扉を叩く者
灰になったアリグモの亡骸は、兵士たちが回収していた。
皆、灰を吸い込まないように、三角巾で鼻と口を塞ぎ、目に入らないように眼鏡をかけながら、シャベルで灰を掬っている。
掬った灰は大きな布袋に入れられるが、それもすぐ満杯になり、既に十を超えた。
水で洗い流したりする手段を取らないのは、水が貴重なためか、もしくはテオスが言っていたことが原因だろう。
『エメムが含まれる液体がこの地にバラ撒かれるのは得策ではない』
テオス…そして、突然現れて去ってしまった『マリア』という女性。
リヒトは何かしら把握しており、理解していたようであるが、リアにはわからない事が増える一方だ。
リヒトといえば――彼が飛び出して行った時、リアは本当に怖かった。
大嫌いなクモのせいでリヒトを失うかもしれなかったのだ。
勿論、リヒトが飛び出さなければ、犠牲になっていたのは兵士たちだ。
そして、まさか自分がリヒトの真似をして飛び出すとは思っていなかった。
前世での『死』の瞬間を『私』は覚えていない。
だからあの様に浅はかな行動をとったのだろうか。
それとも、また『転生』できるという自惚れか。
この世界に来て、『私』の世界の定義は崩れ落ち、概念は変わった。
『精神』は分裂・統合・複製可能であるし、『魂』ですら基本、肉体より後に生まれるとされる。
『私』という『人格』は、果たして価値あるものなのだろうか。
記憶は曖昧で、術式も使えない。
大切な人も護れない。
嫌いなモノを斃すこともできない。
『私』は居る必要はないのではないか――――
ならば、せめて――――
あの行動は偽善ですらない――ただの自害だ。
――この世界からも逃げだそうとしたのだ。
それをリヒトに悟られるのが怖い、辛い。
宿屋に戻ってからは、互いの部屋に入ってしまい、顔を合わせていない。
食事も元々別だったので、そのまま日も暮れてしまった。
明日は共に城で王と謁見するというのに、気まずくて仕様がない。
リアが独り悩んでいたところ、部屋の扉が叩かれる。
リヒトだろうか――今、会うべきか、と考えていると、扉の向こうから声をかけられた。
「リア様、よろしいですか?」
この声はグラベルである。
リヒトの従者である彼だが、もしかしてリヒトも居るのだろうか。
リアは扉の鍵を外すと、恐る恐る扉を開けて確認するが、其処にはグラベルしか居なかった。
「グラベルさん、どうしたんですか?」
「申し訳ありません、この様な時間帯に淑女の部屋を訪ねてしまい――」
「え…… は、いいえ、あ、ではこのままでも良いですか?」
「勿論でございます」
グラベルの『淑女』という単語に一瞬、リアの思考が停止するが、彼と自分の立場を考え、最適の答えを導き出す。
しかし、リヒトの知人であるとはいえ、グラベルは本当にリアにも丁寧な人だ。もしかしたらソルに何か言われているのかもしれない。
「色々あってお疲れのところ、ありがとうございます。ですが――だからこそ逸早くお渡ししたく…」
渡したいモノ――グラベルに預けているモノに心辺りがなく、リアは首を傾げる。
すると、二袋の紙袋をグラベルはリアへと差し出した。紙袋の大きさは前世で言う角形六号ぐらいだろうか。だがそれよりも、少し漂ってくるこの懐かしく香ばしい匂いに、リアが目を丸くする。
「こ、この香り、まさか… !」
「はい。流石、王都の公共施設に隣接されている喫茶店です。豆の販売もしていたため、つい購入してしまいました。焙煎されて挽いてあるものは少々値がはりましたので、生豆と合わせて二種類――しかも一番格安の珈琲豆ですが…」
王都に到着する前にした雑談で話した――珈琲豆だ。
「え、私に?」
「勿論です」
「あ、ま、待ってください! 今お金を…」
リアが慌てて部屋の中に戻ろうとした所、クラブルはその袋を扉の前に置いて言葉を続けた。
「いえ、お代は結構です。私が勝手に購入したのですから。これは貴女に差し上げます」
「駄目ですよ! そんなの悪いです!」
「いいえ、リヒト様を助けていただき…本当にありがとうございました、リア様」
「グラベルさん…」
気がつくと、グラベルが扉の向こうの廊下で座り込んでいた。頭を地面に付け礼をしえちる。――土下座だ。
「ちょ…グラベルさん?! 頭を上げてください!」
「無償で受け取っていただけるなら…」
「わ、わかりました、だから――」
リアが応えた途端、グラベルはすっと立ち上がり、笑顔になる。そして、先程地面に置いた袋を掲げ、目の前に戻ってきたリアの手に確りと渡した。
してやられた。とリアは思うが、グラベルはすぐにその場を立ち去ってしまう。
本当に珈琲豆は偶然だったのだろう。偶然発見し、偶然購入し、偶然事件が起きて、偶然リアはリヒトを救う形をとった。だが、それはグラベルにはとても大事なことであった。
「リヒト様をよろしくお願いします」
彼の去り際の言葉が耳から離れない。
『私』はそんなことを言われる資格は無い人間だと言うのに――…