ヒトの化物化とは
「アイ、エメムのことなんだけど…」
「ん?」
リヒトがアイに声をかけると、彼は硝子の近くに寄り、耳を傾ける。
配管等を伝ってリヒトの声は届くのでその行為には意味がないのだが、リヒトへの好感は当然上がった。「敵わねーな」と小さく呟いた後、笑顔でアイを見つめて続ける。
「できれば、二人で話したい…良いか?」
「二人で?」
「分かった。ルート様、別途お尋ねしたいことがあるので、さっき言っていた別室に案内していただけますか?」
アイが応えるよりも先にリアが答え、ルートに尋ねた。
ルートは頷くと直ぐに立ち上がり、近くの扉へ進みながらリアに「こっちだ」と声をかける。
リアは「はい」と返事をすると、残された男性陣を目で合図をしてから彼の後を付いていった。彼らが向かった扉は、この研究室では珍しく木でできていたため、閉まる時はとても軽い音であった。そのためか、二人の空気は重くならずに済む。
「それで…」
「あ、ちょっと待って、オレそっちに行くから」
リヒトが口を開くと直ぐに、今度はアイが遮る形で言いながら硝子伝い扉に向かった。
リア、シーナといい、入ってくる人間が『感染しない』という事実はリヒトにとって救いである。
だが、この目の前の男性は『感染者』なのだ。
自分は彼と同じはずなのに、ここまでの人間になれるだろうか、とリヒトは考える。
「おまたせ」
ルートの術式で開く重い扉を、アイは軽々と開けて入ってきた。
その事実に当然リヒトは驚くが、当時にエメムに感染するとはこういうことなのだとも思い知る。リヒトもいずれ、自身を繋ぎ止めている鎖を容易に引き千切るのだろう。
「それで、エメムのことって? ルートさんから聞いてること以上で話せることがあるかわかんないけど」
「……エメムに感染したヒトがどんな化物になるのか」
想像していたよりも重い言葉に、流石のアイも表情が硬直する。
確かに、この世界でエメムに感染し崩壊したヒトの数は少ないので、その正体を知る人間は僅かだ。それこそヒトではルートとアイ位かもしれない。
ルートの性格上、リヒトに告げることは無いだろう。
リヒトは自分が崩壊する可能性を予想している、否、なった場合の周りの心配をしているのだと、彼の表情でアイは悟った。だからこそ、包み隠さず話すと決める。
「…テウルギアを身に付けなければ化物化は進む。でも、虫の様に巨大化することは無い。けど大きな傷や怪我は修復・再生されるし、老化や寿命は無くなる。簡単には死ねなくなるんだ。進行具合は人によるけど、最終的には知能が低下して人間を襲うようになる。食べるんだ」
「たべる…」
「最初は喉の渇き――多分エメムが新しい……いや、新鮮な……えっとリアはなんて言ってたかな、金属たんぱく? を欲するんだと思う。最初は生き物の血液を、最終的には肉を求めるようになる。えっと…吸血鬼から…食人鬼になるんだ」
聞いたことがない単語にリヒトが首を傾げる。恐らくヒトが化物化した時の名称なのだろう。しかし、馴染みが無いということは、そこまでの存在に至ったヒトが余りいないということか。
「その前に…処分ができるってことだな…」
「ああ、極初期なら頭を破壊するか切り離せば死ぬ。最終的には頭も再生しようとするから……燃やし尽くすのが一番だけど」
通常の化物の処理と同じだ。リヒトの場合、偶然行っていたこともあったが、最終的にはほとんど燃やしている。
自身の得意な炎だが、流石に自殺に使えるかは分からない。――否、アシダカグモで行った方法を、自分に向ければ良いのか……
リヒトは思うが、知能が低下してしまっては行えないかもしれない。
「吸血鬼から食人鬼になる流れは早いのか?」
「…頑張れば七年程はそのまま生活できる。渇きを潤すのも必ずしもヒトの血液に限らないし…オレとしては食人鬼になったら完全に崩壊だと思ってる」
「ヒトを食べなくも大丈夫なのか」
アイの意外な回答にリヒトが瞬く。アイは頷きどこか遠い目をしながら続けた。
「うん。オレの母さんはネズミとか…鳥とかの血液を代用してたよ。勿論、吸殻は完全に燃やしてたけど…」
病院等から輸血用の血液パックを盗んだり、譲ってもらっていたりしたことは内緒にしようと、アイは思う。この世界では輸血という手段は無いのだから、存在していないモノを伝える必要はない。
だが、記憶ではやはり、ヒトの血液を摂取した方が母親の崩壊度合いは少なかったのだ。彼にはこれ以上の知識が無いので、後でリアに確認しようとアイは思う。
「テウルギアを身に付けると渇きとかは抑えられるのか」
「勿論、でも抑えられないモノもある」
リヒトは一先ず安堵するが、続く言葉に神経を巡らせた。それが分かったのだろう、アイはその緊張を和らげようと、笑顔になりながら言った。
「吸血鬼、もしくは食人鬼は、嗅覚、聴覚、視覚、筋力が向上するんだけど、テウルギアはそれらを抑えることができないんだ」
「え、それだけ?」
「ところが、これが結構厄介なんだ…自分の感覚を我慢するのは当然だけど、モノを壊さないか始めの頃は不安だった。親父は(みんな)ドワーフだからそこら辺まだ平気だけど、慣れない頃はそれこそ引きこもってたよ。あと、死に辛いのも変わらないし、体液には感染力がある」
それだけ、と応えたリヒトであったが、アイの説明に納得する。同時に、リアが居た時に会話に出てきた『兵器になる』という意味を理解する。
吸血鬼や食人鬼の段階でも充分脅威であるのは分かるが、それを調整できてしまうなら、立派な戦力になる。現在、この国と隣国は和平を結んでいるが、遠国は別だ。国によっては戦争が続いている。
軍人を育成し、限られた術式の使い手を集めるよりも、エメム感染者を増やし、テウルギアを身に付けたさせた方が、確実に効率が良いし将来性もある。馬鹿でも思い付くであろう戦法だ。……ヒトのエメム感染者の話を聞かないのも、テウルギアが残っていないのも当然の結果だ。あってはならないとさえリヒトは思う。
同時にアイの存在も、己の存在もだ。
「…アイ、最後にもう一つ聞いて良いか」
「? ああ」
「アイはどれくらい生きてるんだ」
「あー…」
リヒトの質問に、アイがばつの悪そうに顔をしかめて嘆く。嘘を吐く気は無いが、リアの様に信じてもらえるとは思ってはいない。しかし、真実を告げることは正しいのだろうか。
「……さ、さんじゅう…」
たどたどしく告げるアイの様子に、リヒトが思わず吹き出した。彼の姿は、シーナと二人っきりで話したことを思い出す。そうか、自分はあの時の彼女を『かわいい』と思ったのだ悟っていた。
「いーよ、ごめん。なんとなくわかったから」
彼が辛い思いをしていないはずがない。だからこそ言葉に詰まるのだ。問題は、己にもその覚悟があるのかということ。
「でも、お願いがあるんだ」
「何?」
リヒトの呟きにアイは即座に反応する。その表情と声色から『叶えよう』という意志を感じてしまい、再度リヒトは笑ってしまう。リアが連れてきた男が、『感染者』が彼で良かったと心底思える瞬間であった。
「俺の代わりにリアを護って欲しいんだ」
「それは断る」
しかし、アイの回答は意外であった。聞き間違いかと思い、思わずリヒトは聞き返してしまう。
「え?」
「…君の代わりにリアは護れない。でも、彼女の力にはなりたいと思ってるよ」
「なら、なんで?」
「オレは君の力にもなりたいから。君も護りたいから。だから『代わり』なんてない」
宣言するアイに、リヒトはぽかんと口を開けて固まってしまった。同時に彼の『代わり』という解釈が偏っていたことにも気づく。そう、リヒトはアイを不安にさせたのだ。
「悪い、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。…俺はココから出られないから、リアが近誓者を探すことに協力できない。自分のことなのにな……。でも、アイなら信用できると思ったんだ。だから」
「! こっちこそごめん。早とちりして…でも、リヒト、君はリアにとって『大切な人』だ。それは忘れないで欲しいし、オレも同じ気持ちだ」
再び口を開けてリヒトが停止する。なんとか出せた声は「へ?」という感嘆と符であった。アイの言葉は冗談でも、偽善でも無いことはこの数分対話しただけでもリヒトは痛い程分かっていた。だからこそ、平然と告げられた内容を飲み込んだ瞬間、自身の顔が熱くなるのを自覚する。
「アイ、あんまりそういうの言わない方が良いと思うぞ…女性だと誤解される」
「? そういうの?」
「大体、俺とあんたは初対面だろ、なんでリアと同じ土台に立ってるんだ、俺…」
「…リヒト、ベレム村出身だろ?」
不意に呟いたアイの単語に、再びリヒトは目を見開く。
「そ、そうだけど…」
否、同時に考えを改めた。おそらくリアに聞いたのだろう。アイと彼女は傍から見てもとても仲睦まじかったのだ。それは、幼馴染であるはずのリヒトよりもずっと。しかし、その考えも即座に無くなる。
「今も『立木打ち』はしてるのか?」
「―――…え」
『立木打ち』とはリヒトが独自に行っている剣の訓練方法である。リアに術式のことを教えるときに案内した庭、そこが正にその訓練場であった。
地面へ垂直に突き刺した丸太を用意し、その両側を交互に木剣で叩きつけるのだ。
丸太は徐々に削れ、やがては括れた形になる。だが、この訓練はこの国では一般的ではない。叩きつける木剣も自周辺国では採取できない木からできているらしく、数年前に壊れてからは別の木で代用しているくらいだ。
木剣も含めて訓練方法とその名称をリヒトが知り、得たのは八年前。村に来た旅人兼業者であった異人。彼に付いてきていたヒトの青年に教えてもらったことが切っ掛けであった。
当然その頃リアは、父親の影響で家からほとんど出ることが無かったため、知る術はない。訓練場に来た時に、丸太を怪訝そうに見ていたのが何よりの証拠だ。つまり、アイがリアから何かを聞いた線はない。
よって――
「あ、村の大時計はまだ動いてるか? ゼンマイの。親父でも寿命は直せないからさ」
―――リヒトは確信する。
「ああああ、あんたあの時の?! え、てか、え? ……髪の色が違う!!」
彼の記憶の青年はこの国では珍しい黒髪であった。だからこそ、アイがエメム感染者で、寿命が無くなったと言われていたにも関わらず、幼い頃の記憶と目の前の彼が一致しない。
「髪を染めることなんてそんなに珍しくないだろ」
「た、たしかにそうだけど、でもあんな綺麗な黒髪を…」
リヒトの発言にアイが瞬いたことで、他人のことは言えないなと、リヒト自覚する。突っ込まれるかと彼は思ったが、反してアイはニコリと笑い、嬉しそうに「ありがとな」と応えた。
「でもこの肌の色で黒髪って、この国の周辺ではやっぱ珍しいからさ、それに今の髪の色も気に入ってるんだ」
「に、似合ってるとは思う…」
「リヒトってやっぱ良いヤツだな、八年前と変わってない。だから気づいたんだ」
続けられら言葉にハッとリヒトは思い出す。そうだ、アイに確認したいこと、聞きたいことが増えたのだ。
「あの『立木打ち』に使ってた剣の木材! どうやったら手に入れられるんだ?! アイがくれた木剣は数年前に折れちゃったんだ! あと、俺の剣術も見て欲しい! あと」
リヒトは身を乗り出し、目を輝かせて嬉々として話し出す。溢れる言葉は全て未来に繋がっているため、アイは安堵するのと同時にその勢いに苦笑してしまった。
この目の輝きも八年前と変わってはいない、恐らく彼の『夢』も。
「木は工房に少し残ってるから今度あげるよ。剣術に関しては力にはなれるかわかんないな…『立木打ち』だって、父さんのおじいちゃんがやってて、父さんから口伝で聞いただけで、父さん自身は全然やってなかったし」
「そ、そうなのか?」
「うん、父さんは釣りが好きだったからさ」
「……棒を振るトコが似てる…」
「! あ、そういうことか!」
どちらかが笑い始め、やがて互いが声をあげて笑う。不安なことも多いが、彼らは間違いなく先を視ていた。
(「術式を使いたい2」での描写を漸く回収できました…)
平成のうちに終わりませんでしたので、令和も引き続きよろしくお願いいたします。