一生に一度の――
槍にも言えることだが、刺さった矢を抜いた方が傷口は抉れ、出血の量も多くなる。
クモを確実且つ、早急に仕留めるならその方が良いが、当然、リアが近づくことなど不可能であった。
だからといってこのまま我慢比べの如く、長時間待機するのはそれこそ耐え難い苦痛である。何か解決の糸口はないかと彼女が考えていた所、弦に引っ掛かっていた最後の矢が目に入った。
(この矢に紐か何かを括って、命中させて抜けば……)
矢を刺して抜くことが繰り返しできると思考した瞬間、自分自身の考えにリアは眼から鱗の状態に陥り、且つ羞恥で頭を抱えた。
勿論、これは相手が造網性のクモであり、現在網の上にいられない程弱っているから思いついたことだ、健常のクモでは逆に危険だと納得させる。
リアは羞恥を隠すかのように、早急で背嚢の中から裁縫道具を取り出し、糸を矢へ固く括った。そして再度気持ちを落ち着かせると、直ぐに矢を放つ。
先程の連続早射での感覚が消えていなかったのと、クモの背中もこちらを向いていたのが幸いし、矢は難なく目標の場所に刺さった。刺さったのを確認してから、糸を強く引っ張るが、これも糸が切れること無く、矢を抜くことができて安堵する。
糸を手繰り寄せて、もう一度放とうか一瞬考えるが、クモの様子を見てそれは不要かとリアは思った。
矢を刺した時、クモは完全に無反応であったし、矢を抜いた瞬間大量の血液が流れ出たが、今はその流れも止まっている。おそらく、失血死したと考えて良い。それでも疑心を棄てきれなかったリアは、ほんの少しだけ火を放ってみたが、反応は無かった。
全て終わったと認識してから、自身の心臓が激しく鼓動していることに気が付く。こめかみ辺りにまで響くその音から、血圧がかなり上がっていることを自覚せざるを得ない。
(今、矢を射たれたら私の方が即死だな…)
クモの状態を暫く眺めていたが、意を決し、歩を進めた。
クモから五メートル程の距離に付き、その大きさと存在感にリアは再度恐怖を取り戻す。
死骸を改めて近距離で眺め、腹部の背中部分をこちらに向けていてくれて良かったと改めて安堵した。
そう、クモは死んだ時もリアの方に背を向けている。つまり、横向きに倒れていたのだ。
そのことに――違和感にリアは漸く気がついた。
クモが横向きで死んだ?
勿論、可能性として無くはないだろう。偶然、背中からではなく、腹側から落ち、縮こまった歩脚が地面への接触を避けた上、背中には矢が大量に刺さっているため横向きに固定された。
身体には落ちる直前に引っ掛かった網の糸を付いた筈だ。粘着力があるならば、それこそ地面にそのままくっつき、離れないかもしれない。
そう偶然――そんなこともある。
リアは自分を納得させようと首を縦に強く振った。
深く呼吸をして気持ちを切り替えると、矢の回収よりも先に、張られている網を撤去しようと考えて近づく。勿論、背を向けることになるクモの死骸への神経は怠らない。だからこそ、クモの腹側の様子に気が付くことができた。
「!?!」
(生殖口に――触肢!?!)
その様子にリアの顔色は一瞬で蒼になる。
そう――このコガネグモは雌だ。その雌の生殖口に触肢刺さっているが、当然この雌の触肢が本来の部位に健在なのだから、この触肢は雌のモノではない。
因みにクモは交接の時、少し奇妙な方法をとる。
クモの雄にはペニスがないため、ヤツらは精液を体外に排出して、自身の触肢の先端でその精液を吸い取って溜める。
そしてその触肢を雌の生殖口に差し込むことで行うのだ。
つまり―――
「オスが――!!!」
リアが呟いた瞬間、彼女の背中に何かが落ちてきた。
自分の肩から胸にかけて伸びる茶色い複数の棒と、首元にかかるチクチクとした毛の感触に、リアは全てを悟る。
重さ、大きさからも、側で死んでいる雌の大きさと比較して間違えようがない。
このコガネグモと交接した――雄グモだ――!
通常、雄グモの交接は命がけである。
カマキリと同じく、雌の機嫌を損ねれば彼らは簡単に捕食されてしまう。
餌を贈与して雌が捕食している間に交接を済ませる種も入れば、敢えて自らの身体を餌として差し出すことで、行為に及ぶ種もいる程だ。
クモの種類によっては、交接時に触肢が折れて取れ、雌の生殖口を塞ぐことがあり、他の雄との交接を防ぐ手段をとるモノもある。
当然、触肢が壊れた雄は二度と交接ができなくなる。
この雄も同じだ。
命がけ且つ、一生に一度の配偶行動であった。
ソレを――リアは無駄にしたのだ。
「! っあ!!」
突然の奇襲に、リアは炎を発動させることなく、牙の餌食になった。
彼女の首筋にコガネグモの牙が食い込み、自身が出血しているのを自覚する。それとも毒液だろうか。
リアは腕でなんとか振り払おうとしたが、クモは彼女の身体を数が少なくなっている歩脚で抱え込むと、腹部の糸疣から糸を吐き出し拘束を試み始めた。
糸は上半身を中心に覆い始め、口元塞ぐことで呼吸もできなくなる。
大嫌いなクモが至近距離に居るだけではなく、そのクモに殺されるという絶望と恐怖にリアは完全に戦意を喪失した。
毒も周り始め、混乱の中、炎を生み出すことができない。否、恐らく生み出すことは容易い。問題は森に影響が無いような炎を生み出す自信がないことだ。
(でも…こんな所で――)
リアの脳裏にリヒトの顔が浮かぶ。次にシーナ、グラベル、テオス…お世話になった人々の顔が、笑顔が――何故か悲しい顔に変わっていく。
(変なの――…『私』が死んだ時、そんな顔をする人は一人も居なかったのに…)
だからこそ駄目だとリアは、『私』は思う。
死にたくない、まだ死にたくない。
死んではいけない。
分かっている――コイツの『生』を無駄にしたのだから、復讐も、『私』が殺される道理もある。
でも駄目だ、リヒトのためにも皆のためにも生きなくては駄目だ。
リアは決してその膝を崩さないと誓い、そしてまだ折れ動く両腕を曲げ、糸とクモの触りたくもない歩脚に触れる。
『絶対に――赦さない――』
クモに対してではなく、自分への戒めとしてリアは心の中で呟く。
死ぬなんて――絶対に――赦さない
炎を威嚇として発生させた。
当然、クモは驚嘆のあまりリアの身体から離れ暴れまわる。その間にも、彼女は自身の身体に纏わりついている糸を炎で燃やそうと試みていた。
しかし、クモは戦意を喪失しなかった。
ヤツの怒りと殺意は、本物であった。
体勢を立て直すと、リアに跳びつくためにその身を掲げ襲ってくる――
――リアが糸を取り払った時には、目前に居たはずのクモは細切れの状態で絶命していていた。
視界と聴力を半分以上糸で奪われていた彼女には何が起きたのか全く理解できない。
「町の狼煙――君のことだったんだな」
男性の声だった。
リアがクモよりも先に立っている人物を漸く視界に捉え、そして息を呑む。
ルートが言っていた言葉が脳内で反芻され、その的確な意味を彼女は理解した。その人物が目前に立っている。
「オレは――アイ。君はもしかして、リアか?」
アイと名乗られたので間違いないと確信した。
彼は――ドワーフの某息子だ――。