苦い記憶の補足
「ātl」
リアたちから少し離れた川の側で、リヒトは両手を掲げながら小さくが呟いた。
瞬間、彼の周りが霞がかる。
川の水を空中に細かく飛散させることで、ザトウムシに気づかれることが無いように、また、逃れることができないようにする術を彼は選んだ。
得意ではないが水の操作ができることを告げたリヒトにリアは、『ザトウムシの脚ではない、本体自体を水で覆ってほしい』と頼んでいたのだ。
「得意じゃねーって言ったのに…」
リアの提案で、自身が心像し易く、実現しそうな手法が結露であった。
クモの網によく朝露が付いていたことを覚えていたのも一つの要因かもしれない。
その水滴を沢山生み出し覆うことで、ザトウムシを水没させる。ぶっつけ本番で成功した俺を誰か誉めて欲しいとリヒトは思った。
「…いや、まだ終わりじゃない」
逆に得意な術式は『火』に関連することだと口を滑らせたところ、リアは目を輝かせて追加の提案を言ったのである。
「本当、今日のリアは変だ」
その言葉で愚痴は最後だと決め、リヒトは次の心象へ切り替え、そして呟いた。
「Cuezalin」
***
『私』の苦い記憶『クモ溺死作戦』には続きがあった。正確にはその話の後日談である。
ある日、クモに慣れていた知人に「風呂場でクモに遭遇した時、自分が裸であるのもあって非常に怖い」という話をしたのだ。知人はきょとんとした顔になると、今となっては当然の回答をしてくれた。
「お湯をかけちゃえば良いんだよ。お風呂のお湯なら設定で最高60度位にはなるし、シャワーで隅に追いやって集中攻撃すればイチコロだよ。お風呂場だから水浸しになっても気にならないし、後片付けも楽だしね」
***
(だから温泉の源泉が無いかって尋ねたのか…)
リヒトはザトウムシを覆った水球を湯に変化させようと試みる。
しかし、湯とはどのような状態なのだろうか。
湯を見たことは勿論ある。鉄の鍋に水を張り、鍋を底から火にかければ良いのだ。
だが鉄は?
水を直接火にかけることなど現実にはできない。火の方が消えてしまうからだ。…もしかして温泉の源泉はこの思考の答えなのだろうか。
水を燃やすにはどうしたら良い?
苦戦しているリヒトにリアが駆け寄ってくる。
元々、不得意だと告げていた上に、彼はリアを救った直後だったのだ。体力は削られていた筈だし、怪我の有無も確認してはいなかった。
リヒトに申し訳ないと思うのと同時に、自分に何かできないのかと探る。
しかし、これ以上の良案は、せめて今世の記憶を取り戻すことしか思い付かなかった。
「リア、お湯ってどんな状態だと思う…?」
リヒトが険しい顔でリアに訪ねる。
しかし、その目は常にザトウムシ捉え、その両腕は水球に向けられており、一瞬の気も緩められないのだろう、全くリアを見てはいない。
リアはというと、リヒトの難しい質問の回答を考え兼ねていた。『水分子の運動が活発な状態がお湯だ』と言って通じるだろか。
どの様な回答をすればリヒトの力になれるのか。
リアはリヒトのぐらつく体を支え、そして曖昧に答えた。
「み、水が、元気な状態…かな…ぁ」
「……全然分からねえ…」
リヒトが落胆の溜息を吐いたのと同時であった。
水球の形が崩れ、膨張する。
気が緩んだため、水が維持できなくなったのかと、リヒトは狼狽したが、結果は違っていた。
水が一瞬で沸騰し、水蒸気へ変化、空中へ逃げて行く。
勿論、同時にザトウムシの命も奪われた。
ザトウムシの巨大な本体は、湯で上がったというよりは焼け焦げた印象であったが、その重さを細い脚は耐えることはできず、無惨に崩れ落ちていく。
落ちると同時に長く伸びていた脚は一斉に縮こまり、本体に引っ張られるように丸まった。
突然の呆気ない結末にリヒトもリアも口を開けたまま静止していた。
歓喜と安堵よりも戸惑いと疑問が勝り 、掲げていた両腕を下ろすのが精一杯であった。
「…やったのか?」
「それフラグ…」
「ふらぐ?」
「ううん、何でもない」
前世の言葉を思わず言うリアに、当然の反応が返って来たため、彼女は笑う。
そう、漸く笑うことができる。
リアの安堵から来る微笑みに、リヒトも安心できたのか力が抜け、二人は同時に座り込んだ。
漸くタイトルを回収できました…