リヒトとシーナ1
――一方その頃。
外界から隔離されて三十日以上経ったことを、リヒトは聞かされた。
その期間の殆どを投薬による睡眠で過ごしていた彼には余り実感はない。
しかし、薬の利きが悪くなっているのは感じていた。体に巣食うエメムの影響だろうと、半獣化しているシーナが教えてくれる。
そう、彼女はリヒトが目覚めたその時、既にこの場に居た。獣人であるシーナはエメムに感染することは無いのだから、彼女が隔離部屋に居ても然程問題では無い。
リア以外で他人と直接同じ空気を吸うのが――やはり――久しぶりであった彼は、困惑と同時に安堵していた。
「リアは…」
「彼女は王都を出て、とある町へ」
「? 一緒に行かなくて良かったのか?」
「彼女がソレを望みませんでしたから」
「待ってて」と告げたリアに、リヒトは「待ってる」と応えた。彼女が具体的に何をしたいかは聞いていなかったが、まさかシーナを置いていくとは思っていなかった。
シーナも正体が獣人だと知られてしまっている今、ネコ等の姿で追うのは難しいのだろう。彼女の不満が感じ取れたリヒトは、尚更なぜ彼女が此処に居るのか疑問だった。
「…シーナは何でここに?」
「貴方と王都を護るようにと、リアに懇願されたので」
「ああ、なるほど」
リヒトが納得して上半身をベッドから起こしたところ、シーナが側に置いてあったワゴン車を牽いてくる。
「食事、食べられますか? ルート様が温め直したばかりなのでまだ温かいと思いますが」
「……え? もしかして」
「城の料理長が作ったモノです」
リヒトが起床するのを待っていた彼女と料理、思わず繋げた彼の思考を、即彼女は読み取って答える。その答えがより予想に反していたため、リヒトは目を瞬いた。
彼は余り食事を摂っていなかった。
殆どを睡眠に費やしているため、運動による消費カロリーが無いのもあるが、本当に空腹を感じてはいない。水や糖分がある飲み物を口に含むことが多かった。
それを苦に感じるわけでも、不満もない。己は化物なのだ。化物に与える施しなど、むしろ国のために無い方が良いとさえリヒトは考えていた。
彼が悩んでいる間にも、シーナは食事をワゴンの最上段に載せて並べ始める。並べられらた食事は、料理長が作ったとあった通り、一流の『料理』だ。
約三十日振りの料理の色と香りは、リヒトの視覚と嗅覚を刺激し、口の中では味覚をより感じるためにと唾液が溢れる。
食べたいという気持ちは失っていなかったのだと、彼は思い、そして安堵した。その様子にシーナが告げる。
「リヒト、『ヒト』でありたいのでしたら、ヒトの食事を必ず摂ってください」
「?」
「私も『獣』として生きると決めてからは、ソレに相応しくない食物は摂取しないように努めています。勿論、心理的な意味だけではありません。エメムに支配されないためにも、飢えは避けた方が無難です。排泄も勿論怠ってはいけません」
食べる前に汚物の話かと、一瞬リヒトが引いたのを感じたのか、シーナははっきりと宣言した。
「私たちは生きているんです」
――彼女の言葉で、リアのことは言えないな、とリヒトは思う。そう、エメムは『精神衰弱者や精神が無いモノ等、寄生しやすいモノに寄生する』とあるのだ。つまり『ヒトらしく生きる』ことを止めてしまった時点で敗北する。
リヒトは真剣な表情のシーナと料理を交互に見比べ、嬉しそうに笑った。
「分かった。俺はヒトだから」
料理の中から胃に優しそうなスープを選ぶと、スプーンを手に取る。当然、持つ手は無傷の左。
お前の力は借りない、という彼の強い意思だ。
利き手では無い上に筋肉が落ちてしまっている腕では、スプーンですら重く感じて手先が震える。その様子に悔しさよりも可笑しさが込み上げ、更に震えてしまう。
リヒトは一度、深く息を吐いてから改めてスプーンを握り、直ぐにスープを掬った。間髪いれずに口に運ぶと、殆どを味わうことなく飲み込む。
しかし、その優しい味は確実に口内に広がり、そして体に染みていく。
そうか、コレは鶏を使ったスープだったのかと、漸く彼は理解した。
「美味しいな…」
「ええ、鶏は美味です」
思わぬシーナの同意に、今度は声を上げてリヒトが笑った。
リヒトがゆっくりと食事を進めている中、そういえば、とシーナが口を開いた。
「リヒト、貴方は子が欲しいと思っていますか?」
「ぶごっ」
「……食物は大事にしてください」
「なら、食事中にそんな話はしないでくれよ…」
シーナの言葉にリヒトが反論する。漸く調子を取り戻してきたのだろう、いつもの彼だとシーナは少し安心した。
だが、獣の道を歩んできた彼女には、食事も繁殖行為も自然の摂理であり、本能だ。同じ土台の話なのに懸念するリヒトを理解はできなかった。
「私は……、リアは貴方と結ばれると思っていました」
消え入る声でシーナがポツリと呟く。その様子にリヒトが目を見開くが、次には目を閉じながら答えた。その顔は笑っている。
「とても監視していたヤツの台詞とは思えないな」
「…ですがリヒト。今の貴方が子を望むならば、相手はリアか」
「獣人に限られる…か?」
今度はシーナが目を見開く番であった。驚愕しているが、動揺はしていない。彼の様子に本音が分かってしまったからだ。
「幸いにも俺は末っ子で、跡取り等の心配はない。それに、リアは俺には収まらない人間だよ」
「年上だからですか?」
「本当、何歳離れてるんだろうな…」
シーナの言葉に、リヒトは改めてリア――『アイツ』――の年齢を想像する。
自分よりは明らかに年上だ。もしかしたら兄姉よりも上かもしれない。リアとして生きてきた年齢を更に足せば、母親の年齢まで届くだろうか。
そこまでリヒトは考え、『アイツ』には『アイツ』の子どもが居たのだろうかと思った瞬間、血の気が引いた。
「『アイツ』には幸せになってもらいたい」
はっきりと告げたリヒトに、シーナはただ思う。
(私は貴方にも幸せになってもらいたい)