工房第九番
リアを運ぶと宣言していたアイを信じていなかった訳ではない。
思えば、リアは随分いろいろな人に抱え上げられたものだ。
リヒトを初め、シーナやテオスも皆、彼女を横抱きにして平然と移動する。
『私』にも経験が無いわけでは無かったが、それこそ十行かない歳で父親に抱えられた時ぐらいだろう。
可愛い事故で額から流血したのだ。
椎間板ヘルニアで腰痛持ちの父は、もう抱え上げられる体重では無かった筈の『私』を、公衆電話まで横抱きで走って救急車を呼んだ。当時、携帯電話は普及していなかったからだ。
『私』の中で『お姫様抱っこ』とは余り憧れるモノではなくなった。
自分がいかに弱く、小さく、脆いものであるかと実感させられる。同時に大切にされているとも考えられた。
そう、『私』は家族には愛して貰っていた。
家族だけだった。
………だからこそ、何故? と思うことがある。
勿論、死の直前、『私』は間違いなく孤独であった。
――まだ記憶に蓋をしている部分があるが、これは思い出す必要は無いかと、棄却する。
『私』はリアだ。
「大丈夫か? 早い? 心拍数上がってるみたいだけど…」
「いえ、大丈夫です」
昔のことを思い出していたリアは、指摘されて初めて自身が高揚していたことを自覚する。
同時に、アイの背中に身を預けすぎていたことにも気がついた。
彼女は自身の淑やかな胸を押し付けていたが、流石、町の誰かが言っていた通り彼は――鈍感でもあるようだ。
アイは自身の背嚢を腹に抱え、背嚢を背負ったリアを背中に抱えて歩いていた。互いの荷物が背嚢であったこと、山となっている森を進むからこそ、この体勢と手法は正しい。
力があると宣言していた通り、彼は難なくリアと荷物を抱え、そして苦なくこの森を入っていく。驚嘆したのはその速度だ。
歩いていると表現できるが、早歩きとも言える。否、走っているのかもしれない。
彼が平地を軽装で走ったら、とても速い筈だ。
ソレなのに息が全く上がってはいない。リアの様子を確認し、声をかけて気遣う余裕すらある。
「もう少しで着くからさ」
そうだろうなとリアも思っていた。
リアが森を進んで二時間、アイと合流してから一時間経ち、出発してから現在十五分程。本来なら一時間はかかるだろうこの道も、彼には三十分もかからない距離であった。
宣告通り、建物が見えてくる。景色は町の人々が言い、リアが想像したものと然程差違は無かった。
違うことがあるとしたら、大きな小屋があり、そこから大きなネコ――否、雄の獅子が出てきたことだろう。
「あれ? ウィリ、戻ってたのか?」
リアを降ろしながら、アイが獅子に話しかける。ウィリと呼ばれた獅子は、アイたちには近づかず、その場でネコ独特の尻尾巻き座りをして、彼らを眺めた。ネコと同じだとしたら、警戒の現れだ。
「親父、怒ってるんじゃないか…? 参ったな」
「あ、あの」
「アイツは『ウィリディス』。オレたちはウィリって呼んでる。うちの居候なんだ。見てのとおり獅子なんだけど、危害は加えないから安心してくれ…って言っても難しいよな」
「はい…でも」
リアには既視感があった。そう――シーナに似ている。
「獣人……では?」
「おっどろいたな、こんなに早くばれたの初めてだ」
リアの言葉に、アイが目を丸くして応える。リアは慌てて両手を振ると、「私の愛猫も獣人なんです」と告げた。その言葉に納得したのだろう、アイが「なるほど」と呟く。
「町のヤツらも知らないんだ。できたら内緒にしててくれ。大人しい獅子が居るって知られたら揉みくちゃにされるだろうし、王都に拉致されかねないからさ」
アイの心配は真実だろう。あの王子のことだ。リアを『ライオネ』と呼ぶ程なのだから、獅子への愛着は間違いなくある。それでなくとも王都は獅子だらけだ。
「分かりました。お約束します」
「助かるよ」
満面の笑みでアイは答えると、リアの手を引いて一軒の家へと誘導する。
この国の言葉で『工房第九番』と書かれたドアプレートが、扉には掲げられていた。
「ようこそ、『工房第九番』へ」
アイは片目を閉じて合図すると、扉をゆっくりと開ける。
扉を開けて初めに目に入ってきた光景は、カウンター奥の火床と沢山の工具であった。勿論、家主が今まで居なかったので、火床の火は消されている。
リアは導かれるまま建物の中に入ると、左足を軸にし、時計回りに回転する。店の配置は右手から順に、武具、カウンター、楽器、装飾具となっていた。用途が異なる商品が並んでいたが、カウンター奥の火床と工具を視認していたことで、理由も安易に分かる。
「…来客はあるんですね」
「ああ、腕試しにこの森に入る連中もいるしな」
リアが言った言葉をアイは即時に解し、応えた。
そう、これらの商品は購入者が使用者ならば、カスタマイズが必要になる場合があるモノばかりだ。カウンター奥の火床と工具は、そのためにあるのだろう。
「改造や調整は別料金なんですか?」
「まさか、そこはおまけするよ。ここまで来てくれてるし。それに本来の目的は、仕事を直に見てもらって、納得してもらうことだからさ」
折角穴蔵から出てるんだし、とアイが笑う。
確かに、芸術矮星では秘匿主義とまでは言わないが、見せようとしない場所だったとリアは思う。換気の小窓しかなく、部屋全体も薄暗かった。最も、常に火が焚かれていたため、明かりは充分過ぎる程あったのだが。
リアが装飾具のコーナーを眺めている間に、アイはカウンター奥へ入り何やら作業を始めた。
気に止めずに眺めていた彼女の鼻腔を、香ばしい匂いが擽ってくる。
その正体に気がついた瞬間、リアは目を輝かせてアイの方を向いた。彼はリアのその反応に思わず笑ってしまう。
「もしかしてコーヒー好きなのか?」
「! は、はい、大好きです!」
「オレと同じだな」と彼は珈琲が入ったカップを持って、カウンターへと置いた。
「これも無料だから」
その言葉にリアは思わず首を振る。
「で、でも、今この国の珈琲豆は希少ですよね?」
「そういえば三十日位前に王都で大量消費したって話だったな。でも大丈夫。このコーヒー豆の産地は隣国で、俺たちの町のお得意さんだから、比較的安く手に入るんだ」
道理で町の人たちも、リアに躊躇うことなく忌避臭として珈琲を持たせてくれたわけだ。リアは納得しつつ、カップの珈琲に口を付ける。
「へえ、ブラックいけるんだな」
「え?」
「町の奴ら、牛乳や蜂蜜をいれないとだめだからさ、女の子なら尚更」
ブラック?
リアの思考が停止してしまう。
そう、極自然にアイは告げた。これで二度目だ。
『ブラック』という意味も、それを珈琲に使う場合も、彼が告げた通りの飲み方だ。
ただし、牛乳だけではなく、砂糖といった甘味すらも加えないソレを『ブラック』と呼ぶのは、日本特有な言い回しなのだ。益々、リアの中では確信が高まる。