リヒトの従者
二十八日後――
乗り物酔いは転生しなくて良かった…と王都へ向かう馬車の中でリアはまず思った。
道はあまり整備されておらず、馬車の作りも良いとは言えない。
馬の歩く速度もバラバラで、前世の『私』であったら、完全に酔い潰れて、嘔吐していたはずだ。
ちらりとリヒトを確認するが、彼も平然としており、車内の隙間から、流れる景色を眺めている。普段から乗っていて慣れているのか、または馬術の心得があるのだろうか。騎士を目指しているのだから、後半の方が当たりかもしれない。
しかし――暇だ。
この場にはリヒトとリアともう一人、リヒト専属の従者が居た。
前回イリスの件でわかっていたがことだが、彼の従者――使用人は男性である。
ソルよりも歳上だろうと思われるが、その分貫禄があった。
紺色の正装を着こなし、今も静かに読書を、…もしかしたら手帳で予定を確認しているのかもしれない。
名前はグラベルとのことであった。
彼が身につけているもので、リアはこの世界のことで把握したことがある。
まず、彼は眼鏡をかけていた。
眼鏡と言えば、リアの前世では『人間に機械的に手を加えられる技術』で最古からの存在している道具として挙げられている。
それはつまり、この世界で眼鏡を使用しているということは、医療技術や術式などで目を矯正できていないことがわかる(ただし、法式の場合は可能なのかもしれない)。
次に、彼は懐中時計を身に付けていた。
懐中時計を作成できる技術は言わずもながだが、問題は『時間の概念』があることだ。
確りと見てはいないが、単位は前世の世界と変わらないようである。
この世界は前世の十四世紀頃の生活水準かと考えたが、一部の機械、特に高水準のモノは異人が作成しており、それを輸入しているとリヒトには言われた。
我々、ヒトは『モノ』作りが得意ではなく、発展していないらしく、同じく『虫』を含めた『世界種』等の生物に対しての研究もほぼ行われていない。
なぜかと疑問に思っていたところ、リヒトにはそれが普通のことであったため、逆に不思議がられたが、リアの前世の話を聞いていたため、それも当然かとも思ってくれたようだ。
ただ、旧世界と現世界を分けて言っていることからもわかる通り、この世界は二回目、もしくはそれ以上の回数目なのだという。
初めの世界と間違いなく繋がっている筈なのに、知識と技術と思想の発展は途切れ、記録も歴史も残っておらず、現在に至る。
途切れた原因は不明――というよりも覚えているヒトが存在しないのが現状だ。
世界種で特に長命のモノが現在も生きていれば判明するかもしれないが、その様な雲を掴むようなことをしてまで調べたいと思うヒトは居る訳がない。『もしかしたら、その第一号はリアかもな』と冗談にされてしまう程だ。
――リアが『虫』に詳しいと思われ、重宝されたのもこの様な理由であった。
「リア、術式は使えるようになったのか?」
ずっと無言だったリヒトが突然口を開いた。
暇をもて余していた故に、思考意識が飛んでいたため、リアは大分遅れて反応する。
「……全然。シーナのために出発前には使えるようになりたかったんだけど…」
突然、ネコの名前が出てきたため、リヒトは首を傾げるが、リアはその様子に気がつかない。彼女の言葉は続けられた。
「家を空けるから…シーナのご飯、そのまま置いて行っちゃうと腐っちゃうでしょ? だから乾燥ご飯を作ろうと思ってたんだけど、天気が余り良くなかったのと道具が無かったから上手に天日干しできなくて…」
「リアのトコのネコなら、俺の家の庭でよくカエルとか鳥を捕まえてるから大丈夫だと思うけど………てか言ってくれれば、俺、乾燥したのに」
正直、随分ネコに対して手厚い対応だとリヒトは口から出かかったが、唯一の家族なのだから仕方ないかとも思う。
「そうだね、リヒトを頼ろうかとも思ったけど、狩り食いの件は私も知ってたから…大丈夫かなって、でも結局、リヒトのお家にお世話になってるねこれも…」
「それは問題ないでしょう。使用人の女性陣の多くは特にカエルが苦手でございます。むしろ可愛い隣猫に感謝しておりますよ」
突然、グラベルが会話に加わった。予想外のできごとにリアとリヒトが目を見開くが、互いの反応に可笑しかったのか笑いだす。
少し恥ずかしくなったのか、グラベルが恐縮し始めるとリアは彼に向き直り、笑顔で話しかけた。
「もっと、お話してもらえますか?」
「話と…言いましても――」
グラベルは目を瞑り、顎に手を当て真剣に考え始める。その様子が更にリヒトの笑いのツボを刺激しているようだ。「こんな…グラベル初めてみた…」と小声で呟いている。
その様なリヒトの反応を得て、グラベルは何か思いついた様であった。目を開くと「では」と、掌を翳し、リアに言葉を続けた。
「リア様の欲しいものを教えていただけますか? きっとリヒト様が今、一番知りたいことですので」
「は?!」
途端、リヒトが真っ赤な顔をして、グラベルを睨みつける。この様な反応のリヒトは二回目だとリアは思うが、話に付き合うというグラベルの厚意を無駄にはできない。リヒトの反応を見事に無視すると、少し悩んでから応えた。
「珈琲豆…ですかね」
「…珈琲豆ですか」
「珈琲豆…」
三人が『珈琲豆』という言葉を反芻する。空気が重くなったが、それはリアが余りにも真剣に言ったためであるのと、珈琲豆の流通が少ないことから入手が難しいという理由から二人が消沈したためである。
「理由をお尋ねしても?」
グラベルが即座にリアに確認をとる。
代用できるモノが無いか、きっと探っているのだろう。
リアは苦笑いしながら、どう説明しようか考えていた。理由は二つある。
前世において『私』は大の珈琲好きであった。
好き――というのは語弊があるかもしれない。
水やお茶の代わりに、泥のようなブラック珈琲を飲むのが日課であったのだ。それも一日に十杯以上は飲んでいた。一時、これは身体に不味いかも知れないと、紅茶やただの水に切り替えて珈琲断ちを試みたが、一ヶ月も我慢はできなかった。
いくら飲んでも睡眠ができてしまう状態だったので、ほぼ『カフェイン依存』だったのかもしれない。そう、つまり、単純に珈琲に飢えているといえた。
そして、次もまた重要である。有名な話なので、ご存知の方は多いかもしれない。
珈琲――『カフェイン』を摂取したクモは、中枢神経が麻痺するのだ。つまり、酔うのである。そのため、クモはカフェイン臭を避ける傾向にあるとか…。よって、クモが侵入しそうな場所に珈琲豆を置いておくだけでも、予防効果があるという。
だが、この二点をリヒトに説明するのはまだしも、リアに前世の記憶があることを知らないグラベルに説明するのは困難であった。
仕方ないので、嘘と真実を混ぜてリアは答えることにする。
「昔、父が貴重な珈琲を飲ませてくれたことがあったので、いつかまた飲んでみたいと思っただけです。あと、クモは珈琲が苦手なんですよ?」
「そ、そうだったのですね。しかし、クモが苦手なモノだったとは…」
「クモが苦手なモノなら、他にもミントとかもあるので、それも欲しいモノですね」
「ミントなら…」
リアのクモ嫌いは生粋だと、リヒトは再認識すると共に、ペパーミントを庭に植えようかと考えるが、グラベルは察したのだろう言葉を続ける。
「ミントは確かに手に入るとは思いますが…ネコを飼われている方には少々難儀ですね」
「そうなんですよね、ミントは繁殖力も強いので庭に植えると大変ですし。ネコは食べると中毒を起こすこともありますから…、実は珈琲もなんですけど…。まぁ、シーナは優秀なネコなので、暫くは大丈夫だと思います」
庭に植えたら、カエルを狩りに来るシーナに危害が及ぶ。リヒトもまた、グラベルも同じく再び肩を落とした。
その二人の様子は確かに面白いが、やはり誰かと会話するのは楽しい。そう思えるようになってすぐ、馬車は王都の門戸を潜っていった。