マリア
リヒトが飛び出したのと同時に、アリグモが獲物の認識を改めた。
ハエトリグモ科は視力が良い――むしろ視力で獲物を捉えようとするクモだ。
前方と側面にある単眼のうち、側面の単眼がリヒトの影を感じ、そして確認するために体を捻って振り返ったのだ。
「!」
背後から奇襲をかけ、背中を狙おうと思っていたリヒトであったが、それは失敗した。
だが、このままでは、ただヤツの顎に捕らえられるだけである。
「Cuezalin!」
と叫び、自身の両手に炎を生み出すとすぐ
「ihcoyoca!」
と続けて、炎を壁のように生成し直す。
その炎の壁がアリグモの上顎に触れた途端、顔面から頭部全体に瞬く間に炎は流れた。
表面に薄っすら生えていた体毛に燃え広がるが、一瞬で燃え尽きてしまい、炎は深部までには到達しない。
しかし、視力に頼るヤツにとって、効果はあったようであった。
アリグモは即座に体を伏せ、触肢で顔の表面を撫でることに集中し始める。
「今のうちに逃げろ!」
地面に無事着地すると、リヒトが兵士たちに声を上げた。
兵士たちは悲鳴をあげながら、それこそクモの子を散らすように四方八方に逃げていく。
安堵していたのも束の間、体勢を整えたアリグモがリヒト目掛けて飛び込んできた。残念ながら視力は失われていないようであった。
リヒトはアリグモの突撃を間一髪で避けると、兵士たちが捨てていった剣を得ようと走り出す。剣の側まで滑り込むようにたどり着くと、剣を素早く掴み、持ち上げようとした。
しかし、その剣がクモの糸で地面に固定されてしまっていることに、そこで漸くリヒトは気が付く。
「しまった」とリヒトが顔を上げた時には、アリグモの大きな上顎が目前であった。
「リヒトおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
リアが大きな声を挙げ、リヒトが行った様に窓から身を乗り出す。
――だめだ、お前は術式が使えないじゃないか――
自身の状態よりもリアへ全神経が向いてしまう。それもそのはず、アリグモは先程と全く同じ様に、獲物の認識を改めてしまったのだ。
「邪魔です」
リヒトが立ち尽くしてしまった瞬間、彼の耳元で女性の声が響く。
誰だ? とリヒトは振り向くが其処には誰も居るはずもなく、こんな時に俺は馬鹿だと嘆いた刹那には、目の前のアリグモが仰向けの状態で地面の上にひっくり返っていた。
新たな獲物を視認したアリグモは、飛びかかろうとしたであろうその瞬間、己の視覚が地面スレスレへ移動したため、混乱していた。
思わず飛び出したリアも同じく、その場に立ち尽くしている。
仰向けになったアリグモの胸部付近に、女性が立っていた。
長い金髪を風になびかせており、琥珀色の瞳を持つ美女だ。二十代後半に見える。
そして全裸からも分かるとおり、とても豊満な胸を持っているが、腹背と手足は筋肉質な肉体をしていた。
そう――全裸だ。
長い髪で大事なところは殆ど隠れてはいるが、全裸だ。
リヒトは顔を真っ赤にして硬直し、リアは余り見るのは失礼かと悩むが、彼女の安否が心配で視認するしかない。
アリグモは突然の体勢の変化に元に戻ろうと脚をバタつかせており、最終的には引いていた糸を使うことで身体を元に戻した。
乗ったままだとアリグモの腹部と地面に挟まれてしまうため、女性はその状態から跳び上がって逃れ、リアの元へ宙返りをして舞い降りる。
動きがまるでネコの様だとリアは思ったが、一先ず彼女にお礼を言った。
「ありがとうございます。彼は私の友だちなの… 私はリア、貴女は?」
女性はリアの顔を見て一瞬困った表情をすると、「…マリア」と呟き、「まだ終わっていません」と応えた。
アリグモが二匹の獲物を狙い、今にも飛びかかろうとしていたため、マリアはリアを抱えあげ、窓から離れて地面に降り立つ。
リヒトはその間にクモの糸を炎で焼き切ると、漸く剣を構えて体勢を整えた。
「リア、あのクモに弱点とかは――」
「弱点と言われても…」
クモを駆除する方法など、それこそ思いつかないことは無いが、ここは街の中である。
あの質量を燃やし尽くす炎は逆に火事に成りかねないし、大量の水もない。
前世の経験を顧みても、この街から追い出す方が得策だと思われるが、完全に狩猟体勢のヤツが素直に応じるとも思えない。
素直に告げた所、マリアは思ってもいない提案をした。