道中
リアがテトラに教えたことは主に三つ。
一つは、空気。
二つ目は、体液。
三つ目は、細胞だ。
空気は、術式の属性が風(と水)であるテトラには理解しやすかったらしい。シーナたちとの移動中、呼吸ができるようにしていたのは彼女たちだ。
ただし、『結果』を理解できても『理由』が分からない。
リアが教えることは正に『理由』であったが、通常の視力では捉えられないモノばかりなのが歯痒い。
『私』が学生だった頃に学んだことは一通り伝えたが、『実験』でもできれば違ったのだろうな、と悔やむ。同時に『実験』とういう授業はやはり必要なモノなのだとも痛感した。
テトラは「分かった」と応えてくれているが、正直、『私』も理解できているのかは怪しい。直近の学生時代といえば大学だが、専門は法学であった。『法医学』は学んだが、司法解剖の話が主であったし、選択科目として『科学』は習ったが、高校時代の補填程度であった。
特に『科学』こそ、見えないモノの話だ。「ふーん、あっそ」と思い、眠る学生が多い中、そういう者に限って『私』が記述したノートを漁ろうとする。
――話が逸れた。
よって『私』は、自身の知識と理解が乏しい中、テトラに説明しなくてはならなかった。
テトラが一番関心を示したのは、意外にも細胞であった。細胞――正確には、私たちを構成している物質――その最小単位に興味があるようだ。
この世界では、人間は『肉体』『器室』『魂』『精神』『ルーアハ』でできていると説かれている。
「ライオネの話どおりなら、肉体に刃が通るのは必然だ。何故なら我々は最小の物質が偶然にも纏まっているのだから。そこを上手く絶ち切れば良い。そして治るのも理由がとおる。だが、面白いのは元には戻らないということだろう? 離れた時点で物質が異質になるわけだ。つまり、完全な同物質は作れない。逆に生きている物質以外の物質は絶ちきられたらほとんど終いだ。繋がりが強固故に刃が通り辛くかつ直らない。…そう考えると通す刃はすごいな。とにかく、私はソレをルーアハがあるかないかで区別できるのではないかと思うのだ。な、理に適っている」
ルーアハが無くてはただの肉塊だと言いたいのだろう。
しかし、テトラの持論を聞き、『私』は物理で習う四つの力の『強い力』を思い出していた。彼女の言葉どおりなら、ルーアハは、肉体と魂・精神を結ぶ強い力となる。辞典に載っている『ルーアハ自体の力は皆無に等しく、強いて上げるとすれば肉体を動かす切掛けである』といった謙遜な存在とは到底言えない。
「肉体から離れたモノは既に異質なのだ。だからこそ『戻らない』。私の『命令』は通らないのだ。よって、死から生へは『戻らない』。先程と論じたとおり『生きていない物質』は『終い』だ。……どうだ? 納得できる」
テトラは過去に死んだ実母を生き返らせようとしたことがある。彼女の命令は『物質』でも働くことは立証済だ。
しかし、たとえ元は生きていた『物質』であっても、生き返らせることはできない。
『物質』は既に『異質』になっており、元には戻らないから。持論で納得した彼女は、うんうんと頷き、そして「良かった…」と呟いた。
確かに『死者』を生き返らせる行為が可能であったら、彼女は都合の良い道具にされる。
自分への危険性が無くなった安堵かと思っていたが、続けられた言葉でその思考は浅はかであったとリアは知る。
「…私は母を救えなかったわけでは無かった。そして、リヒトならば救えるだろう」
自信満々で宣言するテトラは、今まで見てきたどの権力者の言葉よりもリアは――『私』は感動した。
***
野宿が続いたが、それでも道中、村や町が無かったわけではない。テトラとアイは元々他国へ入る旅券や査証を所持しており、リアたちもテオスの伝で得ていたため、それこそ国境を越える手続きすら苦ではなかった。
旅をしてリアは気がついたことがある。
どの国も言語は共通であることだ。
前世は使用人口の多さから、英語が主流になりつつあった世界であったが、その様な『特定の国』が使用していた原語では無いらしい。
考え得るのは三つ、①使用していた国が既に滅んでいる ②前世でいう世界共通言語として作られた『人工言語』 ③異人たちの言語 …この中で一番可能性が高そうなのは、③であった。
なぜなら、今まで出会ってきた数名の異人たちと言語の齟齬がないからだ。また、①と②の可能性が低い要因は、この言語に『名前』が付いていないことが大きかった。
だからこそ、現世界のことをより知るための情報収集は安易であるだろう。
だが、テトラはこの野宿生活が気に入っているらしく、宿屋には全く足を運んではいなかった。
…しかし、その考えが誤っていたことは、彼女に向けたアイの発言で気がつくことになる。
「テトラ、ウィリに遠慮しなくてもいいんだぞ?」
「私がなぜ、獅子に気遣いをする必要がある?」
「……ああ、じゃあ、オレに気を遣わなくてもいい、だ。テトラもそうだけど、リアも女の子だろ、いろいろあるんじゃないのか?」
「三十手前の婆さんに女の子ときたか」
声を上げて笑い始めたテトラに、アイは眉間に皺を寄せながら首を傾げた。二人の様子を遠くから見ている者たちはどう反応すれば良いか悩むしかない。
テトラがウィリディス――アイを気遣っているのは正しい。獅子を街に入れる訳にはいかないので、必然的にアイが外で待つことになるのだ。
下の者が野宿する中、上に立つ者として、与えられた食事をし、寝床で休むなど、自尊心が赦さないのだろう。たとえ、代価を支払っていてもだ。だからこそ、彼女はこうもはぐらかすのだ。
そして、テトラの発言もまた正しい。
リアの村では十三でほぼ大人の扱いをされているとおり、リアも充分大人である。女性であるため、地位という面では低く、彼女の記憶の欠落からも子ども扱いされているが、その点を見ればそれこそテトラは立派な大人の女性なのだ。
そして、この世界でヒトの平均寿命は六十そこそこ。アイを除けば、リヒトの父親とグラベル、そしてアダマス国王は、明日にでも老衰で死去して不思議ではない年齢である。ルートなどそれこそ生きている死人だろう。
しかし、アイは首を傾げるのだ。
「何歳でもオレにとっては、テトラもリアも女の子だぞ?」
きっとアイなら、ルート程の歳をとっていても『女の子』なのだろうとリアは思う。その気持ちはリアにも解せる。彼女だって敬えど、グラベルたちの方が話しやすいのだ。テオスに好意を向けられているのは流石に気がつきつつあるが、身分と精神年齢から『無い』と思っている。
「お前の物差しで測ろうとするな。まったく、それで、女の子だと何だと言うのだ」
テトラが溜め息混じりでアイに抗議するが、「え、何でオレ怒られてんだろう」と彼は呟き、リアに視線を移し助け船を求めた。
アイの言わんとしていることをリアも察していたが、上手く説明できる自信は無い。遠回しではなく、正直に伝えるのが良いのだろうか。アイとリヒトの目の前で。
「アイさんがいろいろ心配しているのは、わかりますが、テトラ様は対処されてると思いますよ」
「ライオネの言うとおりだ。身体も服も術式で清潔に保っている。月経中だが、こんな毎月来るもの何とも無い……ん、待てよ。そういう意味かアイ?」
包み隠さず話すのは貴女かい…とリアは思いつつ、赤面しているリヒトを除いてその場の人間が真剣な表情になる。そうか、とリアも納得した。
「ライオネ、そなた、次の月経はいつだ?」
「わ、私ですか? 王都からウェイストに向かう間に終わりましたので…あ、でもそろそろですね」
テトラがリアに訊ねたことで、リアも不安になる。テトラが月経中なのは同じ女性なら勘づいてはいたが、女性でなくても気付くことはできる。
動物の嗅覚だ。
イヌ科はもちろん有名であるが、イヌ科がネコ目イヌ亜目に分類している以上、当然姉妹群のネコ亜目のネコとライオンも嗅覚は良い。シーナはリアと過ごしていたから慣れているかもしれないが、男性陣と暮らしていたウィリディスには、経血の匂いは辛いのかもしれない。
アイは自身とウィリディスを気遣っているつもりであったテトラに、『女の子』だからという建前をもって、随分遠回しに意見したのだ。
そこまで考えてふと気がついたが、もしかしたらアイも嗅覚……とくに血の匂いには敏感なのかもしれない。逆にリヒトが気づいていなかったのだとしたら、彼はまだ『大丈夫』だ。
「…すまなかった。確かに私なりの気遣いであったが、逆に迷惑をかけていたのだな。その様な穢れが背に乗っているだけでも不快だっただろう」
テトラが告げたところで、シーナが前に立ち、屈みながら提案をする。
「恐れながら、これからは私がテトラ様をお運びします。次の街では宿で休息を…リアもそろそろとのことですので、その際は都度対応いただければと。また、めぇるかいへももう少し速く到着できるように努めたいと思います。めぇるかいは全ての感覚が平等になる空間、獣のウィリディスはもちろん、リアとテトラ様が月経中であっても獣人たちへの影響はないかと思います」
「ああ、そうさせてもらう。本当に女とは面倒な生き物だ。なぁ、ライオネ」
同意を求めてくるテトラに苦笑しつつ、リアはそれでも女性の身体は神秘的だと思っていた。
――めぇるかいへの道程は、実に恐ろしいことに六日で着いたのだった。道中、虫や植物の化物に遭遇したが、この場では割愛する。