節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目ハエトリグモ科アリグモ属
擬態。
前世の小学校の授業で既に習った覚えがある。
ただ、そのときは『擬態』という単語は使われず、『他の虫の真似をしている虫』等で習ったはずだ。
ミツバチにそっくりなアブの紹介を四コマ漫画風に描いて提出した思い出が『私』にはあった。黒歴史だ。
他にも枯れ葉に似ているコノハチョウなど、虫には『擬態』しているものが多い。
――虫には『擬態』しているものが多いのだ。
『私』の職場は室内であったが、外部から虫が入り込みやすい環境にあった。
ある日、同僚の女性が「あ…アリ」と言いながら、自分の腕を歩く黒い物体を落とそうとした。
その黒い物体は簡単に落ちたかに見えたが――糸を引いて彼女の腕と床の宙を漂った。
女性はその状態を気にもせず、糸を切るような動作をして『アリ』をしっかりと落とそうと試みていた。
『私』はたまらず悲鳴を上げた。
糸を出す成体のアリは日本では確認されていない。
『私』は事前にその正体を把握していたからこそ、すぐに理解したのだ。
節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目ハエトリグモ科アリグモ属
分類からもわかるとおり、アリに擬態しているとされるクモだ。
クモ網には珍しく、頭部と胸部にくびれがあるため、頭部・胸部・腹部の三節に分かれて見える。
また、常に第一歩脚を頭部より持ち上げているため、触覚と誤認する。
体表は黒い上に、種類によっては腹部に縞模様もあるため、本当にアリに似ているのだ。
大きさもクロヤマアリくらいしか無いモノは、遠目だと本当にアリにしか見えない。
そう、『私』でさえもアリだと誤認した。
糸を出すまでは。
***
「クモだと?!」
「…あれだけ大きければ…流石にクモだってわかるよ…」
リアの「クモ」発言にリヒトが信じられないというかのようにその名を口にする。
だが、どう足掻いてもリアにはクモにしか見えなかった。
「目の数だって多いし、触覚にみせている肢はどう見ても脚だし、腹部には出糸突起がちゃんとあるじゃない…あとちょっと糸出てる…地面に…」
「え、いや、その…すげえな本当」
クモである証拠を次々とリアが挙げると、リヒトは感嘆の声を漏らす。
しかし、アリグモはハエトリグモ科だ。
名前の通り『ハエ』を食べる種が多いが、同じ『クモ』を主食とするヤツ、『非肉食』性のヤツもいるらしい。
走り回り、ジャンプが得意で、視力が良いのがヤツラの特徴だ。
ただし、アリグモは通常のハエトリグモ科よりはそれらの能力は劣るとされる。
街に侵入してきたアリグモが流石に何を主食としているかまではわからない。
むしろ、アリグモは『アリ』を捕食するために擬態している説があったはずである。
他にも『アリ』に似せることで外敵から身を守っている説があったが、この世界では化物化のおかげでその両説は無いと断言できるのではないだろうか。
ただし、アリも化物化しているなら、勿論両説は生きることになる。
街の人々は化物の出現で殆ど建物内に避難済みの様で、道には全く人がいない。
しかし、あの巨体が建物に突撃することを想定した場合、ドワーフ製のこの施設以外は耐えられないのではないかと不安になる。
幸いにも前回のザトウムシと同じく、あのアリグモも飢餓の状態では無い様だ。
このまま、街を通過してくれれば被害は最小限に抑えられるかもしれない。
リアもリヒトも刺激しないよう、窓の内側から静かに眺める。先程まで叫んでいた女性も室内にいる安心感と、『アリ』であるという勘違いからか、大人しくなっていた。
ところが、自体は一変することになる。
数名の兵士がアリグモの正面に現れたのだ。
アリグモが向かっている先に城があったこと、アリグモを『アリ』と認識したためか、対処できると思ったらしい。
仮に『アリ』だったとしても、侮りすぎである。
アリは先にも挙げた通り基本肉食性の雑食性である。
大顎を持っている上、咬合力があり、自分の体重以上のものを一匹で持ち上げることが可能な力持ちだ。
針や毒腺を持つ種もあり、日本でも外来種の『ヒアリ』が脅威で話題になった。
正直、クモと大差ないのではないかと『私』は思う。
兵士のうち前方に居た者は長方形の盾を横に並べ、阻塞を作った。
遥か後方に弓矢を持った兵士がアリグモを狙っている。
その中間に配備、待機していた剣を持つ兵士は、それらの準備が整った瞬間、アリグモの脚を目掛けて飛び出した。
リアは思わず「まずい!」と悲鳴に似た声を上げる。
彼らはアリだと思っている。
だが、実際はハエトリグモ科のアリグモなのだ。
リアが声を挙げた時には、アリグモは糸を引きながら剣士と阻塞を跳び越え、弓兵の前に降り立っていた。
その衝撃と振動から、地面に立っていた兵士は皆、体勢を崩し倒れ込む。
何人かはアリではないと気がついた様であった。だからこそ、恐怖で動けないのかもしれない。
一人の弓兵は矢をつがえることができず、一人は弓を落としていた。
ああ、そんな―― まさか―― これ以上恐怖を植え付けられたくはない。
眼の前で人がクモに襲われるところなど――そんな恐怖――一生癒えそうにはない。
思わず意識が飛びそうになるリアを支えると、リヒトは「悪い」と告げながら、窓を破壊して外に飛び出していた。