「ぐっ、くう!」

悲鳴を上げながらイングは後ずさりした。その手には何も握られていない。彼の得物はニックスの足元に転がっていた。

「な、何が起こったんだ!?」

 イングは血の混じった唾を吐き捨て、ニックスの周辺に目を向けた。異変はニックスの手元にあった。彼は縄を手にしていたのだ。そして、その縄の先にイングの得物は括り付けられていた。

「図ったのか?」

 ニックスは含み笑いしながら、

「仕方ない。図らなきゃお前には勝てないだろ?」

「……なるほど。そいつを埋めていたってことか?」

 ニックスの手元の縄を指差しながら、イングは言った。

「ああ、最初にお前が俺を吹っ飛ばしてくれたときにな」

 言いながらニックスは、足元の砂上に象られている凹状の不恰好な輪っかとその輪っかから伸びる一筋の模様を指差した。輪っかの中心近くに穿たれたような一点もある。

「あの時は縄が肌に食い込んできて痛かった。アンタのおかげで、背中に縄目のタトゥ―が出来ちまったかもな。でも、まさかと思って調達しておいて正解だった」

 ニックスは足元にある棒を踵で後方へと蹴り飛ばした。

「さてどうするんだ、イング? まだ続けるのか?」

 自嘲気味に笑みを浮かべるとイングは両手を上げて、ため息を吐いた。

「ロッドを失った俺は最早片腕をもがれたと同じだ。チンピラ相手なら俺程度の腕っぷしでもなんとかなるが、お前が相手じゃそうもいかない。あれが無くちゃもう勝てる見込みなんてないだろうな。しかし――」

 その言葉とは裏腹にイングは拳を握って、構えを作った。

「それでも、勝負事ははっきりとしたものでないと納得できないんだよ。だから、徒手空拳でも俺はお前に挑むぜ」

一度深呼吸するとニックスもまた縄をほうって、応じるように身構えた。

「まったく、お前らはそうやってやたらと俺を買いかぶるけど。やっぱり俺は素人なんだ。正直負ける可能性もあると思ってる」

「フン、野郎を慰めてくれるなんて、随分な優男じゃないか。ニックス・ハット!」

 イングはニックスの方へと駆けていった。ニックスも迎え撃つようにイングの方へと駆けていく。

イングはニックスの顔面めがけて拳を放つ。ニックスはイングの腹部を狙って拳を放つ。二つの直線軌道が飛び交う。結果として呻き声を上げたのはイングだけだった。ニックスは屈んでイングの拳を躱していたのだ。

「まだまだ!」

 イングはすぐさまニックスの腹部へと蹴りを放った。

「見え見えだ!」

しかし、右の脇腹に到達する手前で、ニックスはその足を右腕で絡め取っていた。そうして身動きが取れないイングの肩を掴むと、「気を付けろよ? 結構重いからな」と囁き、ニックスは彼にヘッドバットを喰らわせる。

「グウ…まだ、だ!」

一度目は耐え忍び、仰け反ることも無かった。

「まだ、だ……」

二度目も同じだった。三度目も。四度も同じだった。イングは最早声を上げることもなかったが、眼光は未だに射るような鋭さを保っていた。

「クソッ! そろそろ倒れろ!」

そう叫ぶニックス自身、目を眩ませ始めた五度目の激突にして、ようやくイングは怯み、顔を背けた。ニックスは掴んでいた足を手放した。最早彼が何をせずともよかった。

イングが大の字で砂浜に倒れ込んだ。そうしてまもなく「俺の、負けだ」と呟き、満足げに微笑んだ。二人の闘い、その幕が下ろされた。

「お前の勝ちだ、ニックス。まぎれもなくお前は本物だ」

「つまり、まぎれもなく普通ではないってことか?」

「ああ、そうさ。まぎれもなく勝利の権化だぜ、お前は」

 イングは苦し気に一度咳払いをした後、続ける。

「同じような奴を幾度と相手取ってきたが、お前ほどの奴は初めてだ。ネオーネですら俺から得物を奪ったことはなかった」

「邪道で悪かったな。こっちも必死なんだよ」

「いや、そんなことはない。闘いの中で興ってきた知恵を有効に使うというのは間違いなく実力だ。それに、お前は最初に『自分は得物を使う』と俺に宣言していた。恥ずべきことなんてお前はしてないぜ……俺の完敗さ」

「そうかい。アンタも慰めが上手いんだな」

 にやつきながらそう言って、ニックスはイングの傍らに腰を下ろした。

「嘘つけ。俺は自慢じゃないが、女にゃあんまりモテないんだ。慰めやおべっかなんてそんな上等ことが口にできるかよ。お前に汗臭いしな」

 二人は顔を見合わせると、どちらからともなく声上げて笑い始めた。二人の姿は燈色の陽光によって照らし出されていた。

「なあ、イング」

 ひとしきり笑いあった後、イングを見下ろしながら不意にニックスはそう声を掛けた。

「なんだよ」

「聞いてもいいか?」

「命乞いの代わりだ。吐けるもんなら何でも吐くぜ」

 体を起こしたイングは、降参の意を示すように両手を挙げてそう言った。

「お前もネオーネもどうして二アナに協力してるんだ? 胡散臭いとは思わないのか?」

「協力なんてしてない。ニアナの連中はただのクライアントだ。奴らの思惑なんてどうでもいい。それにいつもならともかく、今回お前のところに来たのはあくまで俺の意志によるもんだ」

「ネオーネの仇討ちか?」

「仇? おいおいニックス、俺たちをあまり『人間』として見ようとするな」

「どういう意味だ?」

「俺もネオーネも誰かのためにとか、そんな高尚な信念は持ち合わせていないってことさ。ただのバトル・ジャンキーなんだよ。そういう連中は好物を見付けたら食いつかずにはいられないってだけなんだ。俺なんて特にな」

「好物?」

 ニックスがそう聞き返すとイングはしたり顔になって、「強者だよ」と言った。

「なるほどな。俺は強者だってのか?」

「少なくとも負けた俺からすれば間違いないだろ? 二アナは俺達のような戦闘狂を表、裏の世界かかわらずにスカウトしてくる。動機は両者で符号するからな。まあ俺の場合、根無し草だったからっていうのもあるんだが」

「戦闘狂……ちくしょうめ」

 ニックスは吐き捨てるようにそう呟いた。その呟きから端を発してニックスは嘆きの言葉を零す。

「勘弁してくれ、本当に。お前らみたいなのが毎回来てたら身が持たない。ネオーネにやられた傷だって昨日ようやく治ったばっかりだったのに。それも、いつもいつも一人とは限らない。お前らみたいなのが二人、三人と一斉に来ることがあったら――」

 言葉を紡ぎながらニックスは内から沸々と滾る憤りを抑えることができず、ついに

「チクショウ! どうして俺なんだ!?」と叫んだ。

「お前が特異な存在だからだな」

 イングは冷静ににべもなく事実だけを告げた。ニックスはそのさまに余計苛立って「もう分かってる、そんなことは!」と声を荒げる。

「望んだわけじゃない! 来る日来る日もお前のような奴らがやってきては俺を心の底までびびらせてきやがってさ! 望むわけないだろ!」

「まあ、その点は同情する。でも嘆いたって仕方ないだろう?」

 イングの言葉を聞くと、ニックスは舌打ちして思い切り砂浜に拳を打ち付けた。ニックスの内に発生した憤怒は恐怖の裏返しだった。その証拠に打ち付けた拳は微かに痙攣していた。イングはそれを知ってか、「お前は強い男だよ」と励まし、ニックスの肩に手を置いた。しかしすぐさま、「うるさい!」と叫びながら、ニックスは肩に乗せられた手を払い除けた。

「まあ落ち着けって。お前は事情を知らな過ぎるんだ」

「知らないことだって?」

「ああ、そうさ。だから、さっき言った通りお前が知りたいと思っているなら、俺の知る限りでなんでも話してやるよ。お前の取り巻く状況のその熾烈さ、理不尽さを説明してやってもいい」

「状況……」

「要するに二アナの内部事情についてだな。聞くだろう? 慰めくらいにはなるだろうよ」

 乱暴に髪を掻きむしりながらニックスは、「話せよ」と返した。頷いてイングは語り出す。

「連中はお前たちを被験体として欲しがっている。何らかの実験をしたがってるようだが、奴らは一枚岩じゃない。お前らを捕らえた矢先、それぞれの思惑でそれぞれの目的のために利用する。俺から見ればそのほとんどが碌でもないことだ。お前たちを捕らえるために二アナは世界中から色んな分野の優秀な人材を集める。思いのほか簡単に集まる。何故だか分かるか?」

 ニックスはかぶりを振った。

「そういう奴らはみんな、お前たちが嫌いだから、疎ましいから、お前たちはこの世界に存在してはいけないと思っているからだよ。だから、駆逐しようとしてるのさ。ほら、人間その手の情動には流され易いだろ?」

 ニックスは苛立ったように片眉を吊上げながら、

「どうして、俺達を?」

「お前たちは人の尊厳を踏みにじるからなんだとさ。俺達は競争を経た勝者だ。でもお前たちはそれを無視して、勝利に至ることができる。努力どころか持って生まれた才能すら否定する。見る人間によっては化け物に見えるんだとか。二アナもそのことを分かっているから、スカウトする時の前口上は決まってこうだ」

 イングは大げさに手を広げながら、

「『この世界で二番目以下なあなたに求む』ってな。そうやってそそのかすんだよ」

 ニックスは下唇を噛んだ。そんな物言いに踊らされ、真に受けた高慢な人間に自分が狙われているのだと思うと、悔しさとやるせなさで泣き出してしまいそうだった。

「二アナは被検体としてお前たちを求める。そのためにお前たちのことを嫌う連中に頼んで捕まえさせる。驚くほどに利害は一致しているな」

 イングは言葉を区切ると、ニックスをおもむろに見やった。

「世界がお前らを嫌っている。他方、世界がお前らを求めてもいる。お前は殊更にな。だから囚われる、ニックス・ハットは自身の業に囚われる。勝者なら誰もが抱いたことのある業だ。俺やネオーネもそうだった。まあ俺達のそれとは比べ物にもならないがな、お前のは」

「勝者の業……。一度負ければ長く飼われていずれ悶死。勝ち続けても二アナの連中の怒りを買うだけで結局途方も無く戦い続ける」

「そうだな。その認識で正しい」

 正しいだって? ニックスは心中でそう呟くと、イングを睨め付け、「ふざけるなっ!」と激昂する。

「得体の知れない期待やら嫉妬を押し付けた挙句、これからずっと俺に、俺の人生に! 奴らは干渉してくるってのか!?」

「それは避けられないだろうな」

 イングはあくまで淡々と脚色無しに事実だけを告げる。態度でもそれを顕示している。だからこそ、ニックスはどうしようもない恐怖を感じた。彼は目を伏せた。泣き出したいと思っている自分を抑えこもうとしていたのだ。

「二アナについて俺が知ってるのはこれぐらいさ」

「……」

「さてニックス・ハット、話を聞いたお前はこれからどうするつもりなんだ? 敵は必ずまた来るんだぜ?」

ニックスは目を閉じて考える。

最初に二アナと自分について。次に二アナの刺客と自分について。三番目に、自分が守るべき矜持とそのために果たすべき事柄について。そして最後には、導かれた決意を心に浸透させて、決心を作り上げること。

ニックスは目を開けた。その拍子、「結論は出たか?」とイングは含み笑いでニックスに尋ねる。

「ああ。俺は倒す。倒し続ける」

「そうでなくちゃあな」

 イングは微笑んで、膝を叩いた。期待通りの答えだった。

「いや、倒すなんて生ぬるく済ませるつもりは無い。それだけじゃ不十分だ」

「ん?」

 イングはニックスの言うことが理解できず、眉をひそめた。ニックスはそんなイングの様子を微塵も気に掛けず、「滅ぼす」と不意に呟いた。

「あ、え、なんだって?」

「滅ぼしてやる、俺のために。二アナをいや、俺を利用しようとする全てを。その時点でようやく、俺は訳も分からない勝才という業から解放される。勝才はこの世界にとってのまやかしになる」

 イングは唖然とし、驚愕していた。しかし、まもなく声を上げて愉悦を多分に含ませた下品な笑い声を上げながら、

「お前は最高だ! 俺も負かされた甲斐があるってもんさ。予想以上だぜ、その答えはよ! 何がそこまでお前を突き動かすんだ!?」

「夢がある」

「夢だって? 夢があったら人はそこまで大きく言えるのか?」

「知るか。でも、俺には一番重要なことだ。俺の命に張り付いてしまってるぐらいに」

 ニックスは涼しい顔で毅然とそう言った。


 空を薄暗くなり、夕陽の灯火は闇に浸食されていく。夜の気配が近づいてきていた。

「そろそろか」

イングは立ち上がると以前腰座っていた流木へ近寄り、そこに引っ掛かっている肌着を手に取った。

「ニックス、俺はもう行くとするよ」

 イングは振り向きざまニックスにそう告げる。ニックスも立ち上がり、尻に付いた砂粒を払いながらイングの方を向く。

「そうだ。俺の武器はお前にやるよ。もう俺には無用な長物だしな」

「いいのか? いや、そもそも俺に使えるのか?」

「もちろん。素質はあるぜ。戦利品として受け取っとけ。きっと役立つ。そうだろう?」

 イングの言葉はこれからニックスに起こる闘争について暗示していた。そのことを納得してニックスは砂浜に転がる棒へと近寄り、それを拾い上げた。

「イング、アンタはこれからどうするんだ?」

「ずっと血なまぐさい日々を過ごしてたからな。しばらくはこの国で過ごしながら、身の振り方を考えようと思う」

「それでいいのか? もういいのか?」

 イングは眼前で広げた手のひらを交互に見つめ、ややあってから脱力したように両腕を下ろした。

「ああ、もういい。正直少し疲れてたんだよ。だから、ここに来ると決めた時点でもうやめようかと思ってたんだ、今の稼業はさ」

「もしかして、負けると分かってこの国に来たのか?」

「まあな。ネオーネが負けた時点で覚悟はしてたさ。思った通り楽しかったぜ。ありがとう、ニックス。最高の幕切れだった」

 イングはニックスの下に歩み寄り、手を差し出した。応じてニックスは彼の手を握る。

「こっちからすれば迷惑な話だ。もう二度と御免だからな」

「二度目は無いさ、きっと。それじゃあな」

「また……は特別会いたいとは思わないな。だからこれだけ『君に誉れあれ』」

 ニックスはそう言って手を放す。イングは首を傾げながら、

「ん? なんだそれは?」

「まじないさ。どうやら効果は半分かもしれないが」

「どうして?」

「いつか分かるさ。ここで暮らしていればな」

「ふーん、そうかい。まあありがとよ」

そう言ってイングは、振り向きざまバスタオルでも扱うようにして肌着を右肩に掛けながら、ニックスに背を向けて、歩き始めた。その背を見つめながらニックスは心中でほくそ笑み、思った。もし仮にまた会うことがあったら、今度はちゃんと答えてくれよ。

夕陽に向かって行くイングの姿が見えなくなった頃、ニックスはケータイを取り出した。そうして、「念のため相棒に一報入れておくか」と呟き、ケータイを操作し始める。多少口を噤みたいこともあるが、ニアナの刺客が接触してきたということだけでもアサネに伝えようと思っていたのだ。

登録した番号を呼び出し、後はボタンを押す一動作だけ。あと一動作。しかし、ニックスはそこで躊躇った。不意にある迷いが生じてきたのだ。

ニックスはつい先程決心した。自分を利用しようとする全てを敵に回すと。そして問題は、目的が不透明なヴィル機関もその中に含まれるということだった。だから、ニックスは逡巡してしまう。

俺はこれからもアサネを味方として見ることが出来るだろうか?

こんな心づもりでこれからもアサネと接していいのか?

そもそも、もう道が違えてしまっているんじゃないか?

もしかして互いが互いを邪魔することになるんじゃないのか?

 惑う。そしてその果て、彼の心中に止めの決定的な思考が巡った。

 俺はヴィル機関に繋がるアサネ・ニシモトを裏切ることになるのではないのか? それはつまり、彼女と敵同士になるということではないのか?

 ニックスは結局、ケータイをポケットに仕舞いこんだ。

気を落ち着かせるために海の方へと目を向けた際、ニックスはあることに気が付いて、舌打ちした。

「イングの奴、パラシュートの始末忘れてやがる。クソッ」

 ニックスはその哀れな残骸を見ていられず、目を逸らした。まるで鏡を見ているかのように錯覚したからだ。


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