漢字と意外
「猿の惑星だったんだ…」
ポツリと呟いたリアの言葉にアイは首を傾げて尋ねてくる。
「それ、どういう意味だ?」
リブートもされているこの有名な洋画を知らないと言うことは、アイはもっと後の時代の人間なのだろう。
彼は途方もない歳上だと思っていたが、それよりも『私』は昔の人間なのだと思い知らされる。
先の話に出た『レギオンの発生』を改めて聞いても分からなかった時点で、確定していた事実であった。
レギオン(の発生)とは、世界規模で発生したヒト暴徒化のことであった。
発生当初は名称が無く、日本では『ソレ』等と呼ばれていたらしい。
食人鬼の様に理性を無くし、ヒトを襲って暴力で殺す。変異の原因は不明であったが、何故か『モンゴロイド』の東洋人がレギオンになりやすく、伝染病として恐れた他の人種により、健常者も含めて隔離等されていた時期があるらしい。
アイはその隔離時期の少し前に日本で誕生した。両親共に日本人であったが、父親とはあまり過ごした思い出が無い。
母親がエメムに感染した明確な時期も不明だ。
「正直な話……あまり詳しく覚えてないんだ…」
アイは面目無さそうに告げる。
三十八万年以上生きてきた彼には、記憶をずっと保持するのは難しかった。
忘れないように紙に記しても、何千年も経てばその紙は劣化して消失する。だからこそ、本当に大切な知識や思い出だけは自分の脳内に残そうと、繰り返し、必要ならば思い出して書き起こす。そしてソレを何度も読むのだ。
「レギオンのことも覚えてられるのも…父さんが少し変わったレギオンになってしまったから…でもさ、絶対に忘れちゃいけないことがオレにはあるんだ」
「テウルギアのことですか?」
大きな声で言ったアイに、リアは回答したが、それは間違っていたらしい。彼は笑いながら首を横に振ると、更に大きな声で言った。
「オレの名前は『マコト』。『アイヤマ ヨリ』と『ヒカリ』の息子『アイヤマ マコト』なんだ」
嬉しそうに笑う彼に、リアは思わず笑顔を返す。その正に日本人な彼の名前に、大きな安堵が戻ってきた。
「漢字はどう書くんですか?」
思わず聞き返したリアの言葉に、アイは目を大きく開き、そして今までで一番の笑顔を見せる。
「漢字なんて本当に久しぶりだ。って言っても、自分の名前しか書けないけど」
アイはカウンター奥から鉛筆を取り出すと、その机に自分の名前を書き込み始める。
鉛筆が置いてあった場所に消しゴムも見えたので、後で絶対に購入しようとリアは心に決めた。
その様なことを考えている間、アイは書き終えたらしい。余り自信が無いのだろう。チラチラとリアを伺う様子が何だか可愛い。
しかし、リアにはっきり読めた。
『相山 鏡人』
「素敵な字ですね…」
自然と漏れた感想に、アイが明らかに照れて顔を背ける。ああ、一番、子どもらしい表情だと、リアは思った。
「では、『私』の字も教えますね」
アイの鉛筆を借りて、慣れた手付きでリアはそのまま机に漢字を書き込む。
前世の名前を書くことも、見るのも恐らくコレが最期――。決別と決意の表明であった。
「? なんて読むんだ?」
アイは『私』の名前の漢字を読めない。
「一度しか言いません――覚えておいてくださいね」
「それ一番の難問なんだけど……」
リアの言葉に、アイが眉間に皺を寄せながら顔をしかめる。だんだんと額の皺まで刻まれていく様子は流石に可笑しかった。
「ふふっ、『私』の名前は―――――――」
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「そう言えばリアも日本人だったんだな…」
リアの名前の漢字を見てから、思い出したようにアイが呟いた。彼のその結論に、長い人生の記憶の欠落から当然かとリアは思う。
「――漢字を使う国は日本だけじゃなかったんですよ?」
「そうなのか? じゃあ、リアは日本人じゃないのか?」
ここで日本人じゃ無いと嘘を吐いても仕方がない。『私』は日本語しか喋られず、日本から外に出たことのない生粋の日本人なのだから。
「日本人ですよ」
「そっか……オレと同じ……。嬉しいや」
お互いの素性を明かしてから、互いの笑顔が子ども染みていることに気づいてしまう。
秘密を共有し、漏洩の厳守を誓うのは子ども特権の遊びだ。そして大抵守られない。勿論、針を千本飲む方だ。
二人とも大人なのだから、守りたいものだ。
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「親父なんだけど、戻ってくるの…あと三日は、いや、ウィリが居ないから五日はかかると思うんだ…」
テウルギアのことはアイに全て聞いてしまった。リアはリヒトに確認し、彼に選択を迫らなければならない。それは当然、早急の方が良い。
「直ぐに戻りたいのは山々なんですが、流石に挨拶なしで帰れません」
それがリアの結論であった。実は手土産も持ってきているのだ。今回は様子見のつもりだったので町に置いてきたのだが、傷みモノではないとはいえ、できればフロイドに直接手渡したい。
「そっか…じゃあ、ウィリのケツ、ひっぱたいてくるかな」
顎に手をかけ、アイがニヤリ笑った。文字どおりひっぱたきに行くのだろう。ますます子どもっぽくなったアイに一抹の不安を覚え、リアが助言のごとく言葉を続けた。
「でもウィリさんも理由があって戻ってきたんじゃ…」
「確かに、理由くらい聞いてくるか。もしかしたら毛皮を傷付けたのかもしれないし…」
「…毛皮?」
アイの言葉が理解できず、リアは首を傾げる。自分の愛猫シーナは獣人だ。彼女を見ていれば分かることであるし、彼女も言っていたとおり、獣人は傷の治りが速いのだ。獣の姿で身体を傷付けることがあったからと言って、何故戻って来たのだろうか。
しかし、身体では無く『毛皮』――この表現は可怪しい。
「ウィリは普通の獣人とはちょっと違って、司る獣の毛皮が無いとその獣に变化できないんだ。だから、生涯その毛皮を大切にする。ウィリの場合、使命もあるから……だからオレの親父を頼ってる。オレの腕じゃ、応急措置くらいしかできないけど」
どうやらフロイドは毛皮を修復する道具は置いていったらしい。「やっぱりあったー」とアイが呟きながらカウンター奥から小箱を取り出した。
その時ちらりと見えた物体に、リアが思わず声を上げる。
「USBメモリ!?!」
「ゆーえすびーめもり?」
床の上にコロンと落ちていた小さなその物体は、間違いなく『USBフラッシュドライブ』であった。
リアが興味を示したのもあって、直ぐにアイが彼女に渡す。
彼女は件の物体を今一度よく眺めた。
長さは四センチ程、USBコネクト以外は白い合成樹脂に覆われている。製造名は『私』が知らない会社であったが、容量の文字を見てまた驚く。
「百テラバイト?!」
「ひゃくてらばいと? 」
『私』の時代でも容量がterabyteの家庭用パーソナルコンピュータやUSBフラッシュドライブは存在していた。ただ、それも1TB~2TB程であった。『私』が死んだ後に普及したモノであるのは間違いないが、
しかし、だからといってこの物体が三十八万年も存在をできているのはおかしい。
金属は腐食するし、合成樹脂だって流石にそれだけの期間もあれば分解される。この世界に過去の建造物が何一つ残っていないのが論より証拠であった。
「なんでコレが…この時代に…」
「? ソレ自体は大昔の拾い物だけど……。持ってた人には、大事なモノだったんだろうな。『大いなる神の時計』の近誓者が、物体の時を停止したから、今も残ってるんだと思うよ」
「あぽめーかねーすておす? ん? テオス? きんせいしゃ?」
今まで疑問を口にする側だったアイに変わり、リアが疑問を口にする。しかし、彼が言った言葉は過去にも似た形で聞いたことがあった。
そう、デイジーだ。今はリアのモノとなっているこの弓を見て、彼女は『能力の断片があり』恐らく『時を停止させる力』だと言っていたのだ。
「…能力者のことですか?」
「ああ、そっか。この世界では名称が無いんだった。うん、でもそれで合ってるよ。旧世界でも統一されてた名称はなかったらしいんだけど、オレが昔会ったことある人は自分のこと『近誓者』って言ってたから」
(…近誓者か)
単語を聞いてもやはり何も感じることはない。
リヒトの話では旧世界、つまり『私』の世界から存在していた筈なのに、架空の物語でもソレらしい単語を見たことをリアはなかった。
アイの話では統一されていなかったらしいので、もし知っているとしたら別の単語なのかもしれない。……超能力者とか。
「大いなる神の時計の近誓者に出会えたら、オレがメモしたものとか片っ端から『停止』してもらいたいくらいだよ。どんなに手入れしても、時間の流れには逆らえないから……あとオレ自身を『停止』して貰えれば、少なくとも崩壊はしないだろうし、でもそれって今とあんま変わんないか――……!」
アイは何か思い付いたのか、目を見開き静止する。さらに不安になってきたリアが思わず首を傾げながら声をかけた。
「アイさん…?」
「そうか……近誓者だ。『神が屍に 人として活きたモノ』の力でなら――オレはとっくに諦めてたから…」
「えーっと……」
「リア、君の大切な人がエメムに侵食されてからどれくらい経つんだ?」
今までリアを置いてきぼりにしていたアイは、突然彼女に向き直り、そして問いかけてくる。リアは驚嘆しつつも、彼の必死で真剣な顔にただただ圧倒されていた。
「あ、一ヶ月と…じゃないや、この世界の暦だと二ヶ月弱?」
「四十日弱か…残り約八十日……この世界なら見つけられるか……!」
「あの、ア」
答えたリアを相変わらず放置するように、アイは呟くとすぐ、リアの手を取って工房を飛び出した。突然の彼の奇行に、リアは悲鳴をあげながらその手に触れる。
「ど、どうしたんですか?! 突然!」
「王都に行く! 善は急げだ!」
「いやいや、急がば回れ! って言うでしょう! 説明してください!」
腰を落として両足に力を入れるリアだが、アイの異常な力の前には当然無力であった。それでもこのままの状態でリアは王都に戻るわけにはいかない。
「荷物くらい持たせてください!!」
「……あ」
工房第九番を出て一分。
途中抱えあげられたのもあって、その間進んだ距離は一キロ弱。リアの指摘でようやく足を止めたアイは、明らかに落ち込みながなら元来た道を戻り始めた。
※作中のレギオンは、昨年9月に投稿した『鬼』と同じです。