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冬を越え、春もまもなくという三月の終わり。
ヘイムスの東南に位置する県、セイネイ、そこに一つしかない名ばかりの高等学校、校舎三階の一教室。ニックスは堂々と胸を張り、その瞬間を待っていた。
「ニックス・ハット、前へ」
「はい!」
男の呼び掛けにニックスは自分に出せる最大の声量で応じ、壇上に立つ男の前にまでゆっくりと歩んでいく。
ニックスが男を見上げてその頃合い、「おめでとう」と男は声を張って、手に持っている一枚の厚紙をニックスの前に広げた。ニックスは服に両手を擦りつけてから、それを受け取る。
顔をほころばせてニックスは、その証書に他のよりもひと際大きく書かれたその文字を見つめた。『卒業証書』の文字。
「ニックス、君はこの学び舎を巣立っていく。そうして広い、地域に、国に、そして世界に旅立っていく。期待もあるだろう、しかし不安もあるだろうな。それでも君ならば――」
「少し長いよ、先生」
ニックスは呆れたようにため息を吐いた。男は肩を落として、
「そうは言うがね、ニックス。僕は寂しいんだよ。君は珍しく勉強に熱心な生徒だったからね。僕たち教師も教え甲斐があって楽しかったんだよ」
「うん。世話になったよ、ホント」
ニックスがそう言うと、男は突然目元を押さえて、涙を流した。
「おいおい、先生だけずるいぞ。俺ですらまだ泣いてないのに」
男は懐から取り出したハンカチで目元を拭い、一度咳払いする。
「すまん、すまんね。僕も歳を取ってしまったようだ。まったく、生徒が卒業するくらいで泣いてしまうとは。今までなかったよ。まあそもそも卒業式をすること自体久しい。こんなささやかなものでさえね」
「今年は異例かな。俺のおかげでね」
「そうそう。君のおかげだとも。今までは生徒たちを上手く黙らせる怒鳴り方ばかりを検討してきたが、この三年に限っては、出来の悪い生徒にどうやって学問というのを理解させるか、考えることができたよ」
ニックスは不承気に唇を尖らせて、
「それでも試験はいつだって一位だったじゃない?」
「そうだな。なにせ四十点で一位が取れるからねえ」
「八十点の時だってあった。三回ぐらい」
「そう。あったね。そして――」
男は微笑を浮かべながら、一枚の紙を取り出し、ニックスの目の前に突き出した。その用紙にニックスは見覚えがあった。それは彼がつい最近受けたテストの答案用紙だった。名前の欄にはニックス・ハットと書かれている。また、無数の赤丸と百の数字がニックスの知らないうちに追記されていた。
「今回は百点さ」
ニックスと男は顔を見合わせると、どちらからともなく声を上げて笑い始めた。
「最高だ。文句なしの一位だな」
「そうだとも。僕は君を誇りに思うよ、ニックス」
男は用紙を傍らの机上に置いて、右手を差し出した。ニックスは応じて男の右手に自らの右手を絡ませて、握手する。そのまま男に手を引かれ、二人は抱き合う。
「卒業おめでとう、ニックス・ハット。『君に誉れあれ』」
男はニックスの耳元で囁いた。
「『あなたよりも誉れ高く』」
ニックスもそう囁き返す。
ニックス・ハットはこの日学校を卒業し、夢に生きようとしていた。
後ろ髪引かれるような思いもあったが、ニックスは校門の外を目指して、重い足を進めていく。何度も振り返りその度に、もう自分はここから旅立っていくのだと自分を諫めた。そんな彼の苦悶を救うように「おーいっ」と校門の方からニックスを呼ぶ声があった。
ニックスは声のする方に振り向いた。校門に居たその人物は彼の友人だった。「どうしたー」と応答し、ニックスは心持ち歩を速めて、声の主の下へと近寄っていく。
「今日でその、卒業なんでしょ。だから、おめでと」
ニックスにリーアと呼ばれた少女は、赤らめた頬を掻きながら言った。
「ありがとよ。知ってたのか」
「た、たまたまよ、たまたま。ホントに。偶然風の噂で」
手を振り、首を振り、リーアは何かを誤魔化すように言った。
「疑ってないよ。素直に嬉しいさ。正直実感がわいてこなかったんだ。先生にだけ見送られてもさ」
「えっ、卒業式とかは?」
「生徒は俺しか来ていないし、そもそも卒業式の予定自体が無かったんだ。教室でこれを貰っただけさ」
言いながら、ニックスは肩に掛けた革かばんから丸めた卒業証書を取り出した。
「それはなんか寂しいねえ。私たちの中学校時代はちゃんとしてたのにさ」
「仕方ないよ。他の皆にはやることがある。リーアだってそうだろ?」
「うん……そうだね」
「上手くいってるか?」
リーアは頷いた。
リーア・ビディ。ビディ一家は、パン屋を営んでおり、彼女はいずれ後を継ぐつもりで現在、父親を師にして研鑽を積んでいた。
「それよりニックスこそ、これからどうするつもりなの?」
「しばらくは何も変わらない。とりあえずは今んところで働きながら、考えるよ。俺の夢のために」
「昔から言ってたやつだね」
「おう、俺の誇れる夢さ」
「やっぱり教えてはくれないの?」
「内緒だ」
「それじゃあこれだけ。ここを離れるかもしれない?」
「かもな」
リーアは何事か言いたげに口を開くが、しかし結局そのまま口を閉じ、目を伏せた。ニックスはそんな彼女の様子を察して、
「心配するな。こっから出て行くって決まったわけじゃない。少なくとも今から出て行くってことは無い。あくまで可能性の話さ。フランクのおやっさんが焼いたパンは美味いしな。しばらくは離れられそうにないって」
笑みを浮かべながらニックスはリーアの肩に手を置いた。ニックスを見上げながらリーアは、はにかむように微笑んだ。
「ありがと。卒業のお祝いに一回くらいなら私の手作りを奢ってあげる」
「いつか食わせてくれた苦いレーズンパンはもういらないからな?」
ニックスがそう言うと、リーアは頬を膨らませて、「もう十分上手く焼けるよ」と呟いた。
「そいつはよかった。だったら期待しておくさ」
「うん……。そういえば、今日この後どうするの?」
ニックスは「そうだなあ」と少し唸って、
「取りあえず皆に挨拶回りぐらいはしようかと思ってる。今日まで色んな人に世話になったからな」
「そうなんだ。それだったら私も付き合うよ、今日は休み貰ったから」
「何言ってるんだよ。せっかくの休みなら、もっと有効に使えよ」
「散歩がてらよ。これ以上に良い使い方は思い浮かばないかな」
「ふーん、そう。まあお前がいいなら。それじゃあ最初はトールのとこにでも行くか」
「えっ、トール?」
リーアは眉をひそめた。
「どうした?」
「改まってトールに何を言いたいの?」
「感謝と報告」
「わざわざ?」
「親友だ。メシのこととかもよく世話になったしな」
「そう」とリーアはバツの悪そうに彼から目を逸らしながら「私、やっぱりやめとくね」と続けた。
「なんだよ。トールと会うのはまずいのか?」
「よ、用事を思い出したの。買い出し」
「手伝おうか?」
「ああいや、いいの。えっと、いいの。うん」
もごもごと口を開き閉じしながらリーアは後ずさりして、「じゃあね」としまいにはニックスに背を向けて、駆け足で離れていった。
「おいおい」
一瞬呆気にとられていたニックスだったが、すぐに、離れていくリーアの背に向かって「また後で店に寄らせてもらうからなー」と声を張り上げた。リーアは振り返らず、ただ片手を挙げるだけだった。
「忙しいんだな、あいつも。おっと?」
リーアの姿が見えなくなった頃、ニックスはあることに気が付いた。いつの間にか校門の外に出ていたのだ。
ニックスは振り返って校舎を仰いだ。
「さよなら、我が愛しき学び舎よ。なんてな」
そう呟き、口笛を鳴らしたニックスは、校舎に向かって軽く頭を下げた。
太陽が頭上にあるその波止場には一人の男が居た。肌の日焼け具合からも分かるように彼は大抵いつもそこに居て、釣りをしている。男に近寄り、ニックスは声を掛けた。
「よう、トール。釣れてるか? そのゴム靴が釣果か?」
トールの傍にはクーラーボックスとゴム靴、その他諸々の道具類が置いてあり、殊更目を惹くのは煙を立てている七輪だ。しかし、ニックスからすれば見慣れた光景だった。
「ここでゴム靴が釣れると知ってたんなら、俺は雑貨商のおっさんにカモられたってことだな」
トールの返事にニックスは笑みを浮かべつつ、海に足を投げ出して、トールの左隣りに座った。
「そろそろ来ると思ってたよ。卒業おめでとう」
「ありがとよ。お前のおかげさ」
「フフン、そうだとも。あの日、ボコられてた俺はお前に助けられた所為で、こうやって貢ぎっぱなしさ」
軽く笑いながらトールはそう零して、七輪の上に横たわらせた魚の串焼きをニックスに差し出した。
「まったく惚れた弱みだな」
そう言ってニックスは受け取った串焼きにかぶりついた。
「ぬかせ」
挑発的な口調に反して、トールは傍らに置かれた水筒の中身をコップに注いでニックスに突き出す。ニックスは軽く会釈して受け取った。
「いい焼き加減だろう。そういや、リーアには会ったか?」
「うん、旨い。会ったよ。よく分かったな」
「何日か前にお前の卒業式のことを聞かれたからな。もしかしたらと思ったんだが」
なるほど、噂の根源はこいつだったかとニックスは心中で呟いた。
「しかし、わざわざ来てくれたんだ。情が深い奴だよな」
「情か。何の情なんだろうねえ」
トールはワケあり気に口角を吊り上げ、愉快そうに喉から小さな笑い声を上げた。
「なんだよ」
「いやいや、何も」
そう返すトールだったが、やはり笑うことをやめない。
「そういや、お前、アイツと何かあったのか? 俺がお前に会うって言うと急に付いてくるのをやめてさ」
「さあ?別に思い当たる節は無い。……来ればよかったのにな。存分にからかってやったのに」
そう言うとトールは頭に乗っけているキャップを目深に、先程よりも強い調子で笑い声を上げた。ニックスは不思議そうに横目でその様子を見ながら、串焼きを口へと運ぶ。
しばらくして、ニックスは串焼きを平らげた。そうして、コップの水を口に流し込み、「ごちそうさん。また来るよ」とトールに告げつつ、立ち上がった。
「メシの世話ぐらいならまたしてやる」
「今度は俺が何か持ってきてやるよ」
「俺は別に食いもんに困っちゃいない」
「意地の問題だ」
ニックスがそう言うと、トールは彼を見上げた。しかし、ちょうどその時、釣り竿が揺れたので再び視線を海の方へと向け、釣り竿を引きつつ、「あまり無理すんなよ、ニックス」と言った。
「無理だって?」
「ああ、まだ稼げる職に就けてないんだろ?」
「そうだけど。そんなやつはこの国じゃごまんといる。お前だってそうだろ?」
「俺は今の生活に過不足も無い。でも、お前には夢があるんだろ?」
「知ってるのか? 俺の夢」
「知らねえよ。内容は教えてくれないからな」
「ああ、内緒だ」
「チッ。この、恥ずかしがり屋、め!」
強めたその語尾は気合を入れるためだったのだろう。立ち上がったトールは一息に釣り竿を引き上げた。糸の先には獲物の姿があった。
「おお」
獲物は二人の顏の前で蠢いていた。二人は一度相手の顔を見合わせたのち、すぐさま獲物の方へと再び目を向けやる。
「タコだ」とトール。
「タコだな」とニックス。
釣り糸の先では、鱗のない獲物が八本の脚を自在にくねらせていた。二人はしばらく茫然としていたが、やがて、
「このタコめ。さっさと見付けろよ」とトールはニックスをそう罵り、励ました。
二人は同時に笑い声を上げた。
その後ニックスは、自分が働いている町の組合所に、懇意にしている惣菜屋に、服屋に、理髪店に、滞納している一ヶ月分の家賃についての交渉も含めてアパートの大家に、それぞれ高校卒業の報告をして回った。ニックスに対して皆が祝いの言葉を投げ掛け、時には祝いの品を手渡した。
一通り挨拶回りを終えたニックスは、アパートの自室に立ち寄り、かばんと貰い物を下ろして再び出掛けようとしていた。最後に、リーアの勤めるパン屋に赴こうと思っていたのだ。
ドアに鍵を掛けて、歩き出そうとした矢先だった。突如、スボンのポケットに入っているケータイが鳴り出した。
ニックスは取り出したケータイの画面を見た。彼の知らない番号からだった。ボタンを押してケータイを耳に近づける。
「もしもし」
「ニックス・ハットさん、ですよね?」
「そうだけど?」
「ご卒業おめでとうございます」