2
「ご卒業おめでとうございます」
「どうも。それであなた、どちらさま?」
「私はアサネ・ニシモトと申します」
「ニシモト……ニッポン人、か? 俺には縁も無いはずなんだけどなあ」
「すみません、突然」
ニックスはため息を吐いた。電話の向こうの相手の態度に幾らか辟易していたのだ。
「ニッポン人って聞いてたとおり、お堅いんだねえ」
「そうですか? これでも普通に接しているつもりなのですが」
「まあいいや。それで?何か用?」
「そうでした。率直に言いますと、私たちは、ヴィル機関はあなたをスカウトしたいのです」
「ヴィル機関? スカウト?」
「はい」
「質問させてくれ」
「どうぞ」
「ヴィル機関とはなんだい?」
「平たく言えば、ですね。民間の警察や軍隊のようなものでしょうか。少し専門的な」
「おいおい、まさかスカウトっていうのは、俺を兵隊として雇いたいってことか?」
冗談交じりにニックスはそう尋ねた。しかし、返ってきた答えは、「はい、実はそうなんです」とあり得ないはずの肯定だった。
「へえ……それはまた」
ニックスは冷やかしのつもりで口笛を吹いた。この時点でこれ以降、相手の話を真として聞くつもなど毛頭なかった。ニックスにとってあまりに現実離れしている用件だったからだ。
最早ここで電話を切ろうかと悩んで、ニックスが黙ってしまっていたせいか、「どうしました?」と電話口の相手は彼の様子を窺ってきた。そのように聞いてくる自体、少し間抜けだとニックスは感じた。
「いや、君が怪しいと思って」
「そう思うのは当然ですよね。でも待遇はちゃんとしていますし、お金だって」
「兵隊だったな。俺は命を懸けるのなんてごめんだぞ」
「……危険が皆無とは確かに言えません」
「正直なんだな。その態度には好感が持てる。でも、そもそも俺なのは何故だ?」
「あなたには少し変わった能力があるんです。人とはちょっと違う」
「能力? フン、ヴィル機関ってのは映画の団体のことか? それともマンガの方か? 詐欺師ならもっとまともな話を作ってきな。それじゃあな」
「え? ちょっ――」
ニックスは電話を切った。そうして、ケータイを再びズボンのポケットに押し込みながら、
「祝いの言葉、栄えある二十人目が詐欺師からとは」と小さく呟いた。
「あ」
その時ニックスは気付いたことがあった。電話の相手は、どうしてニックスが高校を卒業したことを知っていたのだろうか、と。
「おいおい、マジか」
得体の知れない気味悪さで粟立つ肌をさすりながらニックスは、思わず周囲全体に目を向けた。
「チッ、夕陽が綺麗だなあ、おい」
目立ったことはそのぐらいであった。他に異変は全く見受けられない。
この匂いにもすっかり慣れたものだなとニックスは思いつつ、店の扉を開いた。
勘定台には誰もいなかった。ニックスは誰かが来るのを待ちつつ、店の中を大した意味も無く見回した。
段々となった棚にはトレイが載っていた。そのトレイの上には、早朝であれば色とりどりのパンがそこには置かれていたのだろう。しかし、今となって残ったのは味気に薄いパンが、それも僅かに残っているに過ぎなかった。ニックスはそんな光景を微笑みながら眺めていた。
「おう、ニックスじゃないか」
男が勘定台の奥から姿を現し、ニックスに声を掛けた。
「フランクの親っさん。今日も随分繁盛したようじゃないか」
ニックスに声を掛けた男は、このパン屋の主人、そしてリーアの父親であるフランク・ビディだ。
「ああ。これだけ売れてくれると、旨いものが作れてるんだと胸を張れるってもんさ。リーアから聞いたぜ。卒業おめでとう。頑張ったな」
「ありがとよ。アンタも含めたみんなのおかげさ」
「助け甲斐あるから、みんなはお前を助けたまでさ。お前が頑張らなきゃ、きっと助けなかった。だから、お疲れさん」
フランクをそう言って、ニックスの頭に手を置き、彼の髪を乱暴に撫でる。
「や、やめてくれ。ガキじゃあるまいし」
「なあに言ってんだ。まだガキだよ、お前は。だからな、困ったことがあったらいつでも言いな。俺の自慢のパンぐらいなら振る舞ってやれるからよ」
フランクはニックスの頭に乗せていた手を次は肩に移した。
「ああ。ありがとう、親っさん」
「なあに、お前は俺の息子も同然だからな」
声を上げて笑いながらフランクは、ニックスの肩を幾度か叩く。
「痛い、痛いって。あっ、そういや、リーアは?」
「リーア? アイツなら台所でなんか作業してたな」
そう言ってフランクは自らの背後を指差した。
「ん? パンでも焼いてるのか? リーアは今日休みだったんじゃないのか?」
「そうだったんだけどな。帰ってくるなり、急にな。まあでも殊勝なことだ。俺の娘は流石だよな」
「へえ、頑張ってんだなあ、アイツ」
そのようにニックスが感心している時だった。店の奥から「お父さあん」と声を上げて、勘定台にリーアが現れた。
「よう、リーア。ちゃんと来たぞ」
「ニックス! 丁度よかった。ちょっといいかな?」
言いながら、リーアは勘定台から身を乗り出して、ニックスの腕をつかんだ。
「あ、ああ、いいけど。何が?」
リーアの態度にニックスは少し気圧されていた。
「お父さん。ニックス連れてくね!」
「おう。そいつはいいが、お前道具は片したんだろうな」
「後でちゃんとやる!」
それだけをフランクに言い置いて、リーアはニックスの腕を引き、店の奥に姿を消した。
パン屋としての空間を越えて、普段リーアとフランクが生活する住居としての空間にニックスは招かれた。リビングの食卓に座らされたニックスは、一人で茶を啜っていた。
「待たせたね」
ニックスの背後からリーアは声を掛けた。ニックスは反応して振り向いた。
「いや、気にしなくて――うん?何だ、それ?」
リーアはトレイを持っており、そこからは微かに湯気が立っていた。
「その、ね。……はいどうぞ」
ニックスの前にそそくさとトレイを置いたリーアは、逃げるようにして彼の対面の席に腰掛けた。しかし、ニックスからは目を逸らしていた。
「これは?」
「アップルパイ」
「あー、これがアップルパイってやつか」
「食べたことないの?」
「無いな。これは俺が食っていいのか?」
ニックスがそう聞くと、「あっ、忘れてた」とリーアは急に立ち上がり、台所からナイフとフォークを持ってきて、ニックスの手前に置いた。
「できれば全部食べて欲しいかな」
「いいのか?」
「うん。私の奢りだから」
リーアの言葉にニックスは微笑んで、
「奢りだもんな。いただくよ」とナイフとフォークを持った。そうして、アップルパイを適度な大きさに切り、ニックスはその一片を口へと運んだ。
「どうかな?」
リーアは胸に手をやりつつ、上目遣いでニックスに尋ねた。
「もう一人前なんだなあ。商品としても出せるんじゃないか?」
「ま、まだまだだよ。今日は特にうまくいったってだけで」
リーアは指と指を絡み合わしつつ、頬を赤らめていた。
「本当に、うん。美味いよ」
「そう……良かった」
ニックスはもう一片を口に入れてから、おもむろにナイフとフォークを置いた。
「まったく。俺はホントに幸せ者だ。みんなから祝われてさ。フランクの親っさんに、トールに、お前に、先生に、大家のばあさんとか、町の人たち。もう俺は寝る時、足を空に向けるしかないぐらい色んな人に、色んなところに世話になったんだよ。世話んなったなあ」
語っていくうちに感極まって、ニックスは目頭を押さえて、静かに涙を流していた。
「や、やめて。泣かないでよ」
「わ、悪い。どうしてもな」
「そう。そうなんだ。……ニックス、改めて卒業おめでとう」
微笑を浮かべながらリーアは言った。
ニックスは何も言い返さず、再びアップルパイに手を付けた。今何かを言ってしまえば、きっと体裁を保てず、泣き通しとなるに違いないと思ったからだった。しかし、アップルパイを口に運ぶということもそれはそれで彼を堪らなくさせて、結局涙を流させた。
その後、ニックスはアップルパイを口に運んでは涙して、また口に運んでは涙して、というのを、繰り返してアップルパイを完食した。その一連の様子をリーアは、両手で頬杖をつき、見つめているだけだった。
太陽も沈んで、すっかりと夜になっていた。
ニックスは鼻歌を歌いながら、上機嫌でパン屋からの帰路に就いていた。そのさまはこれからについて期待を忍ばせている一方で、明日についての不安と憂いを隠す強がりでもあった。その躁鬱さが、しかしニックスにとって心地良いものだった。将来は未知である方が面白いと考えていたのだ。その時までは。
「おや?」
アパートの前でニックスはある異変に気が付いた。黒のスーツを着た男たちが、静かにそのアパートを見上げていたのだ。その視線は、ニックスの住居の方へと注がれていた。
「あー、ミスター何某、ここには何の用でしょう?」
気分の良かったニックスは、無警戒で男たちに声を掛けた。
すると、彼らの中の一人、スキンヘッドの男が振り返ってニックスの顔を見るなり、懐から写真を取り出して、その写真とニックスの顏を交互に見比べた。そして、「奴だ」と呟くと、指を鳴らし、「捕まえろ」と他の男たちに囁いた。
「了解」
男たちはニックスの方に近づいてくる。一人は異様な手の広げ方をしていた。一人は作った拳固と拳固を打ち合わせていた。一人は肩を回していた。
「ま、マジかよ! 嘘だろ!?」
その段になってニックスは事の異変に気付き、男たちの反対側に駆け出していた。男たちもニックスを追って走り出した。
駆け出して間もなく、間も悪くケータイが鳴りだした。
ニックスは反射的にケータイを取り出したが、状況も状況であり、そのまま仕舞おうかと思ったが画面に映し出された番号には見覚えがあり、見るとともに彼は憤りを覚えたので、ケータイのボタンを押して、耳元に近づけた。
「あっ、その、お昼に――」
「おい、アンタ! アンタんとこのスカウトは随分押しつけがましいんだな。アンタにしたってよくもまあ、また俺に連絡なんかできたもんだ」
「ええと、すみません、どうしてももう一度だけお話を――」
電話の相手はニックスからしてみればあまりに調子外れな物言いをしてきたので、彼は苛立ちから声を荒げて、
「お話しだって? だったら俺を追ってくるあのスーツの男たちとお話ししてやってくれよ。でなきゃ俺はアンタともうお話なんてできないだろうよ!」
「ど、どうしたんですか?追ってくる? スーツの男? ……あっ。ち、ちょっと待っていてください。電話切らないで下さい」
「うるさい! そんな暇はないって!」
「お願いします! 信じて!」
ニックスは何も言い返さなかった。しかし、電話を切ろうともしなかった。
ふとニックスは背後の様子を窺った。スーツの男たちは体力に自信があることを誇示するように余裕をもって彼を追いかけている。
「ちきしょうどもめ! なめやがって」
そう呟きニックスは苛立ちと恐怖感から髪を掻き毟った。その時、
「に、逃げてください! 彼らはきっとあなたを拉致するつもりです!」と電話の相手が叫ぶようにニックスに言ってきた。あまりの声量にニックスは思わず耳からケータイを離したが、子どものような負けん気を発揮してすぐにまた耳元に戻し、「とっくに知ってるよぉ! 助けてくれよ!」とそう叫び返した。
「あっ、違う。逃げるじゃなくて、ええと、戦ってください! あなたならできます!」
「あんな輩に勝てるかよ!」
「できます!」
「嘘つけ!」
「できます! 勝てると思うんです! どのみちあなたはもう逃げられません!」
「な、なに?」
「戦うんです! それしかありません!」
ニックスは狼狽した。それとともに顔も知らない相手から叱咤されたことが自身の内でなんとも情けないと思っていた。だから、彼は、
「お前らみんな、ちくしょうだ! 分かった、やってやるよ!」と威勢よく電話口に怒鳴って答えた。
「私が助言します。追手の数は?」
「四人いたんだが、今は三人だけが俺を追ってきている」
「三人。周りには何がありますか?」
「周りって、至って普通の街路、いやもう外れたか」
「数の問題では相手がもちろん有利です。でも、そのために油断しているはずです」
「そうだな。アイツらムカつくくらい余裕そうにしてやがったぞ。俺のことを犬だとか猫だとでも思っていそうなぐらいにな」
「油断している相手になら不意を突くのが効果的です」
「不意?」
「はい。例えば曲がり角からの不意打ち、物音での誘導、目くらまし。そのためにいま周りにあるものを利用するべきです」
「あー、うん。そうだよな」
ニックスは走りながら、辺りを見回した。
田園と広野。農作のために開墾された地帯だった。ニックスの目に映るものは、敷き詰められた田畑と、伐採を逃れたいくつかの樹木、鍬の歯が届かなかった野原。そこは地面の起伏に乏しく、隠れ処として機能しそうな場所も見受けられない。
「まったく。俺って、馬鹿だねえ。周りには植物以外何もないよ。少しは考えて走るべきだった」
「何もない、ですか。本当に?」
「本当だよ」
「詳しく言ってください」
「どうし――」
「早く!」
「……畑があって、雑草が一面に――」
「もっと端的に!」
「畑、羽虫、草原、木、藁……ん?」
走るニックスの足元に何かが引っ掛かった。足を止めて、ニックスはそれを拾い上げた。誰かが忘れていったロープであった。
「これだ! 絶対に使えるはずだ!」
ニックスはある樹木と手に持ったロープを交互に見て、声を上げた。
「何か思いついたようですね?」
「お前のおかげだ。また後でな」
通話を切り、ケータイをポケットに仕舞うと、ニックスは目を付けていた樹木に向かって疾走する。
「さて」
仕掛けを終えて腰を上げたニックスの背後の方から男たちが近づいてきた。
「ようやくのお出ましかい」
ニックスは振り向きざま、男たちにそう言った。
「こっちの台詞だ。諦めは肝心だぞ」
三人の内の一人がそう返した。残る二人が下卑た笑い声を上げる。
「まったくこんな暗いところに逃げやがって」
「体格に似合わず、怖がりなんだな。その結構な体は着膨れしてるってだけか?」
「フン、強がりはよせよ」
「強がりなもんか、挑発してんだよ。マヌケ」
ニックスが言うと、一人が握りこぶしの関節を鳴らして、
「俺だけで十分だ。あの小僧は俺だけで始末する」と二人に言いつつ、数歩前へと出てきた。
「さっさと来やがれ」
「随分自信ありげだな。さっきまでの逃げ腰とは大違いだ」
「さあてね」
ニックスはしたり顔を見せつける。一人がその様子に眉をひそめた。
おい怪しいぜ。アイツ、何か企んでるんじゃないか。
それは男たちの一人がニックスは聞き取れないほど小声で言ったことだった。また別の男が同じ調子で言葉を返す。
念のためさっさと三人で行った方がいいんじゃないか。俺は面倒臭いのが嫌いだからな。
頷き合うと三人は、草を踏みしだきながら一斉にニックスの方へと向かってきた。
「お、おいおい。タイマン張るんじゃなかったのかよ」
ニックスは焦ったように手を振り立てる。
「まあ、気が変わったんだよ。子どもの遊びには付き合ってられないしな。なあ?」
口元を歪ませて、男たちはニックスに対する優越感を共有しあった。
「ち、ちくしょうっ!」
ニックスは後ずさりした。ぎこちない動きだった。
「一人なら何とかなったってところか?」
「ど、どうだろうね」
「策を弄したのに残念だったねえ」
男たちはゆっくりと近寄って行き、まもなくニックスに手が届くというところにまでやってきた。それを契機にニックスは駆け出した。
「もう無駄だってのに」と三人の内の誰かがそう呟いた。
走っていたニックスは、しかし途中で唐突に足を止めて屈むと、一面に生えている背の低い草をかき分けて準備しておいたロープを手に取って立ち上がった。そして、そのまま勢いをつけて、彼はそれを引っ張った。
「なんだあ!?」
ロープは男たちの、計六本の足の脛部分をひとまとめにして輪っか状に巻き付く。
「嵌ってくれたな、馬鹿野郎。これで!」
ロープを両手で力強く握り直すと、ニックスは、掛け声を上げながら、瞬発的に男たちの後ろへと回り込むように数歩駆け出した。次の瞬間、男たちは悲鳴を上げながら、前のめりに倒れ込んだ。
「よおし。上手くいった、上手くいった」
ニックスはロープをほうって、男たちの下に近づいていく。辿り着くまでの最中で三人内二人は倒れた拍子に頭をぶつけあったらしく意識を手放しているのだということが分かった。
だが、残る一人は不意に「くそったれ、このやろう」と呻くように呟き、頭を抱えながら立ち上がって、「吹かしたな、小僧」と言い、ニックスを睨んだ。ニックスは得意げに笑うだけだった。
「俺たちを誘って、まさか野生動物と同じように扱ってくれるとはなあ。まったくムカつくぜ」
男は、傍らの樹木に巻きつけてあるロープの存在に気が付いた。自分たちを転ばせた装置の支点はその樹木なのだということに気が付いた。
「でもこれでさっき言った通りの一体一だ。アンタは手負いだけどそれぐらい十分許容範囲内だろ?」
「ああ、余裕さ。この、クソガキめ!」
ニックスの問い掛けに応えるように男は、拳を突き出し身構えた。
「よーし、それじゃあいくぞ!」
ニックスもまた構えを作った。
拳の打ち合い。それが二人の闘いの全てだった。
「よう。何とかなったぞ」
ニックスは、先程まで闘っていた、今は倒れて意識を手放した男を見下ろしながらケータイを耳にあてていた。
「すごいですね。本当に倒せるなんて」
「罠にはめてやったんだ。それに気付けたのはアンタのおかげさ。ええと……ああそうだ。アサネ、だったな。アンタ、話があるんじゃなかったか? 俺に」
「はい。それで――」
「悪い。ちょっと待て」
その時だった。ニックスの視界に四人目のスーツ姿が入って来た。悠然とニックスの方に歩み寄ってきていた。
「そういや、まだ残ってたんだ」
ニックスは近づいてくる男を注視した。
鋭い目付きは男にその気が無くともニックスを威圧してくるようだった。そのような目付きはそもそも彼にとっての自然体なのだろうかとニックスは勘ぐった。肌を露出した頭部、そして斜めに入った左頬の切り傷の痕も相まってさらに威圧感を際立たせていた。そのように相手を脅かすための体裁が整っているのにもかかわらず、男の動作は機械的で落ち着き払っているので、ニックスはその不気味さが恐ろしいと感じた。
「気迫が違う。きっとこいつがリーダーだ」
ニックスは震えそうになる声を抑えつけてそう言った。
「特徴は? 誰なのか分かるかもしれません」
「禿げ頭。左頬には傷がある。そうだ。な、なあ、あんた! 名前は?」
「ネオーネ・ワンクー」
男は囁くようにそう言った。
「ネオーネだってさ」
「ネオーネですね……えっ」
「お、おい。どしたよ?」
ニックスはアサネの反応に思わず尻込みした。心中では、勘弁してくれよと嘆いていた。嫌な予感を覚えていた。
「その人、元格闘家です。それに、その方面だと結構有名みたいで」
「そ、その方面って?」
「聞きます?」
「……遠慮しとく」
ニックスは思わず空を仰いだ。心中では、今日も月は綺麗なもんだと呟いた。
「なあ俺勝てるかな?」
「あなたなら勝てます」
アサネは即答した。
「無根拠だろう、それは」
ニックスは拗ねたようにそう言った。
「ええ。私は信じているだけです」
アサネはニックスが怖気を感じているということを分かっていた。だから、彼女はニックスに発破をかけるだけだった。努めて冷静に、しかし力強く言葉を紡いで、ニックスを励まそうとしていた。
「信じている、か」
反芻してもニックスの感じる不安は晴れてくれなかった。それをまた察してアサネは、
「格闘家時代、ネオーネは足技を主体にしていたそうですよ」とこれから必要になる情報を自然な声調子でニックスに告げた。その言葉の裏には、危機なんて皆無だということを含ませて、ニックスに説いているようでもあった。
ニックスはその意図を捉えたのか、ぎこちなく笑い声を上げた。笑うたびに自信と勇気が滾ってゆくように感じた。
「オーケー! 後でかけ直すからな」
「後で、必ず。お茶でも飲んで待っています」
そう言ってアサネは電話を切った。
「飲み切る前に終わらせてやるよ」
ニックスは一度大きくため息を吐き、ケータイを放り捨てて、
「ヘイ! 俺と遊んでくれよ、ガイ!」とネオーネに腕を広げて見せながら、声を上げた。指先は僅かに震えていた。
ネオーネは歩みを止めると、直立のままでニックスを睨んだ。
「素直に付いてきては……くれないようだな」
「当たり前だ。素性も知れない。仮に知ってたとしても、ボディランゲージしか通用しない連中に付いていくなんて御免さ」
「そうか……仕方ないな。少し痛い目を見てもらうぞ」
それは開戦の宣言のはずだった。しかし、ネオーネは腕も足も動かさずにやはり、直立したままであった。
「ぬかすな、ふざけるな」
ニックスはその態勢が、その余裕が、その得体の知れない自信がそのまま形を変えないかもしれないという恐怖から、「誰がお前なんかに!」と声を上げて、ネオーネに殴りかかろうと駆け出していく。拳はネオーネの眼前にまで迫った。しかし、そこまでが最接近距離だった。
次の瞬間、ニックスは後ろに吹き飛ばされた。背中を強か地面に打ち付けたが、しかし彼は腹を抱えていた。
「痛ってえな、まったく。たまげたもんだ」
ニックスは立ち上がり、自分のことを蹴り飛ばした右足を睨んだ。
「立ち上がる、か。なかなか骨があるようだな。ただの子供だと思っていたが」
「どうだか。アンタがその程度なだけだろ。子供に本気を出してるくらいだからな」
「……訂正しよう。君はただの子供ではないのだったな」
ネオーネはそう言うと、ニックスの傍にまで素早く移動してきて、右足で鋭く蹴りを繰り出す。ニックスはその一撃目を左腕で防御するが、威力を殺しきることができず、体のバランスを崩した。その隙を突いて、ネオーネは左足で二撃目の蹴りを放ってくる。その一撃はニックスの右の脇腹を捉えた。再びニックスは吹き飛ばされる。
「クソ。クソ。なんともねえぞ、この程度」
仰向けになったままそう強がるニックスだったが、心中には諦めの気が現れはじめていた。
呼吸する度、体の所々に痛みが走る。防御するために差し出した左腕は、痺れて、指を動かすことすら大きな手間を要させる。
まったくどうして俺はこんな目に遭っているのか。今までが普通であったのになぜ今になってこんな目に遭っているのか。ニックスは目を閉じて、そのように考え始めていた。しかし、その思考は彼の諦念を肯定させるものではないはずだった。なぜなら、それは状況に対する不平を嘆いているだけのこと。
「そうさ。なんともないんだよ」
彼の心には諦念を否定する様々な事情があった。世話になった人々に返すべき借りがあった。アサネとの約束があった。そうして何より、彼には夢があった。
最早ニックスが満足に働かせることができるのは、頭だけだった。
ネオーネはゆっくりと歩んできていた。ニックスに『敗北』を刻み込むために。ニックスは考える。ただ『勝利』することのみを考える。
「さあて。まだまだ……まだだ!」
ニックスが飛び上がるように起き上がると、彼は表情を僅かに強張らせ、身構えた。
「ほう。立つのか」
「おうともさ。これからが本番だ」
ニックスはネオーネから距離をとりつつ、
「アンタ、手は使わないんだな。どうして?」と彼に尋ねる。
「私は足による技にしか頼らない、絶対にな」
「意地か?」
「そんなものだな」
足技への絶対的な自信。それはネオーネが格闘家であった頃から遵守していた美学。
そのことをニックスは勝利のための情報として手に入れた。
「ゆくぞ」
ネオーネは再び近づいてくると、ニックスの胴めがけて右足を真っ直ぐに突き出してくる。
ニックスには戦術があった。といっても大したものではない。ネオーネが蹴り出してくる足を掴もうとしていたのだ。しかし、いざ繰り出された蹴りを目前にすると、掴むことなど不可能だと瞬時に判断し、両腕を交差させて防御の態勢を作った。ネオーネの蹴りがその両腕に激突すると、その衝撃によりニックスは三度吹き飛ばされる。
「やっぱ痛えな。一個目は失敗か。だったらこれはどうだ!」
ニックスは起き上がって、出し抜けにネオーネの下へと駆けていく。
ネオーネは不意を突かれた形であるにもかかわらず、正確に反応して、ニックスの脇腹めがけて右足を動かした。
ニックスには戦術があった。だが、今回に限っても大したものではなかった。
ニックスはネオーネの蹴りに対して右足で蹴りを繰り出し、打ち合わせた。戦術とは『目には目を』だった。しかし、威力は相殺されたわけではなく、結局ニックスはよろめくこととなった。二個目も失敗か。今度は心中でそう呟いた。
「やっぱり敵わないな。足が痛い」
「甘いな。しかし悪くは無かった。筋が良い。いや、君らはみんな筋が良いのだったな」
「なんだって?」
「なんでもない。惜しいと思っただけさ。もうそろそろ終わらせるとしよう。君には少し眠ってもらう」
「ああ、全力でこい!」
ニックスには戦術があった。そして、その戦術こそが彼の本命だった。ニックスは姿勢を低くして構える。
ネオーネはニックスの体を叩き切ろうかというような横薙ぎの蹴りを繰り出してきた。掴むことは出来ない。蹴りで対応しようとすればそれを受けた足の方が挫かれるに違いない。風を切る音もする。ニックスが今までに受けてきたどの蹴りよりも速い。
ネオーネの足技に多少なりとも目の慣れた今のニックスであれば、躱すことが出来たやもしれない。だが、一度は躱せても、追撃まで躱すことは、不可能なのだとニックスは理解していた。だから、彼はたった一度の逆転の瞬間を待った。
目前に迫ってくる脚。
まだだ。ニックスは心中で呟く。
目前に迫ってくる脚。
まだだ。ニックスは心中で呟く。
目前に迫ってくる脚。
今だ! ニックスは心中で叫んだ。
ニックスは飛び込むようにネオーネの蹴りをくぐっていった。そうして、必死にそのことを何より優先すべきだと自身に言い聞かせ、転がる勢いをも利用してネオーネの唯一の支えになっている左足を両手で掴んで、持ち上げるように引っ張った。
「な、にッ!?」
ネオーネは呻き声を上げながら、地面にうつ伏せになった倒れ込んだ。
「イエア! こいつももってけ!」
立ち上がったニックスは隙を見逃さず、ネオーネの鳩尾に向かって力を込め、蹴り上げた。
「グッ…くっ!」
これ以上の追撃は許さないというようにネオーネは横に転がりながら離れていき、立ち上がろうとする。しかしその時、「させるかよっ!」と叫びながら、彼に向かってニックスは駆けだした。そうして、そのまま体重を掛けて押しつぶそうとするかのように、ネオーネに体当たりを仕掛けた。ニックスがネオーネに馬乗りする形になる。
「これでとどめだ! せいぜい往生しねえように気を付けなあ! 先生も認める石頭だっ!」
ネオーネが頭を上げた瞬間、ニックスは勢いをつけて彼にヘッドバットを食らわせた。
決着はついた。ネオーネは意識を手放していた。
「足技にだけ頼るから。足元がお留守だったんだよ、アンタは」
気分を落ち着かせた頃、ニックスは約束を果たすためにケータイを拾って、電話を掛けた。
ニックスは相手が出てくるまでしばらく待とうと思ったが、その間というのは皆無に等しかった。というのも、一コール目で、「ハットさん、無事ですか!?」とアサネが応じてきたからだ。
「安心しろ」
ニックスは含み笑いしつつ、
「ちゃんとこの世から連絡してる。アンタの夢枕に俺が立つなんてことも在り得ないさ」
「ということは……た、倒したんですか? 本当に?」
「なんだよ。信じてたんじゃないのかよ。あれはホラだったのか?」
「い、いえ。そういうわけではなくて。あの、ネオーネは?」
ニックスは近くで伏しているネオーネを見やった。
「ああ、アイツなら眠っちまったよ。寝つきは相当に悪いもんだろうがな」
「あなたは? 怪我とか」
「体中痣だらけだ。でも大したことはない。四、五日もすれば全治さ」
「よかった。本当に、よかったです、無事で」
アサネは安心したようにため息を吐いていた。当の本人よりも安堵した様子だった。
「よかったよ、本当に。さて、ネオーネたちはどうするか」
「ご心配無く。私たちの方でどうにかするので」
「私たちの方、ね。アンタら、本当に何とか機関ってやつなんだな」
「ヴィル機関です」
「そう。それだ。アンタらは俺に用があるんだよな」
二人はどちらからともなく口を噤んだ。
アサネはニックスの次の言葉を待っていた。ニックスはアサネにどう質問しようか考えていた。
二人が同志であった時間は一時的に終了したのだ。
「まず、教えてくれないか?」
「はい」
「俺は何者なんだ?」
「前に話した通りです。あなたはある能力を持っています。いえ、特性と言った方がいいでしょうか」
「なるほど。そのことを知っていたから、俺がスーツの男たちをどうにかして退けることができると思ったんだ?」
「はい」
「でも、俺はその能力とやらについての実感なんて何も湧いてこなかったぞ。火も吹いちゃいないし、光線も出してない」
「あなたの能力というのは目に見えるようなものではないんです」
「それじゃあ、どういうのなんだ?」
「あなたの能力は他の人よりも『勝利』しやすいということなのです」
「勝利?」
「はい」
ニックスは空を見上げながら、考えて理解に努めようとする。しかし、「なんだか要領得ないなぁ」と呟き、髪を掻いた。
「そうですね。例えば、スポーツだと、体質やセンスなど、先天的に持っている才能が重視されますよね?」
「まあ、そうだな。仕方ないことだけど」
「はい。同じぐらい有効な時間の使い方で練習しても、同じぐらい効率的な方法で練習しても、どうしたって差が出てしまう。他人より秀でたその差のことを一般的に才能だとか才覚って呼んでいますね」
「へえ。で、それが俺の能力とどう関係があるんだ?」
「才能は当然『勝利』という結果を導きます。普通の人はほどほどに、或いはある分野にのみ特化した才能だけを持っている。優れたスポーツ選手と優れた科学者は中々両立できないものですよね。でも、あなたは違う。あなたはどの分野においても勝ちやすいんです。どの分野においても一定以上の才能を持っているんです。私たちヴィル機関はこの特性を{勝才}と呼んでいます」
「勝才ねえ。でも俺は、生まれてこのかた、勝負事に勝った経験なんて人並みぐらいなもんだと思うぞ。この前友人とやったポーカーは圧敗だったしな。まあどうでもいいことなんだけどさ」
「それはつまり、勝ちへの興味が薄いってことですか?」
「そういうことになるのかな。もちろん負けたいと思ったことはないけどな」
「でも思い出して見てください。これまでの勝負事において、あなたは自分が本当に勝ちたいと思ったことには全て勝ってきたんじゃありませんか?」
少し考えてみるとニックスには、確かに思い当たる節があった。
現在はニックスの親友でもあるトール・ウォンドが数人の男に襲われていた時、ニックスはその男たちを打ちのめし、彼を助けた。ニックスが十五歳、男たちは全員二十歳前後であったのに。またつい先程のことにしても、ニックスは自分よりも争いごとにおいて格上の者たちを撃退していた。
「あなたが勝利に執着しないのは、あなたがいつでも勝てるからなのかもしれませんね」
「なるほど。まあ、分かったよ。勝才、ね。信じがたいことだが一応憶えておくよ。俺を襲ってきた連中もこれが目当てで――いや、そうなんだろうな」
筋が良い。いや、君らはみんな筋が良いのだったな。
ネオーネが自分に対して言ってきたその言葉をニックスは思い出していた。
「はい。彼らは二アナという組織の人間です」
「二アナ。アイツらは俺のような人間を捕まえてどうするつもりなんだ?」
「詳しい目的は分かりません。いえ、正確に言うと私には知らされていないんです」
「あっそ。まあいいや。二アナとかいうのに捕まりゃロクな目に遭うってことは確かなんだろうし。それだけが分かっていればいいだろう。で?」
「え?」
「俺からすれば、これからが本題だ。アンタらはどうして俺に関わってきたんだ?」
「二アナからあなたたちを守るためで――」
「ふーん、どうして?」
「どうしてとは?」
「二アナは俺を狙ってきている。でもそれはあくまで俺の問題だ。いや、勝才を持つっていう俺たちの問題だ。なら、ヴィル機関はどうしてわざわざ二アナを敵視する? 俺達のための慈善活動? 小さすぎる。違うな。アンタらも結局、企図があるんだ。俺をモルモットにしたいのか? そのために二アナと取り合っているのかい?」
「そ、そんな。違います! ヴィル機関はそんな組織じゃありません!」
ニックスの耳に、感情を露わにしたアサネの喚きが響いてきた。まるで自らが信心する対象についてけなしてきた相手を非難するかのように。
「何か、訳ありのようだな。でも、少なくとも俺はヴィル機関とやらを信じるつもりはない。俺のことについてこそこそと調べ回っていたようだしな」
「それは!」
「アンタが調べたのか?」
「い、いえ。私は与えられた情報の限りでしか」
「ほうら、やっぱり。組織は前から俺のことを調べてたんだ。俺を子飼いにするためにさ」
「でもヴィル機関が関わってなかったらあなたは今ごろどうなっていたか」
「助けてくれたのは、ヴィル機関じゃない! あくまでアンタだろ。アンタが俺を助けてくれたんだ」
「それだって、あなたのサポートが私の業務だったから! お金だってお支払いします。それでもスカウトは受けてくれないですか?」
ニックスは苛立ちから「フンッ」と当てつけるように鼻を鳴らした。
「他じゃあ上手くいくんだろうが、金で解決して、金で懐柔しようだなんてのは、この国で暮らす者としての誇りが許さない。アンタらの組織にもうちょっと色気があればな」
「色気……色気があればいいんですか?」
「ああ、そうだったら話は別かもしれないがな。でもアンタらは――ん? おい」
突然、通話は途切れた。ニックスが一方的に切られた側だ。
「なんだよ、急に……おっと?」
通話が切れてから間もなく、ニックスのケータイに一通のメールが届いた。
メールを開いてみると、件名は無く、文面は「アサネ・ニシモトです。これでどうでしょう。」とだけ記されていた。その文面から、本題は添付されたデータの方なのだとニックスは気が付いた。
添付されていたデータを開く。それを目にした瞬間、ニックスは唖然として、開けた口を閉じることもしばらく忘れていた。
メールに添付されていたのは写真だった。
写っていたのは、白く、しかし僅か赤みがかった柔肌。二つの山であり一つの谷。大きい山。とても大きい山。山の下からは腕が添えられているが、その腕の上に、たわわなそれの一部がのしかかっており、殊更その山の雄大さを表していた。もっとも、この場合、雄大というのは中々おかしい表現であるかもしれない。
「おおう、ナイスビュー」
ニックスは感嘆した。理由は言わずもがなである。
しばらくしてケータイが鳴った。ニックスが予想していた通りの番号からだった。
「やあ、アサネ。ついさっきぶり」
「はい。あ、あの見ましたよね?」
「見た。あー、なんであんなのを送ってきたの?」
「き、気に入りませんでしたか? 形とかは良いのかよく分かりませんけど、大きさには自信があって」
「違う。意味が違う。どうしてっていうのは――あれ? あの写真お前なのか。随分立派なモン持って――いや、なんでもない」
「だって、私の、を見せないと意味が無いじゃないですか」
「なんで?」
「私たちについての、色気がって、言った、から」
アサネの消え入るような声がニックスの耳に届いた。声音には羞恥心が滲んでいた。
「色気?……あー、なるほど」
ニックスは自分がつい先程言ったことと、電話が途切れた瞬間を思い出していた。彼は人情だとかの感性的なものが感じられないという意味で「色気があれば――」と言った。しかしアサネは、それを文字通りに捉えて、あのような写真を彼に送って来たのだ。
あまりの可笑しさからニックスは声を上げて笑い始めた。しばらくその笑いは止まらなかった。
「は、恥ずかしかったんですよ! これでも。……これでも」
そう言うアサネの声は震えていた。その声を聞いてニックスは、途端笑うのを止めた。
「わ、悪い」
アサネが涙声となっていることにニックスは気が付いた。
「悪かったよ。笑ったりして」
「い、いえ、私こそすみません。変なことして」
「アンタ、どうしてそこまでするんだよ?」
「私は恩義があるんです、ヴィル機関に。だから、どうしてもあなたのことを招き入れたいんです。彼らの期待に応えたいんです」
「なるほど。恩返ししたいのか?」
「……はい。とても大きい恩義ですから」
なるほど。勘違いとはいえ、あんな写真を送って来るほどの事情がコイツにはあったのか。ニックスは心中でそう呟いた。
「アンタの事情は分かる。でも、俺はやっぱりヴィル機関というのを信じることは出来ない。アンタらからの金も俺は絶対に受け取らない。というより金に関しては受け取れないというのが正しいか。俺の夢に差し障ることだからだ」
「夢って?」
「内緒。でも金を受け取ってしまえば、俺は一生アンタらに監視されることも干渉されることも拒むことができないだろう? 道理から言って。それは俺の夢からしても困るんだよ。俺の夢には自由と尊厳が必要だからだ」
「いい夢、なんでしょうね」
「そうだとも。とても立派な夢だ」
言いながらニックスは、胸を張って、得意げに笑みを浮かべていた。自身の抱く夢は本当に誇らしいものなのだと再確認したように。
「でも、一人になってあなたはこれからどうするんですか。きっとこれからも二アナの刺客があなたには差し向けられます」
「それは困るな。おばけの怖い夜がさらに怖くなる」
「あなたが彼らに捕まるのは、ヴィル機関としても困ります。私だって、ほとんど関わりは無いと言っても、あなたが二アナに捕まったりすればやっぱり悲しい、です」
アサネは語尾に向かう程に弱々しいものになっていた。だからこそ、ニックスにはそのアサネの言葉がお為ごかしだとは思えなかった。
「アンタは本当にいい奴だ、アサネ」
ニックスは、アサネの気質に対して『色気』を感じていたのだ。
「アンタはわざわざ受けた恩義に報いようとする人間だし、俺の安否を心配していたのも事務的なものだとは思えない」
「そんなことは……」
「もう一度言う。俺は金も要らない。すなわちヴィル機関に属するつもりもない」
「……はい」
「でも、アンタのことは気に入っている。だから、アサネ・ニシモトを頼りたい。助けてほしいんだ」
呆気に取られたアサネは、しばらくしてから「え?」と素っ頓狂な声を上げた。
「アンタ、サポートも業務だって言ってたよな」
「ええ、そうです」
「だったら、その、よければ、これからも二アナの奴らとのいざこざが起きた時、助言とかしてくれないか? 俺についてはそう、フリーランスみたいな扱いでさ。許容できる範囲でヴィル機関にも力を貸すからさ」
ニックスがそう尋ねると、アサネはしばらく黙り込んでいたが不意に、
「このままで。少し待っていてください」と言い置いて、彼女の声は電話口から離れていった。
電話口から話し声が微かにニックスの耳へと入ってきた。アサネと誰か男の声だった。内容までは聞き取れない。
しばらくして、話し声が途絶え、僅かな雑音をともに、「お待たせしました」とアサネが戻って来た。
「許可が下りました。私はこれから、あなたのサポートと簡単な監視の任に就くことになります」
ニックスは眉をひそめたが、すぐに仕方ないという風にため息を吐いた。
「監視は、まあ仕方ないよな。俺のわがままでもあるわけだし。それに自分も知らないうちに付き纏われてるってよりはマシだろう」
「はい。ありがとうございます、ハットさん」
「ニックスでいいよ、アサネ。それに感謝するのは俺の方だ。アンタを頼れるのは本当に心強いよ。これからお前はこの俺、ニックス・ハットにとっての相棒だ。俺はお前を全面的に信頼する」
「分かりました。これからよろしくお願いします、ハット――」
「ニックスだ」
「……ニックスさ――」
「ニックス」
「……ニ、ニックス」
「うんうん、それでいいんだ。よろしくな、アサネ」
「はい、明日また電話を掛けます」
「明日ね、分かった。それじゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
通話を終了したのは、どちらかともなく同時であった。