培った経験
男がナイフを持ったままリアの方へ一歩足を踏み入れたその瞬間、閉めていた扉が音を立てて崩れ落ちた。
まるで初めから寄せ木で出来ており、接着剤が剥がれたためにバラバラになった様なその光景に、リアも男も呆然と立ち尽くすことしかできない。
消えてしまった扉の向こう――部屋の外に白くて黒い人物が山刀を持って立っていることに逸早く気付いたのは、リアだった。
「ア、アイさん?!」
呼ばれたアイは反応を返さない。
しかしその瞳は確り男を捉えていた。
彼が扉を容易に切り刻んだであろうことは明白であったが、男もリアも完全に頭から飛んでしまっている。
「やらせるかよ…」
アイの低い声にリアは驚いた。少年の様に無邪気で明るく元気な声であった彼が、今なら三十八万年生きてきた苛酷さと重みを実感できた。
「ああ、アイさんとは貴方でしたか。お初にお目にかかります。町の人たちとの話は済んだのですか?」
アイの存在を視認し、気持ちを切り替えた男が笑顔で近寄る。
勿論、ナイフは背中に隠していた。そのナイフはリアに見えており、左右に動かし何やら合図をしている。話を合わせろと言うことだろう。できなければ『コロス』と。
「…アイさん、何かあったんですか?」
「オレは何もないよ」
「そう、ですか…私は荷造りがそろそろ終わる頃で…」
「私が運び出そうとしていたところなんです」
「嘘だ」
男の言葉にアイが一蹴する。
もしや、会話を聞かれていたのだろうかとリアは思ったが、この宿屋の防音力から考え、その可能は低い…はずだ。だからこそ、男も部屋に入ってきたのだ。
アイは深く溜め息を吐き、そして言葉を続ける。相変わらず声は低く、鋭さを帯びていた。
「耳と目は良いんだ、オレ」
「…何か気に障ることがありましたか。確かに淑女の部屋に入ったのに、扉を開けておかなかったのは私の失態ですが…」
「隣国にもよく行くぜ…そこであんたの顔を見たことあるよ。組合に手配書が掲示されているからな」
「! チッ…!」
男は一瞬で表情を崩すと、隠していたナイフを取り出しながらリアへと駆け寄る。
人質にされることに気がついたリアは、抵抗にと後ろへ下がる動作をしたが、間を割るようにアイの白い背中が現れた。
余りの速度にリアも男も驚嘆する。
しかし、男はその表情のまま、持っていたナイフでアイの腹部を狙い飛び込んだ。
――響いた音は、鈍音ではなく鋭い金属音であった。
笑みになりかけていた男の顔は更に驚嘆し、即座に恐怖に染まる。
アイは刃渡り二十センチはある男のナイフを根本から素手で折っていた。
折った衝撃で宙に浮かび上がった刃先を彼は左手で難なく掴み取ると、同時に右手で拳を作りあげ、男の鳩尾に勢い良く沈めた。
その素早く重い動きに男は一瞬で身体を飛ばされ、部屋の壁に背中から衝突して座り込む。
男の顔面から血の気が引いたと思った時には、口から血の混じった胃液を吐き出して気絶していた。
酸味を帯びた臭いが部屋に広がってから、リアは何が起きたのか漸く理解する。
「ア、アイさん! 大丈夫ですか?!」
リアが叫びながら彼の背中に触れると、アイは持っていたナイフの刃を床に叩きつけて棄てながら、大きな溜め息を吐いた。
「リア、今度は無事で良かった」
コガネグモの件を気にしていたのだろうか、リアへと向き直したその顔はとても安堵している。先程までの殺気と人間離れした行動が嘘のように落ち着いていた。
「はい、私は。…アイさんも大丈夫そうですね」
正面を向いたアイの身体を確認し、今度はリアが溜め息を吐く。
宣言していたとおり彼の力は破格の様だ。今は倒された男の生命の安否が気がかりである。ヤツには確認することが山程あるからだ。
「…それより、アイさん。なぜココに? どうして状況まで把握できたんですか?」
男が何かミスを犯したことでアイに情報が漏れたのならば、リアが確認したいことを彼は知っているかもしれない。そう思い訪ねたのだが、アイの回答はまたも破格であった。
「『神に等しき劣る者』の能力だよ。オレは他人の視界・聴覚を共感できるんだ」
「え……それってプライバシーの侵害…」
「ぷら?」
「覗き見ができるってことですよね…?」
リアの言葉にアイが顔を真っ赤にして首を振る。
「オレは疑似だからか、『認識が無い』人しか共感できないんだ。だから、町の人たちやリアは無理。距離もこの町の半径位だから、町外の人も無理だよ。もうこの男とも共感できないし」
疑似近誓者とはいえ『神に等しき劣るモノ』の能力は恐ろしいと、リアは実感する。疑似では無かった場合、全ての人間と共感できるということだろうか。
「他にはどんな…」
「オレの能力はあとで説明するよ。とにかくコイツから情報搾り取ろう。それから隣国の組合に放り込む」
至極まともな意見にリアは納得し頷く。確かに今はこの状況の整理の方が重要だ。
「…ちなみに手配内容とかは?」
「ごめん、内容は記憶しきれなくて、とりあえず姿絵だけ覚える様にしてるんだ。名前もわかんない」
アイの記憶保持能力では確かにそれが限界だろうと、リアも察する。むしろ、彼が顔を覚えていたことが奇跡だと思われたが、『町』に危険が及ぶかもしれないものは把握しているようだ。
勿論、多くは水面下で処理している。
彼は工房での造形以外に、指名手配犯を捕らえる癖があるのをリアは知った。