節足動物門鋏角亜門クモ綱ザトウムシ目
とても華奢な長い脚に楕円の体。多くの文献では豆に針金が刺さっているような姿と描写されるこの虫は『ザトウムシ』と呼ばれている。
しかしその見た目から、リアはクモを連想するしかなかった。
分類でクモ網の時点で、彼女にはクモもダニもサソリもザトウムシも皆同じであるが、ザトウムシはクモではない。
(糸を吐かないしな……)
と思考に対して回答を補足するのは、彼女が目の前の事実から逃避したい為だ。否、意識を失わないために思考を廻らせていると言った方が正しいかもしれない。
間違いなくザトウムシだ。
ただしソレは、『私』が前世で見たザトウムシとは明らかに異なっていた。
針金と豆ではない。
パピルスの茎と冬瓜だ。
この脚でよくこの本体を地面に浮かせ、支えていると、天敵ながら感心してしまう。そう、このザトウムシはリアが知っている何百倍もの大きさの化物なのに! だ。
リアは息を殺し、目の前のザトウムシをただ黙視する。ヤツの行動を注意深く観察し、その長くて華奢な脚にうっかり巻き込まれないよう、細心の注意を払い距離をとる。
ザトウムシなら視力は悪いはずだ。その代わり触覚が発達しているのが致命的だが。だからこそ、リアの行動は最善の筈だ。幸いにも飢餓状態では無いようなので、ヤツの動きもゆったりとしている。そうでなければ、この僅かな行動にも飛び付いた可能性があっただろう。
ザトウムシのある残念な習性を見たい方がもし居たら、山岳部に入って登山をすると良いだろう。
登山で並ぶ際は三番目をお勧めする。
一番目の人が歩み出すと、物陰に隠れていたザトウムシが驚き飛び出してくるのだ。ヤツらは音と振動に釣られて出てくるが、真っ直ぐ突入してくるので、二番目の人は踏みつけるしかない。避けることはほぼできないし、ザトウムシも視力が悪いので逃げることはできない。それを目撃できるのは三番目というわけだ。因みに『私』は前世で三番目が多かったため、多くのザトウムシが潰されるのを見て神経症なりかけた。だが、二番目の時はその日の登山が死ぬほど嫌だった。
(そもそも…なんで私はココに居るんだっけ…)
恐怖により前世の記憶が甦った影響で、リアは今世の記憶が曖昧になっていた。殆ど忘却といって良い。思い出すためにも周辺を見渡し、次に自分の体を確認する。
ザトウムシが居る環境のため、察しはつくだろうが辺りには多くの木と草が繁っていた。森なのかもしれない。
また、足元の地面が少し傾斜しているのと、履いている靴からも、やはり山に入りかけている状況ではないかと思われた。自身はスカートを身に付けていたが、中に脚絆の様なものを履いている感じがする。背中に重みを感じるので、何かを背負っているのは間違いない。
登山……だったのだろうか。独りで?
転生しても寂しい人生なのかと、思い耽っていると、突如―――…
「リアぁああ―――っ!!!」
少年の声が響き渡り、付随して駆ける音と振動が地面から伝わる。その見事な喧騒はザトウムシを刺激するのに充分であった。目の前を通過していた細い脚に力が宿ったのが見てわかる。
ああ、この声は…、この『馬鹿』という言葉が相応しい感覚は…、間違えようがない。忘れられようがない。
「リヒト」
思わず呟いたリアの言葉が決定的なトドメであった。
ザトウムシが一瞬でリアを捉えた。視覚ではなく感覚でだが、一度変わった空気は元には戻らない。彼女が再び無価値な状態に成れるはずは無かった。
終わった……前世の記憶を思い出した途端、今世の記憶も曖昧に終わるとは、この記憶もまた引き継ぐことは可能なのだろうか。
リアが意識を手放しかけたところ、迫ってきていたザトウムシの脚が一本軽快に吹っ飛んだ。
「リア! 大丈夫か?!」
いつの間にか真横に着いた声の主が、件の脚を切り飛ばしたその剣を片手に構え、彼女の顔を覗き込む。
金茶色の真っ直ぐな瞳が、リア自身の姿を映していた。
少年『リヒト・ファンゲン』は、リアの幼馴染みで、この世界に相応しい設定である。彼の父親は爵位を与えられている平民で、彼の夢もまた『騎士』である。彼が手に持つ剣はソレを象徴とするかの様に『真剣』であり、彼の願いも真剣だ。故にリヒトは素早くリアをもう片手で抱えあげると、他七本の脚を掻い潜り、早急な脱出を試み成功する。
ザトウムシから離れるため、木々の合間を縫って走る彼を、一連の流れを身近に見た少女は通常なら恋慕うに違いない。
「悪い…お前、クモが苦手なのに…独りにして…」
先程と違い優しさと複雑な心境が声色として滲み出る。リヒトの懺悔に近い呟きに、リアは声をかけた。
「なんで刺激したの」
「……は?」
疾走していたリヒトの歩みは一瞬で失速する。
「あと、アレはザトウムシだよ、クモじゃない。嫌いだけど」
「ざ、ざとうむし?」
そう言えばザトウムシは日本語だ。とリアは考えるが、クモも虫も日本語である。否、会話が無事成立しているのだから、日本語を喋っているのだろうか。
ただし、ザトウムシの『座頭』は盲人の階級という『日本』独自の単語であり、連想したからこそ付いた名だ。ならば、別の国で呼ばれていた名称の方が、彼にも馴染みがあるかもしれない。名前からしてもリヒトは外国人の風貌をしているからだ。
「えっと、『あしながおじさん』? 『羊飼いのクモ』?」
「突然なんだ!?」
当然の反応が返ってくる。
しかし、距離をとったとはいえ、ザトウムシはまだ近くに居り、背後から向かってくる気配がする。リアは慌ててリヒトの口許に人差し指を持って行き、「静かに」と告げた。
「アレは目が悪い生物なの。だから静かにしていればたぶん襲っては来なかった」
「リアの目の前に居たのにか?! いや、でも現に襲われているじゃないか!」
「それはリヒトが刺激して、私が反応で存在をばらしたというか…」
「え…じゃあ俺のせいか?!」
途端、落ち込むリヒトにリアは苦笑するも、
「でも助けてくれたのは事実だから、ありがとう」
と素直に告げて今度は確りと微笑む。
その言葉にリヒトも安堵したのか、漸く進む速度に意識を向けた。リアもそれに気がつき、直ぐに彼から離れると平行して走る。彼の体力を温存すためにも負荷は最低限にする必要があるからだ。
「脚も切り落としたし、流石にもう大丈夫なんじゃ…」
リヒトの発言に頷きたくなるが、そうならないのがクモ恐怖症の性である。
「ザトウムシの中には自ら脚を切り離すモノが居るらしいんだけど…」
「は? わざとか?」
ザトウムシに限らず、クモを含めた節足動物には自切をするものが多い。節足動物以外の生物で一番有名なのはトカゲだろう。
しかし、この世界にトカゲが居るか思い出せない。そもそも、前世と同じようにトカゲが自切するか分からなかったので、続けて告げようと思っていた言葉をリアは飲み込んだ。
よく考えてみれば、ザトウムシの知識もこの世界では当てはまらないのかもしれない。そのことに気づいた途端、今までにない恐怖に襲われる。
リヒトが助けてくれなければ、本当に死んでいたかもしれないのだ。
それだけではない。
もしかしたら本当に『復讐』されるかもしれないではないか。
本来、自切とは自分より強い相手から逃げる防御回避行為だが、囮や油断を誘う行為に使えなくはない。
もし、ザトウムシが己は強いと自覚していたら、獲物は絶対に逃がさないという意思を持っていたら。現にザトウムシは危険を感じた時に臭腺から臭液を分泌するのだが、その兆候は無かった。否、それらの知識も考えもあの化物には無意味なのかもしれない。
「……だめだ」
「リア?」
「私、アイツを斃さないと…不安で眠れない」
俺の幼馴染みの女の子は物騒なことを言い始めた。
様子が今まで以上におかしいリアに、リヒトは若干引きながらも、静かに頷いてくれた。