駆除2
リアが懸念していた『親』グモが、皆が疲労し、危機回避できたと油断している正にこの瞬間に現れたのだ。
あまりの恐怖に皆が愕然とし、ヘビに睨まれたカエルの様に動けなくなる。
『子』よりも何倍もある牙が一人の兵士目掛けて振りおろされた。これが刺されれば毒の注入の前に、勢いで間違いなく『もげる』だろう。
ただ一人、冷静に判断したマリアが、兵士を護るために立ちはだかった。牙を掴み取りたかったがそれは叶わず、首筋に深く突き刺さる。
だが、ヒトと異なる形態をとっていた彼女は、筋肉でそれ以上の侵入を拒むと、両手でアシダカグモの触肢を掴み取り、爪を立てて引き裂いた。
クモにとって大事な感覚器を傷つけられたため、アシダカグモは堪らず、牙を引き戻し、奇声を上げて後退する。しかし直ぐに戦意を取り戻すと、再びマリアを狙おうとした。
この大きさのままでは、今度は歩脚を使って捉えられると判断したマリアは、即座に『獣』の姿をとり、回避する術を選ぶ。見事思惑通りにいったが、彼女は大切なことを忘れていた。それは回避した瞬間、身体が動かくなったことで漸く気がつく。
彼女の獣姿は、小柄なネコであった。
身体を構成していた大部分は大地へ返還したが、注入された毒は殆ど体内に残っていたため、一瞬で毒が回ってしまったのだ。
再び大地に肉体を借受しようとするが、足を接することができない。
マリアはそのまま倒れ込んでしまった。
「しーな…?」
ネコの姿になり倒れ込んだマリアを見て、リアは呟いた。
何故? 何故、マリアがリオネ家の愛猫に化けたのだ?
否、違う…そうだ。
黄金色の体毛、黄緑色が混じった琥珀色の瞳、そしてネコの様な獣。
それに『私』はあの時、シーナに言ったではないか。
――『私』だったらマリアって名付けたかな―――
「うそ…いや…そんな……」
アシダカグモがシーナを捉えているのが遠目からもはっきりと見えた。
「だめ…ぜったいに…」
リヒトが行動するよりも早く、リアは窓からその身を投げる。屋根を滑ることで、衝撃を緩和させ、地面へ無事降り立つと、大嫌いな筈のクモの元へ駆け寄っていた。
アシダカグモはその動きにやはり反応するが、次には己の顔に『水滴』が付いたため、そちらに意識が取られる。正気を取り戻した水瓶の兵士数名が、ありったけの水瓶の水をアシダカグモに投げつけてくれたのだ。
しかし、『子』と異なり、『酔っ払う』気配は無い。
アシダカグモの側にいたシーナを抱きかかえると、リアは距離をとるべく走り出した。
シーナの傷は想像より大したことは無かったが、やはり動く気配はない。
「シーナ! シーナ!」
リアの呼びかける声に、シーナは喉を鳴らすことで応えようと努力していた。
本当は、大地に立たせて欲しいのだが、『獣』になってしまっている彼女は、ヒトの『声』を発することができないのだ。
シーナの声が聞きたくて、リアは一度地面へシーナを下ろすと、彼女の口元へ耳を近づけ聞き取ろうとする。
幸いにと、リアの身体によりかかりつつ、シーナは前肢を地面に付け、一気に大地から肉体を借受した。
しかし、その量は中途半端で、少女程の身体しかない。だが、ヒトになったことで会話することはできる。
「ごめんなさい…リア…」
「シーナ! どうして!!」
「ずっと…ネコで生きていこうと思っていたの…でも、貴女を護るにはこの姿ではないと駄目だと思って」
「どうして、どうして私を?!」
「…貴女の父親の代わりに、それに家族ですから…」
息も絶え絶えでシーナが応える。
肉体を借受したことで、毒の浄化は進んでいるが、力は戻ってきてはいないらしい。
「リア…私はまだ戦えません。だから逃げるか、ヤツを斃すかしないと…」
「無理だよ…私、術式だって使えないんだよ…」
「リア…貴女は、私たちと同じ――だから、術式では無いの…貴女の『炎』は…」
答えていたシーナの顔色が一変する。すぐそこまでアシダカグモが迫ってきていた。
リアを守ろうとシーナが彼女の前に入り込もうとしたが、それはリアによって防がれてしまう。
リアはシーナを抱きかかえ、盾になろうとしていた。
「リア! 放して…――!」
シーナの目の前を、剣を持った腕が飛んでいった。
そして――少年の悲鳴が響き渡る。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああ」
その声に目を閉じていたリアは開眼し、後ろを振り向いた。
リヒトが立っている。
利き手の右手は肘から先が無く――血液が溢れ出て、地面を汚していた。
そのリヒトの目前にアシダカグモの顔があり、二歩脚が既にリアたちの身体近くまで伸びている。
三人が、アシダカグモの手中に収まっている状態だ。
だが、リヒトは身体を捻ると、残った左手で自分の剣を右手ごと逆手で掴みあげ、そして切っ先をクモの頭と胸の境に突き立てた。
「あああああああああああああああああああああああCue…zalin !!!」
悲鳴に混じって、術式を発する言葉を叫ぶが、炎が発せられることはない。
腕を失った痛みと絶望に、彼は冷静では無かった。眼の前の敵が燃え尽きる『未来』よりも、騎士になれない己の『未来』を想像してしまう。
剣を伝ってクモの体液が滴り、傷ついた身体に染み渡る。
その恐怖と痛みが更にリヒトを冷静にはさせなかった。燃える様な感覚が全身を支配する。
アシダカグモは嘲笑っている様であった。
リヒトの腕を容易く振りほどくと、触肢で彼の身体を捕らえ、牙を今度こそ彼の身体へと食い込ませようとする。
その時――『私』は――死ぬ間際の自分を思い出した。
『私』は綺麗には死ななかったのだ。
前の世界を――『私』を棄てた人々を――最期には憎んだ。
『私』を傷つけたモノは赦さない。
『私』を奪ったモノは赦さない。
シーナをよくも傷つけたな
リヒトの腕をよくも奪ったな
『私』を受け入れてくれた『世界』をよくも穢したな
此度も――『私』を貶したな
「絶対に――赦さない――」
――『リア』は『××の×火』の使い方を思い出す――
振り下ろされた牙をリアは炎を纏った手で掴み取った。
勿論、掌は切り裂かれたが、その傷も一瞬で塞がれる。毒など蒸発していて存在すらしていなかった。
炎が瞬く間に燃え広がったため、アシダカグモはリヒトを放して後退し、体勢を整え直す。
しかし、次には、全身炎に包まれた状態のリアが、クモの牙をくぐり、口の前へ滑り込んでいた。
「クモは、体外消化で獲物を摂取する生物なので、歯はない――」
炎を包んだ腕をそのまま、上唇と下唇の間に滑り込ませ、消化管に突っ込む。クモの唾液は下顎から沁み出るので、口の中には存在しない。
よって、溶かされることもない。――たとえ唾液があっても蒸発させるので、関係はないか。
「これだけ巨大なら前腸どまりか――」
資料で読んだ通りだ。
消化管内には筋肉が確りとあり、動いているのが分かる。不純物を飲み込まないようにするためにある『ふるい』という毛も感じる。
「燃える不純物だ――吐き出せるものなら――吐き出してみろよ――」
リアは炎の温度を更に上げた。身体を覆う炎は赤から青へと変化しつつあった。
「絶対に―――赦さない――」
この言葉は――『私』が術式を使う時に発する『言語』にしよう。――術式を使う日がくればの話だが…
リアが呟くと同時に、炎は内側からアシダカグモを燃やし尽くした。
その温度の高さから灰すら残さず――蒸発した。