舌鼓を打つ
「私は、国に帰ろうと思うのだが」
リヒトの経過が良好なのを視認し、テトラが宣言した言葉に、一同が忘れていたかのように呆けた顔になった。
それだけ、この獣人の集落は居心地が良すぎた。
宿屋といった施設は勿論、水は綺麗で美味しく、ライ麦を初め穀物や新鮮な野菜もある。それらから造られる調味料も豊富であるから、料理も美味しい。
獣人の集落であるから、『肉』はどのような扱いになるのかと思っていたが、『鶏肉』は出てきた。当然、『鶏卵』も食べられる。
シーナに確認したところ、リアの前世で言う『鳥類』は、獣人の種族として存在しないらしい。リアは会ったことが無かったが、鳥の翼を生やしているヒトに似た者が居れば、例外なく『異人』なのだという。
今も正に宿屋で出された食事に舌鼓を打っていたところだ。
食卓には、クリームシチュー、ライ麦パン、シーザーサラダとパンナコッタに似た料理が並ぶ。
多種多様な食事なので、集落は他文化を多く取り入れていたのだろうことは明白であった。
カレーライスに似たモノが出てきたとき、リアとアイが歓喜のあまり絶叫したのは割愛する。
食事だけではない。生活水準を下げているという施設・設備もリアには馴染み深いものが多かった。
獣人の集落のこと、歴史は、未知だ。
「なんだその呆けた顔は、まさかここに永住するつもりか?」
腕を組みながら溜め息吐いたテトラに、リアは乾いた声で笑った。それは素晴らしいなと思ってしまったのは隠しきれない。
「帰るなら、オレとウィリで行くよ」
立ち上がりながらアイは応えたが、「まあ、待て」とテトラはそれを往なした。
「今すぐ、では無い。さっきも言ったとおり、ここに戻るつもりは無いからな、準備をしてからだ」
彼女の言葉にリアと他の面子の顔色が変わる。
そうだ。その方が良いのだ。
思えば随分と、この集落・獣人たちにお世話になってしまった。閉鎖的で、ヒトと交流が少ない状態であるのが、嘘であるかのようにリアたちは甘受している。
テトラが敢えて、『戻らない』と宣言している重みを感じざるを得なかった。
この土地の平和を乱したくない。
この土地は平和であるべきだ。
――ヒトなどに知られるべきではない。
「そうだな…俺も、もう大丈夫だと思う」
リヒトが同意するように発言したところで、テトラは「まてまて」と今度は掌をこちらに向けて制止した。
「お前たちはもう少しここで厄介になれ。実は あぴす と話をつけているのだ。馬の獣人が私を最寄りの町へ運んでくれることになっている。私はそこから独自で帰るつもりだ」
「そんな、危険ですよ」
リヒトが空かさず応えたが、ルートから話を聞いていたリアは、そうは思わない。
『世界を旅した』ことがある彼女だ。リアたちの知らない伝も、業も有るのだろう。それに彼女は近誓者だ。
「何が危険だ? やろうと思えば、何だってできるのが私だ。やっていないだけだがな」
テトラの自信ありげな発言に、リヒトは自分の胸元に触れる。
リヒトのエメムを消失させたのは、他でもない彼女だ。浮き出ていたエメムの結晶に、『ジェット』と名付けて命じたあのできごとは、一瞬であった。
「それで、本音は?」
リヒトが沈黙するのに合わせて、アイが言った。細い目をしてテトラを睨み付けている様な形だ。
「本音?」
彼の発言と様子に、テトラは実に面白そうな顔をして呟く。彼女は本当に駆け引きが好きな人なのだ。
「『あぴす と話をつけてきた』んだろ。馬を走らせる対価があるはずだ」
「察しが良いな。だが、我々は世話になっている獣人たちに、支払わなくてはいけない大きな代価がある。私の件も含め、相殺できるであろう朗報を、私は持ってきてやったぞ」
愉しそうに語るテトラに、リアは嫌な予感しかしなかった。予感というよりも悪寒だ。彼女の瞳の奥で見え隠れする好奇心は、身分が高いモノが持つ無理難題ともいう。
「元々大型であったクモの化物が近辺に潜伏している。獣人で倒せないわけではないのだが、彼らは術式が使えない者が多いし、基本素手だ。そのクモは体毛が全身を覆っていて、その毛を飛ばして攻撃するらしい。実に愉快だな。毛が皮膚に刺さると針の様で、かなりの激痛に襲われるし、腫れ上がる。な? 獣人が手を焼く化物だ。退治してくれるなら最高だと、あぴす は言っていたぞ」