神が屍に 人として活きたモノ
テトラは席を立つと傍の壁まで近付き、数歩手前で止まった。
何の変哲もない真っ白い壁は、恐らく漆喰できている。テトラはその目前で腕を組むと、今まで以上に低い声で命令した。
「お前は『ベルン』だ。ベルン、お前はネズミに寛大だ。彼らが通る穴を空けろ」
瞬間、壁の足元に小さな穴がぽっかりと空く。リアとアイが驚嘆の声を上げると、彼女は続けて『ベルン』に命じる。
「ベルン、お前はネコの味方でもあったのだな、また穴が一回り大きくなる。おや? 心が広いお前はとうとう人一人を受け入れるようだ」
穴は広がり、やがてはテトラを難なく通す大きさになる。側に壊れた壁の破片がなければ、元々空いていた道だと勘違いするだろう。
「…こんな感じだな。それで、お前らは代価に何が支払える?」
二人に向き直りテトラが言った。その言葉に逸早く反応したのはアイだ。
「術式と違い、力は気などを消費しないはずだが」
「馬鹿か。なぜ私が慈善活動をしなくてはならない。もし本当に体内のエメムを消せるなら私は世界の救世主だぞ? コレから先、何千何万の人間のために無償で浪費しろという気か。私の時間は私だけのものだ。それは貴様も同じだろう」
テトラの意見は正当である。彼女だけではない。彼女と同じ能力を持つ者は、皆収集され酷使されることになる。エメムに感染しても治せるなら、人々の警戒もいつかは無くなる。そして無謀な行いをした結果、感染者と化物は増加。彼女たちの仕事は永遠に終わらない。
―――その様なことを『させるな』とテトラは言っているのだ。
それでもして欲しいなら、相応の『代価』を支払う必要がある。これはリヒトのためではない、国の、世界のためなのだ。
「……代価は、私と感染者で支払います」
「ほう、いくらだ?」
テトラは腕を組んだまま、発言者のリアの前まで歩いてくる。彼女の横に立つと、リアもまた立ち上がりテトラを見上げた。
「私たちが死ぬまでずっと――化物退治の依頼を受け持ちます。化物退治に私たちの時間の一部を捧げます」
想像していなかったのだろう。アイは勿論、テトラも目を見開いていた。
アイは何かを言いかけ口を開いたが、即座に閉じて唇を噛み締める。彼が言いたいことはリアにも分かっていた。
リヒトの意思を確認していない、と。
だが、想像したら府に落ちてしまう。リヒトは絶対に同意する。その様な男だ。彼の夢の根源は『護ること』。騎士は飽くまで理想形態の一つでしかないからだ。
「一部?」
テトラは組んでいた手を解くと、リアに向けて掌を上に向け、両腕を広げて示す。もっと寄越すべきだと示唆していた。
リアは即座に読み取ると、頭を下げつつ言葉を続ける。
「一部でお許しください。私たちにも生活があります。生きていくためには稼がなくてはいけません。長命し、代価を支払い続けるためにも――」
反旗の意思はないこと、いかに自分たちがこの組合、強いては国に対して役立つかを主張する。リヒトの実力は勿論、リアが化物を退治したことは知られているはずだが、その説明が必要ならば辞さない。
「ふふふ…はははっ、気に入った! 交渉成立だ。流石テオスが認めただけのことはある女よ!」
広げていた手を腰に当て、テトラは笑いながら了承した。
「さて、では後日、契約書でも交わそうか。その感染者とも話したいしな。久しぶりに城へ行こう。追って組合を経由して連絡する」
「なら、明後日以降が良い。こっちにも準備があるからな」
テトラの提案にアイが付随する。準備とは『テウルギア』のことだろう。シーナがウェイストに到着し、フロイドが来るまでの日数を彼なりに計算したようだが、少なすぎないかとリアは思った。
――最悪テウルギアが無くても、契約は進められる。テトラの力を借りることが可能であるという証が欲しいだけなのだ。
「了解した、では明後日以降で」
テトラも了承し、元居た席に座り込む。
内容はされど、気持ちが良いほど話の流れは進んだ。
安堵しリアが緊張を緩めたところ、軽快な金属音が鳴り響いたため、彼女は筋肉を再び強ばらせる。その動作が可笑しかったのか、テトラは笑いながらも初めて謝罪を口にした。彼女の手には音源であるハンドベルが握られている。
「すまない、茶でも用意させようと思ったのだが。あ、予め断っておくが珈琲は無いぞ」
テトラの言葉の本質が分かり、リアは顔を歪めた。本当にテオスはどこまで彼女には話しているのだろう。
ベルの音が鳴ると直ぐ、部屋に女性が入ってきた。その姿は所謂『秘書』そのもので、ここが彼女の『職場』であるのだと再度実感する。
彼女が王女ならば、入ってくるのは使用人の筈だからだ。
「では、濃い目の紅茶をお願いします」
「良かったな、ダリア。稚拙な作法で事足りるぞ」
「それは貴女のことでしょう」
リアの注文に皮肉を交えてテトラが指示する。ダリアと呼ばれた女性は溜め息と毒舌を吐くと、入ってきた時のようにすばやく部屋を出ていった。
ダリアはテトラが王女であることを知っているのだろうか。知っていてあの態度ならば、友好親密な関係か、ただの勇者かどちらかだ。
二人を観察していたところ、隣に座っていたアイが突然席を立った。どうしたのだろうかと、リアが彼の顔を覗き込むと、その黒い瞳の表面が橙色に発光している。『共感』だ。
「悪いけど、急用ができた」
『共感』を解いた顔がリアを見つめ、次にはテトラに頭を下げる。テトラは「かまわん」と許可し、組んだ手を崩しながら言葉を続けた。
「お前のお姫様は組合が責任を持って送り届けよう」
「ああ、信用してる」
思わぬ返答にテトラは目を見開く。それはリアも同じであった。
――やはりアイは、とても寛大で優しく、そして甘い人物だ。