3
朝四時。
今朝のニックスの目覚めは最悪なものだった。昨夜出来た、体中の青あざの所為だ。
「まったく随分痛めつけてくれたもんだ。こっちにだって事情はあるのにさ」
腕をさすりながらニックスは、彼以外誰もいないアパートの一室でぼやいた。
ニックスが朝早くに起きたのは痛みの所為というだけではなかった。彼はこれから仕事のために出掛けようとしていた。
タウンエンジン。ニックスが身を置く組合の名前である。主業務は、セイネイの各商店へ原材料などの荷物を運搬すること。そして、ニックスの仕事は、荷物を然るべき運搬用車両に詰め込むというものだった。その作業は朝早く、あるいは夕方遅くに行われる。
体は何とか動いてくれるな。仕事のことについて考えつつニックスは、欠伸を一つしてから寝床から重い体を起こし、洗面所へと向かった。
洗面所で顔を洗った後、ニックスはふと鏡越しに自分の全身を観察すると、「服を着てりゃ、綺麗な体だ」と自嘲気味な笑みを鏡面に映しながら呟いた。その後、朝食を摂り、身支度を終えた頃には、五時になっていた。いつもよりは遅い身支度だった。
急ぎ足で玄関に向かって行き、ドアを開け放って外に出ると、「いってくるよ」と誰もいない部屋に顔だけを振り向けてニックスは言った。それは長年変わらない彼の習慣だった。
倉庫には段ボール箱の荷物が雑多に収容されていた。タウンエンジンの所有する倉庫。ニックスがその倉庫に入った頃には、もうすでに多くの職員が慌ただしく作業を始めていた。
ニックスも急いでトラックの後ろに付いた。そうして、その場所で渡された荷物をトラックの荷台に次々と容れていく。一台が済むとすぐさま次の車両の後に付いて、同じように作業する。その間、ニックスは何かを考える暇もなくまさしく忙殺状態であった。いつも通りのことだ。全ての作業が終わったのは、八時半ごろだった。
事務所で日当を受け取り、職場の人間たちと軽く談話したあと、帰路に就いて現在十一時、ニックスはアパートの住居に帰ってきた。
寝ぼけ眼を擦りながらニックスはドアノブに手を掛ける。しかしその時、普段は目も向けない、ドア横に設置された郵便受けに入っている小包に気が付いた。
ニックスは乱暴な手つきで郵便受けから小包を取り出しつつ、「なんだ、コレ」とだけ呟いて、部屋のドアを開けた。その小包には宛名どころか消印すらも表記されていなかった。
小包の包装を破りながら、玄関で靴を脱ぎ散らかし、短い廊下を歩いていく。部屋に入った頃には小包の包装を全て剥がされていた。そうして、露わになった長方形のボール紙の箱の蓋に手をやりながら、ニックスは部屋の真ん中に座り込んだ。
箱の中身は緩衝材で埋め尽くされており、その中央に光沢のない黒い正方形がはまっていた。どうにか手のひらに収まる程度の大きさだった。
「何なんだよ、コレ?」
手に取るとニックスは、様々に角度を変えながらそれを観察してみた。表面には何か幾何学的な模様が刻まれていた。しかし、それがどういったものであるのか、ニックスは結局見当もつけられなかったので、好奇心も長続きしなかった。
「誰かの嫌がらせか? こんな変なもの寄越して」
ニックスは手に持っていたそれを緩衝材の上に投げ込み、その場で寝ころんだ。そのまま天井を見つめながら、昨日のことを思い出していた。
高校を卒業したこと。
自分を襲ってきた男たちのこと。
ヴィル機関と二アナのこと。
一晩経って思い起こした事柄たちその全てが、自身の夢の中での出来事だったのではないかとニックスはふと思った。というのも、今朝起きてから現在まで彼の生活は以前とさしたる違いが無かったからだ。
しかし、壁に飾ってある卒業証書が目に入った時、高校を卒業したこと自体は現実だったと思い直させ、寝返りを打った時、体に走った痛みは、昨日何者かと喧嘩をしたという現実を証明していた。
それでは、ヴィル機関だとか二アナだとかは夢の中での出来事だろうかとニックスが考え始めた時、不意にケータイが鳴った。ニックスは緩慢な動作でそれを手に取り、画面に映る番号を確認した。見たことのある番号だった。ボタンを押してケータイを耳に近づける。
「もしもし、ニックスだ」
「あっ、おはようございます。私です。アサネです」
アサネ。その名前を聞いてニックスは昨日起きた出来事の全てが夢ではなかったことをようやく認識した。
「おはよう。そういや掛けるって言ってたな、相棒」
「ええ。今は?」
「問題ない。むしろ電話が来なけれりゃ危うく寝てたところだ」
「そうですか。よかった。ああそういえば、あなたの家に何か変わった物が届いていませんか?」
アサネがそう尋ねると、ニックスは傍らに置いてある箱から正方形のそれを取り出して、手の中で弄ぶ。
「届いたよ。もしかしてこれはアサネからのプレゼントか?」
「一応。といっても私からというよりはヴィル機関からの、という方が正しいんですけどね」
「なんだ、つまらない。で? なんなんだこれ?」
「インカムです」
「インカム? インカムってなんだ」
「そういえば、この国には無いんでしたね。でも説明するより、使って慣れてもらった方がいいかもしれません」
「今持ってるよ、黒い正方形のやつだよな?」
「ええ、それです。角のところに小さな窪みがありますよね?」
「あるな…おお?」
ニックスが正方形の二つの角(対角)それぞれにある窪みの部分を指で押さえた時だった。突然、表面の幾何学模様がひび割れて山のように盛り上がった。
「アサネ、形が変わったんだが」
「底のない四角錐のようになりましたか?」
「なった」
「では、底の部分を耳にあててみて下さい」
「耳に? どっちの?」
「今は右にしましょうか。窪みの付いている角は二つあるはずですが、一方には小さく赤のマーカーがあるので、それを下へ向けて耳にあてて下さい」
ニックスは言われた通りにして、右耳にそれを近づけた。
「何も起らないぞ」
「そのままで上向きになっている窪み部分を押して下さい」
「ふむふむ。おっ? おおっ?」
窪み部分を再び押した瞬間、山のように盛り上がった部分が収縮し、ニックスの耳に張り付くようになった。また、その際、正方形の辺のひとつから細い棒が飛び出してきた。
「ア、アサネ、これは呪いの道具か? よく分からん棒が出てきたと思ったら、耳にくっついてきたぞ」
「大丈夫ですよ。ちゃんと外せますから。外したい時は、マイク――棒を元のところに仕舞った後、上の窪みをもう一度押してください」
「わ、分かった。……ああ本当だ。案外簡単に取れるな」
アサネに教えられた手順に従って操作すると、インカムは元の正方形に戻って、ニックスの耳から離れた。
「で、これはどういうものなんだ?」
「簡単にいえば、手を使わずに電話することが出来る機械というところでしょうか。ヴィル機関特注の物なんです。試してみましょうか」
「うんうん」
そうして、アサネに指示に従い、インカムをそれと一緒に同梱されていたコードでケータイに繋いで、ニックスは再び耳に装着した。
「聞こえますか?」
ニックスの片耳にアサネの声が響いた。
「おお、聞こえる聞こえる。こりゃ便利だ」
「えっ? 何ですか? すみません、マイクをもうちょっと口元に近づけてください」
「おっと、悪い」
ニックスは棒の関節を曲げて、先端に付けられているマイクを口元に近づけた。
「どうだ? 聞こえるか?」
「ええ、しっかりと聞こえてきます」
「ホントに便利なもんだ。それにしてもどうしてこんなものを俺に?」
「そのインカムはヴィル機関の人間、全員が持っているんですよ。あなたはヴィル機関に籍を置いてはいないですが、状況によって、手が塞がれてしまうのは困るだろう思ったので私の方から手配しました」
「あー、どうりで。まるで耳を食らおうとするぐらいに固定されてるわけだ。派手に踊ったところで落ちやしないだろうな」
状況。アサネが発したこの単語を耳に入れた瞬間、ニックスは体のあちこちに浮かぶ青あざからの疼きを強く感じた。
「外出する時もなるべく常備しておいて下さい」
「このサイズなら大した問題じゃないしな。ポケットにも入るし」
「お願いします」
「あー、うん」
ニックスはその時、通話が終わる気配を感じていた。童心から、新しく手に入れたインカムの使い心地をもうしばらく堪能したかった彼は、そのことをつまらないと思った。
「ええと、それで? アサネの方から他に用事はあるか? それともヴィル機関からの言伝とかがあったりは?」
「今のところ差し迫った用事というのは無いですね。大した指示も受けていませんし。今日は確認のために電話しただけですよ」
「そうなのか。ご苦労さん、わざわざ電話してくれるなんて。仕事もあるだろうに」
「いえ、実は今のところやるべき仕事というのが無くて、むしろ暇だったんですよ。あっ、もちろんニアナの動向についてはちゃんと調べていますからね」
「大変そうだな。それって俺のためでもあるんだろ?」
「業務の一部ですから。でもこの国についてはまだ勝手が分からなくて少し困っているんですよ」
そう言ってアサネは、自嘲気味に笑った。
その時、ニックスは彼女が抱いている苦心や苦労というのに触れた気がした。それとともに、自分もまた彼女の、その苦労のおかげで助かったのだと改めて思い直していた。
昨日から世話をされるばかりで、なにか、どうにか返礼するべきではないだろうか。ではアサネに対しては何をすればいいのだろうか。何か助けになれないだろうか。
ニックスは腕を組んで、そのような思考を巡らせていた。その所為で無言となっていたためか、アサネが「どうしました?」とニックスの様子を窺ってきた。
「いや、なんでもない。まあ、外とはちょっと事情が違ったりするかもな。そういや、アサネはこの国に居るんだよな?」
「はい、そうですよ」
「いつからだ?」
「四、いや五日前に。一応セイネイで暮らしていますよ。ただあなたの居る街ではなくもっと北の方の街で、ですけどね」
「ここから北っていうと……ああ、あの街か。急に来たんで、まだ慣れないことも多いんじゃないか?」
生活上での苦労、また苦労だ。ニックスは心中でそう呟くと、再び彼女に対して自分が出来ることはないかと考え始めてしまう。
「そうですね。でもなんとかなりますよ」
弱々しい響きだとニックスは思った。だからこそ、悩み始める。
少なくとも俺はヘイムスについて詳しいし、アサネに何か教えてあげられるのでは。それこそ今からでも、このまま電話越しに彼女の疑問に答えるということもできる。しかし、アイツが求めているのは、疑問の解決というより、近くの街や地域の案内のことだろう。というのも、未だ知らないことを質問するというのは難しいことだからだ。案内、か。案内。
「閃いた!」
ニックスが唐突にそう声を上げたので、アサネは困惑して、「ど、どうしたんですか?」と様子を窺った。
「なあアサネ、この後は暇ってことでいいんだよな?」
「え? はい、そうですけど」
「そうか、よしよし。俺さ、ついさっきから昨日の礼についてどうしようか、と考えていたんだ」
「え、ええと?」
「だからな、俺がヘイムスについて、セイネイについてアサネに紹介するというのはどうだろう? 勝手が分からなくて困っていたんだろう?」
「それは助かりますけど。いいんですか? それにお礼なんて」
「まあ、気にすることは無いさ。俺も暇だったんだ。なあに同じ海沿いの街だし、そんな的外れな案内ってことには、ならないだろうしさ」
「えっ、案内ってどういうことですか?」
アサネがそう尋ねると、ニックスは愉快そうに笑い声を漏らしながら、
「俺とデートしないか、アサネ?」
「今日は天気もいいだろう」
「ええ、そうですね。そよ風も気持ちが良いです」
「そうだろう? この時期の、この時間はいい風が吹くんだよ」
街の通りを歩きながらニックスは、風の来る方に振り向いた。アサネも同じ風を浴びているのだろうか。ニックスはふとそんなことを思った。
午後二時、ニックスはアサネとある約束をしていた。もちろん、アサネにヘイムスのことを案内するために。といっても、二人がそれぞれ住んでいる場所には距離があり、ヘイムスにはタクシーもバスも無く、鉄道も通っていないので直接会うというのは難しかった。当然ニックスもそのことを理解していた。なので、彼はある提案をした。それというのは、電話で彼と話しながら、アサネ自身に彼女の住む街へと実際に足を運んでもらって、理解の難しいことが見付かれば、その都度ニックスに尋ねるというものだった。また、ニックスもインカムの使い心地を試すために外へ出掛ける (アサネを納得させるための口上としての意味合いもあった)。それがニックスの提案した『デート』だった。
「今、私のそばを子どもが走っていきました。ここでは子供もみんな、生き生きとしていますね」
「騒ぐことしか知らないんだよ、子どもってのはさ。俺の住んでるとこの近所にもいっぱい居るよ。うるさくてかなわない」
そう言った矢先、ニックスの前を二人の男児が横切っていった。
「でも、受け入れているんですよね」
「仕方ないことだからな」
「仕方ない、ですか」
アサネは呟きながら、意味あり気に笑っていた。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません。なんとなく不思議だなって思ったんです」
「へえ、そんなもんかい?」
「ええ。通りの商店もにぎやかですね。入り口からでも分かります。服屋さん、八百屋さん、肉屋さん、魚屋さん。それに、惣菜のお店は私にはとても助かりますね」
「俺もよく世話になってるよ」
「気が合いますね」
「ちょっと後ろめたいっていうのも気が合うかな?」
ニックスが笑い声を滲ませながらそう聞くと、アサネも小さく笑い声を返した。
「そうですね。自分では中々難しいので」
「そんなアサネにひとつ役立つ情報を。この国じゃ、パン類が人気で、どこの店も特に力を入れてるんだ。だから、外れを引くこともあまりないし、困ったら取りあえずパンを買うといい。俺の住む街のパン屋も旨いものを出すしな」
「憶えておきます。そういえば、穀物専売のお店の品目に『米』ってあったんですけど。お米も普通に売っているんですね」
「昔、アジア人がこの国へと来たときに米料理を広めた影響だな。オニギリの店なんてのもあるらしい」
「へえ、おにぎりもあるんですね」
「ニッポンの料理だろ? 確か。俺が知らないだけで他にもニッポンの料理を出してくれるとこがあるかもな」
「そうですね。ん?はい。ここに来たのはつい最近で」
ニックスの耳に届いているアサネの声が少し遠くなった。
「いいんですか? あ、ありがとうございます」
その言葉はニックスに対して向けられたものではなかった。
「どうした?」
「いえ、お店の女主人さんに声をかけられたんです。見ない顔だねって」
「まあ、結構珍しいだろうしな。この国じゃあ、誰かが移住してくるなんてのは滅多にないから」
「そうですか。でもどうしてでしょうね。なぜか、トマトを一個くれたんです」
「一個? ふむ、だったらその場で食うのが礼儀だな」
「え?」
「一個だけもらったんだろ?」
「はい、そうですけど。一個だけだなんてそんな言い方は――」
「いやいや、意味があるんだよ。トマト、その場で食べてみな」
「ここで、ですか? でも……」
「いいから、いいから。そうそう、ポイントはな、味の感想をちゃんと表情で示して、くれた奴に見せつけるようにしながら食うことだ。いいな?」
「わ、分かりました。ちょっと恥ずかしいけどやってみます」
一瞬後、アサネの吐息とみずみずしいトマトの弾ける音がニックスの耳に届いた。そのあとアサネの声が再び遠のいた。
しばらくしてから、「あのう」とアサネが電話口に声を向けてきた。
「おう、どうだった?」
「えっと、トマトが三つに増えました」
「そうかそうか。トマト、美味かったんだ?」
「ええ、とても美味しかったです。でも、どうしてまたくれたんでしょう? 分かりますか?」
「ん、そりゃ分かるよ」
「どういう意味なんですか?」
「店の主人がお前にトマトをやったのは、自慢のためなのさ」
「自慢?」
「新顔のお前に自分は美味いものを作っているって自慢したかったんだ。トマトを他の店で買う位ならこの店で買えばいいじゃないかって風にな。この国じゃあ、新しい奴が来るたびにそんなことをするんだ。俺らからすれば不意に訪れてくるイベントともいえるな。それでお前が美味そうに食ってるのを見せてやったんで、気を良くして土産をくれたんだよ。店側からすれば美味さのアピールはいい宣伝にもなるわけだしな」
「よく分かりませんけど、そんなものなんですかね。……あっ、どうもありがとうございます」
アサネが誰かへと向けた謝辞の言葉を聞いて、ニックスは思わずにやつきながら、
「次は何を貰ったんだ?」
「バナナを貰いました」
「一本?」
「……ええ、一本です」
その後、電話口のアサネの声は遠のき、近づきというのを幾度か繰り返した。遠のく度にアサネは一々謝意の言葉を相手に伝えているのが、近づく度に吐息と咀嚼音がニックスの耳に届いてきた。ある程度その回数が募っていくと、ニックスは段々と堪え切れなくなって思わず口元から笑い声を漏らしていた。それは可笑しさからきた一方、ある種の安心感からくるものでもあった。アサネ自身は気付いていなかったが、ニックスはインカム越しに聞こえるどんどんと高まる街の通りの喧騒、その空気を作り出したのが彼女であることに気付いていた。それはまさしく祭りのようであった。
「もうお腹いっぱいです。色々貰って腕も重いですし」
逃げるように街を這い出た頃、アサネはぼやくようにそう言った。
「すっかり街の人気者じゃないか」
ニックスもまた街を出て平原を歩いていた。昨日ネオーネと闘った田園からほど近い場所だった。
「からかわないでくださいよ。きっと新参者だから珍しいってだけでしょう」
「新参者を珍しがるのは確かだが、普通はそこまでじゃないさ。せいぜい二、三件ぐらいなもんだ。人によっちゃ一件が普通だろう」
「そうなんですか? 食べ物以外に帽子をくれた人もいましたけど」
「へえ、食べ物以外というのはあんまり聞かないんだが、お前すごいなあ」
「偶然でしょう。でも、帽子は助かりますね。この帽子つばも広いですし。私出掛けるときは大抵帽子を被るんですよ。日光が少し苦手なので」
「日光か」
ニックスはそう呟きながら、空を見上げた。陽光に眩しさを感じたが、手をかざすほどではなかった。
「これからはもっと酷くなるだろうな」
「そうなんですか?」
「ああ。暖かくなったと思ったら、五月からは夏真っ盛りさ。涼しくなるのは十月くらいになってからかな」
「ということは、もうすぐ夏なんですね」
「早いもんだといつも思うよ。この前まで冬だったのに」
「服装のことも考えなくちゃいけませんね」
「だからって、あんまり薄っぺらい服は着るなよ? ここの夜は夏でも結構冷えるからなあ」
「そうですね。もし風邪でも引いたら大変ですしね」
ニックスは、アサネのその言葉でなんとなしにひとつの疑問を思いついた。
風邪でも引いたら大変。アサネが言ったそれは確かなことであるが、しかしその意味合いというのは二つある。ひとつは体調不全。そして、もうひとつは自分の世話についてだ。ニックスの場合風邪を引くと、後者の方を問題視する。なぜなら、彼はアパートで一人暮らしだからだ。
「アサネ、聞いてもいいか?」
「なんですか?」
「お前、ここには家族と来てるのか?」
「……どうして急にそんなことを?」
ニックスが尋ねると、ややあってからアサネが怪訝そうに聞き返してきた。その返答から感じられた不穏当さにニックスはうろたえた。
「あー、いや、ちょっと気になってさ。それに、俺が言うのもなんだけど、ここは辺鄙なところだろう? 外との連絡方法も限られているし。だから、な」
ニックスはあえて核心を突くような言葉を避けていた。アサネの答えは最早分かったように感じていたからだ。
「家族は日本に居ますよ」
「……そうか」
ニックスが予想した通りの返答だった。
「お前がヘイムスに居ることは?」
「ここに来ることは告げていないんです」
「告げてない? どうして?」
「変な心配をかけさせたくなかったからです。留学するって名目で外国へ行くっていうことは伝えたんですけどね」
「つまりお前の両親は、今アサネがどんなことをしているのかまったく知らない?」
「そうですね」
「いいのか?」
「大丈夫ですよ。連絡だってたまに取っていますし」
「大丈夫? どうだかな、嘘は自分の孤独感を際立たせるもんだ」
自分でも気づかぬうちに、ニックスはそんなことを口にしていた。。
「分かったようなこと言わないでください」
「家族に事情を話せないのはヴィル機関からの要求か?」
「いえ。違い、ます」
嘘だ。アサネの否定、その弱々しい響きからニックスは直感した。しかし、「違いますからね」とアサネは念を押すように今度は語気を強めて言った。ニックスはその瞬間、はと我に返った。
「わ、悪い。悪かった。踏み入ったことを聞いたな。こんなことを聞くつもりじゃなかったんだ、本当に。好奇心とかでもなくてさ」
「……はい、分かってます」
アサネは投げやり気味な相槌を打った。その様子から、ニックスはここで話を終わらせてしまっては自分が本当に言いたかったことについて誤解されると危惧して、「心配だったから、さ」と呟き、アサネが「なんですか?」と返した後、続けて本意をむき出しにした言葉を紡いでいく。
「お前がさびしくないか、心細くないか。それが気になっただけなんだよ。遠く知人もいないとこで暮らすのは楽なもんじゃないだろうし」
言いながらニックスの顏はどんどんと赤くなっていった。羞恥心からだった。感じたその気恥ずかしさの理由は、「まるで親みたいなことを言うんですね」とアサネによって明らかにされた。
ニックスはたまらず右手で目元を抑え、左手を仰いで生ぬるい風を熱くなった体に送りこむ。
「だよな。そうなんだよな。俺の欠点なんだよ。知り合いにもよく言われる。遠回しな物言いをしてる所為で、相手に自分の本意が伝えられない。だから最後には、馬鹿馬鹿しいまでにはっきりとした言葉で伝える羽目になるんだよな。別に偉ぶるつもりもなかったんだよ、本当に」
「あの、恥ずかしかったんですか?」
アサネの言葉に図星を突かれたニックスは、
「いやいや、何を言う。なんともない。俺は至って普通さ。ほら今の空とおんなじ。微かに雲があって、程よく陽光は届いて来てっていう具合にさ。ちょっと雲は多めだけど」と焦ったように早口で言った。ニックスがそれを言い終えたと同時、アサネは突然大きく声を上げて愉快そうに笑い始めた。
「お、おいおい。なにもそこまで」
「すみません、どうしても……ふふふ」
それまで自制していたからか、あるいは蓄積されていた鬱憤からか、そのまましばらくアサネは笑い続けた。ニックスはアサネの笑い声を聞いて一層赤面しつつも、やがてはため息を吐き、まあいいかと心中で呟いた。
段々と小さくなっていく笑い声がついに止むと、アサネは不意に、「聞いてくれますか?」とニックスに尋ねた。ニックスはその意味を理解すると微笑んで、「是非とも」とだけ返した。
「もしかしたらあなたの気分を害してしまうのかもしれません。それでも聞いてくれますか?」
「むしろ、そのぐらいのほうがいいさ」
「ありがとうございます」
深く息を吸い、息を吐く音がニックスの耳に届いた。少ししてからアサネは本心を吐露し始める。
「本当は少しさびしいですし、心細いです。一週間前には名前すら知らなかった場所で暮らしていくってことが不安で仕方無くて。確かに、生活資材は自分で用意する必要も無く、ヴィル機関から毎月支給されるので、衣食住での苦労はないんです。でもやっぱり、どうしても今までの、いつもと違うというのは辛いです。だって、元々住んでいたところの友人、知人、家族はそこにいないんですから。仕事がある時はいいんです。不安も感じている暇もありません。でも仕事が終わった途端、怖くなって身震いしてしまうんです。ここに来て一日目なんて、寝る前に泣いてしまったんですよ?」
「仕方ないよ。一人なんだろ?」
「はい、一人なんです」
「分かるよ。俺も一人の時、辛く思うことがある」
「そういう時、あなたも泣きますか?」
「知人曰く、男の涙は誰も得しないんだとさ。だから努めて泣かないようにはしてる」
ニックスは言いながら可笑しく思った。知人というのは、ニックスが先生と呼ぶ男のことだったからだ。
「一人というのが辛く思えて、その上ここはあまりにもよく分からないことだらけで。正直、ここに来る前は治安も悪いんだろうなって思っていたんです。この国が生まれた背景だって普通とは言えませんから。だけどいざ来てみれば、そんなことは杞憂で。朝になったら早くから街中を掃除するご老人たちがいて、夜になったら罵声なんてひとつも聞こえて来なくて、静かで、でも時々楽しそうに騒いだりして、ラジオはいつ聞いても、明るいニュースばかり伝えていて、でもその所為で私には尚更分からなくなってしまうんです」
「何が分からないんだ?」
「ヘイムスの人々やあなたたちが抱いている理念のことです。この国の人たちはみんな、誇りとか矜持というのを重んじて考えている。あなたが昨日言っていたお金では動かないっていうもそういうことなんですよね?」
「ああ、そうだ。俺は金だけで絶対に動かない」
「建国者への信仰心とかじゃないんですよね?」
「リットーのことか? 違うよ。信仰なんてないさ。その証拠に、この国には彼の写真も銅像もない」
「ええ、知っています」
「でも確かに珍しいよな。他のトコでは違うんだろうなっていうのは理解してるよ」
「だから、私には分かりません」
「以外に簡単なことだぞ。例えば、さっきの女主人だって自分の誉れのため、お前にトマトをやったんだ。彼女たちにとって野菜の味や食感、新鮮さがそのまま自分たちの仕事の出来に直結するからな。自らの生業に対する誉れだ」
ニックスがそう言うと、アサネは苛立ったように唸り声を上げた。
「私が理解できないところっていうのはそういう意味ではないんです。もっと根本的なことで」
「えっと、そもそもなぜ誉れなんてものにそこまで固執してるのかってことか?」
「そうです。だってなんだか歪ですよ。リットーを神聖視しているわけでもないのに、どうして思想だけが独り歩きしているんですか? しかもそれをどうして平然と受け入れられるんですか?」
「ふむ、そうだなあ……」
アサネのその問い掛けについて、ニックスは腕を組んで考えてみた。アサネの言い分には確かに納得するところもあると感じていたからだ。知らずのうちに彼がヘイムス特有の思想を受容してしまっていたのは事実だった。それでは、と改めてニックスは自身の内でそのことを精査した。しかし結局、
「それについて俺は明確に答えることが出来ない。でもちゃんと、大事なことは分かっているつもりだし、自分にとって後悔なく受け入れることができる正しさがあると思っているよ」と肯定意見を変えることもなく、アサネに表明した。すがすがしいまでの純粋さで。そのことが腹立たしく思えたのか、アサネは語気を強めて、「馬鹿みたいです!」と言い放った。それまでのアサネとはかけ離れていたその言葉にニックスは面食らい、怯んだ。そんなニックス相手にアサネは続けて言葉を紡ぐ。
「そんな思想に則って行動していれば、いつか取り返しのつかない結果を導いてしまうことになるかもしれないんですよ? それこそ人の期待を裏切るような、人の心配を無下にしてしまうようなそんな危うさがあるようにしか思えませんし。あなただったら二アナ関係でいつかひどい目にあったり――」
その瞬間、アサネの良心が彼女自身を咎めた。
「す、すみません、忘れてください。今のは忘れてください」
アサネが激昂した理由。先程までの態度から一変したアサネの言葉を聞きながら、ニックスはそれを理解することができた。
「昨日俺が出した結論が不服か? あんな結論は普通じゃないって?」
ニックスが尋ねて、ややあってからアサネは答えた。
「いえ、そういうわけではなくて。ただあなたの行動理念が理解できないだけなんです。それはちょうどあなたがヴィル機関に対して疑惑を抱いているように」
ヴィル機関への恩義がアサネの行動理念、その根底にあることをニックスは思い出していた。アサネの憤懣は、自らの信念を否定したものに対して向けられていた。いつ否定されたのか。昨晩のことだ。否定したのは誰か。それはニックス・ハットであり、もっと還元するならばヘイムスの人間である。アサネにとっての正しさ(ヴィル機関への信頼)はこの国の正しさとは一致しない。その事実を認めた瞬間、アサネは自分がまるでヘイムスの敵だと宣告されたように錯覚した。孤独がさらに強まったように錯覚した。
「そう、か」
「はい」
「アサネはその一点を譲れないんだな、やっぱり。いやまあ当然か」
「そうです。だから私はあなたたちとは合いいれないんです、きっと」
「そんなこと!」
諦めて欲しくない。ニックスはアサネの意見を聞いてふとそんなことを思った。それは思想云々の問題ではなく、自身と彼女の問題ではなく、彼女自身、それのみの問題としてニックスは捉えて、思ったことだった。つまるところに結局、ニックスはアサネが孤独で居続けようとすることが我慢ならなかったのだ。
「『君に誉れあれ』『あなたよりも誉れ高く』」
ニックスは不意にそう呟いた。それはニックスがもっとも大切にしている言葉でもあった。だからこそ、アサネに最も教えたいことだった。
「なんですか? それ」
「この国の合言葉。ヘイムスについて理解するための第一歩としてこれほどふさわしいものは他に無いから、アサネにも知っていて欲しいんだ。というのも、この合言葉は、病める時も健やかなる時もはたまた惜別の時にも使える万能の金言なんだよ。なにせ建国の父のありがたい御言葉だからな」
「リットーの?」
「そうだ。この合言葉っていうのは、リットーの演説文句からきたものなんだ」
「でも記念碑にはその言葉載ってないですよね?」
「正確には演説を終えて、壇上から降りようとしたリットーに対して誰かが投げかけた言葉とそれに答えたリットーの言葉なんだとさ。期待の言葉を掛けられたリットーが強がりと虚勢を張ったその言葉を返したんだ。勇ましく、雄弁で落ち着き払った彼が発した唯一の、な」
「強がり。彼自身が示した思想には強がるだけの価値があるってことですか?」
「少なくとも俺達はそう思っている。アサネがここでどのくらい過ごしていくのかは分からないけど、長く住んでいれば、いつかぼんやりとでもそういうヘイムス流っていうのが理解できてくるさ。分かり合えるかは確かに分からないけど。少なくともアサネはここの人間には好かれるタイプだろうしな」
それはただの励ましではなく、ニックスの本心だった。
「そうなんですかね」
「そこはたしかさ。自信を持てよ」
「なんでそんなことが言えるんですか?」
「現に俺がお前のことを気に入っているからだ。俺を否定したいとお前に思われてもなお、俺はお前が嫌いになれない。お前の信念を俺は否定してしまったかもしれないけど、でも俺はお前自身を否定したわけじゃない」
「私だってあなたのことが嫌いなわけではありません」
アサネの返答を聞いて、ニックスは嬉しさから思わず笑みを浮かべた。
「そう言ってくれると思ってたよ。そう言ってくれるお前だからこそ俺はアサネという人間が気に入っているんだ。アサネはそれぞれ持つ価値観だけで人を嫌いになったりはしないんだよよな」
「やめてください、妙な買い被りは。そんなことありませんよ」
アサネは囁くような小声でニックスに抗議した。
「まったく謙虚な奴だなあ、アサネは。おだてたつもりなんて無かったのに。でも、だからこそ、アサネならヘイムスのことが理解できると思う。友達だってすぐに出来るさ。この国はアサネを歓迎してくれているよ」
「本当ですか?」
「本当さ。ようこそ、ヘイムスへ、ってな」
ニックスはそう言うと、誰に向けるわけでもなく、上げた右手を胸元まで下ろしながら、その場で軽くおじぎした。
「あなたは不思議ですよ、やっぱり」
「ん? 俺達じゃなくて、か?」
「ええ、それはどうやら間違いだったようです。あなただけ、ニックスだけが不思議で、変なんですよ。あなた以外はきっと、もっと普通なんでしょうね」
「そうそう、そうだとも。お前はもう一番高いハードルを越えてるんだよ」
「それは十分なほど自信の持てる実績ですね……あっそっちでも見えますか? 夕陽が綺麗ですね」
アサネに言われてニックスは、正面向こうの地平線へと目を凝らした。地平線は燃えるように赤く滾っていた。
「ああ、見えてる。そうだな、綺麗だな」
「背の高い建物も無いからはっきりと見えるんですね。えっと、ニックス?」
「おう、なんだ?」
「その、ありがとうございました。今日は――」
アサネが全ての言葉を言い切る前に突然、通話が途切れた。
「ん?」
ニックスはケータイを取り出し、ボタンを操作した。しかし、ケータイの画面は光が灯ることすらなかった。
「バッテリー切れか。悪いことしたな」
ニックスはそう呟き、インカムを外して、コードごとポケットの中へ押し込んだ。
帰路に就きながら、ニックスは考えていた。
アサネの苦悩に触れて、俺はなにか助けになることができただろうか。
最初は昨夜の礼のためだった。しかし、アサネの悩みを聞いてからは、ただどうにかしてやりたいとニックスは思った。
まあ少なくとも、不安は少しばかり解消されただろう。アサネにとってヘイムスはもう不思議の国じゃなくなったようだしな。
アサネは笑い、怒り、また笑い、自分に対して本心をさらけ出してくれた。それがニックスにとっては、とても喜ばしいことだった。
そういえば、アイツ……。
思い出し笑いを口元に浮かべた後、ニックスは夕陽に目を向け、
「名前を呼ばれて嬉しいなんて思うのは生まれてこの方初めてのことだよ。まったくお前は慎重過ぎだぞ、相棒」と誰に向けるでもなくしかし、誰かに対して言いたかったそれを小さく呟いた。