節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目アシダカグモ科アシダカグモ属
前世、インターネット上ではアシダカグモは『軍曹』と敬称されることがあり、職場の人間には「太郎さん」と呼んで半ば飼っている状態だと言っている人も居た。
ヤツらがクモの中でも人気や愛着があるのは、単にその狩猟本能にあると言える。
アシダカグモは、世界でも最も嫌われていると言っても過言ではない『ゴキブリ』の天敵だからだ。
勿論、ゴキブリを狙う天敵は他にも居る。
ムカデ、ゲジゲジ、ヤモリなどが正にそうだが、彼らとは決定的にアシダカグモが異なるのは、『餌』としてだけではなく、『獲物』として狙うことだ。
たとえ、既に『餌』を食事中であっても、視覚に『獲物』が出現すれば、その食事を放棄して『獲物』を仕留めることに専念する。アシダカグモが一晩で二十を超えるゴキブリを仕留めた話や、ヤツらが家に二、三匹居れば、その家のゴキブリは半年で殲滅させられるという話は有名である。
クモ愛好家の中にオオツチグモ科のクモを飼う人が多いが、アシダカグモもその大きさに匹敵するのに、人に対して有害な毒は持っていない。
だからこそ、益虫としてこのクモを愛する人々が居るのだ。
勿論――『私』はその様な人々を否定したりはしない。
でも『私』は恐い。
嫌いだ。
絶対に存在を赦せない。
大体、『私』はゴキブリなど怖くは無いのだ。ゴキブリなら斃せる。
こんな不気味で生理的に受け付けない生物、『私』には必要などあるはずがない。
その生物が、リヒトの上にのしかかり、その牙を立てようとしている。
恐らく、獲物を麻痺させる毒を注入したいのだろう。
通常の大きさのアシダカグモなら人間には無毒だが、化物化して巨大化しているため、その保証はない。現に既に襲われて、動けなくなっている人が居るのだ。
また、アシダカグモには小さなネズミを捕食するモノもいる。ネズミは最小の哺乳類の一つだ。そして人間も哺乳類なのだ。
――このアシダカグモの毒は絶対に効く。
リアは確信していた。
「リア!! …逃げろっ!!」
リヒトが背後に居るであろうリアに声を上げる。
アシダカグモの牙を剣で防いでいるが、同時に自身の両手も塞がっている。
尻餅を付いた時に片足はアシダカグモの頭胸部を押さえていたが、場所が階段であるため、蹴り上げることができない。
術式を使おうかとも考えるが、此処は室内なのだ。
威嚇程度の炎を全身から放出する他ないが、近くに居るリアに飛び火することが懸念された。
だからこそ、彼はリアに離れて欲しく、逃げるように伝えた。
リアにもそれが分かっていた。
寧ろ自分が逃げ出せば、アシダカグモは標的を変えるはずなので、リヒトが助かる可能性が高い。
だが、逃げただけでは――自分は呆気無く『死』を迎えるだろう。
昨日――誓ったではないか。
『私』は――生きる可能性を見出したい。
リアは昨日のことで、もう一つのことを思い出した。
大きな欠けであるが、最善の方法でもある。
リアはリヒトに言われた通り、その場から駆け出した。
背後から響く足音にリヒトはリアが『逃げた』と思い安心するが、瞬間、自分の上にのしかかっていた『重み』が消えたことに驚嘆する。
アシダカグモがリヒトを無視し、リアの後を追いかけ始めたのだ。
狭い廊下では長い脚が邪魔するらしく、縮こまらせているため、特徴的な素早さが落ちているが、着実に歩みを進めていた。
リヒトは狼狽し、慌てて術式を行使しようとするが、その言葉は出ない。
リアは後ろを振り向かず、まっすぐと自分の部屋へと向かった。
鍵どころか、扉を開けっ放しにしていたことが幸いする。
彼女は無事にたどり着くと、慌てて鞄をひっくり返した。そうしている間に、即座にアシダカグモが部屋へと侵入してきてしまう。
想像以上に素早い動作にリアは絶望しかけるが、鞄から出てきた紙袋を一つ掴み上げ、破り開けると、躊躇することなくその袋をアシダカグモの顔面に目掛けて投げつけた。瞬間、袋の中身である『焙煎して挽かれていた珈琲豆』の粉が飛散する。顔に粉がかかったアシダカグモは、反射的に触肢で顔を拭い始めた。
クモとは、自身の消化液で顔を拭って清潔にする習慣がある。
消化液ごと珈琲粉を拭い、そしてその消化液を再び蝕手で拭う。必然的に口の中に珈琲が入り込み、含まれていく。
クモは液体を咀嚼する生物だ。
勿論、吐き出すことも出来るが、珈琲の粉は吐き出すには難しい大きさのため、アシダカグモは無意識に大量の珈琲を体内に取り入れることになる。
辺りは珈琲の香りで充満していた。
漸く――満足行くまでに拭いきったのか、クモが触肢の動きを止め、獲物を捉え直す。
その様子に、駄目だったかとリアは立ち尽くした。
リアが行いたかったのは、アシダカグモを珈琲により中枢神経を麻痺させ、動きを鈍くさせることであった。
しかし、珈琲で酔っ払うクモの話は造網性の例が殆どであったし、効くとされていたのも『ハエトリグモ科』だったので、アシダカグモ科ではない。
加えて相手は巨大化しているのだ、あれだけのカフェイン量では足りなかったのかもしれない。
だが、このまま素直に食べられようとは、リアは思っていなかった。
彼女はそのままアシダカグモを正面に、窓へと後退する。飛びかかって来られたら、少しでも逃げる機会がある方を彼女は選択したのだ。
その時、アシダカグモが身体――頭胸部を持ち上げ、左右の第二脚までを天を仰ぐように上げた。
クモの鳴き声は人の聴覚では捉えられないとされており、『ハンゲツオスナキグモ』が、確か唯一その鳴き声を聞くことができるクモであったはずだ。
だからこそ、アシダカグモが『奇声』を上げたのは予想外であった。
この鳴き声は文字にはできない――それくらい嫌悪する音だったため、リアは思わず耳を塞ぐ。
その様なスキを見せたが、アシダカグモは襲っては来ない。
ヤツはまたも標的を変更していたのだ。
「Cuezalin!!!」
背後からアシダカグモの腹部に剣を立てていたリヒトが、声を上げた。
剣を伝い、炎がアシダカグモの中へ流れ込む。アリグモの時のような失態は無い。
「ihcoyoca!!!!」
アシダカグモの腹の中で炎が燃え上がるのがリアには見えた。まるで、その中で太陽が生まれているかの様に錯覚する。
「絶対に――リアには手を出させない――っ!!」
腹部を燃え尽きさせた炎は、直ぐに頭胸部も包み込み、灰に変えた。
その場に残ったのは長過ぎる八つの歩脚であり、その歩脚も直ぐに関節が曲がり始め、縮こまっていく。
つい先程まで室内を漂っていた珈琲の香りは、既に不快な異臭へと変わっていた。
リヒトは床にまで刺さっていた剣を抜くと、残っていた歩脚にも突き刺し、同じく燃やし始める。順に全ての歩脚を灰にすると、床にはクモ模様の焼け焦げた跡が染み付いてしまった。
―――これは…弁償だな、とリアが思考へ逃げる程、現状は悲惨である。
暗闇の中では把握できなかったが、相変わらず点けたままにしていた洋灯があったため、焦げ跡から全貌がわかる。
アシダカグモの大きさは歩脚を入れるととても大きく感じたが、頭胸部と腹部を合わせて成人男性くらいの大きさであった。