リヒト父
「リアか…」
ファンゲン家の玄関に初老の男性が立っており、リアは早速声をかけられた。
黒い礼装を身に付け、今にも外出しそうな様子のこの人こそ、リヒトの実父である『ソル・ファンゲン』である。
この村から少し離れた土地に王都があり、その国王から爵位を受けた人物で、この村では誉れなことであるのと同時に当然ながら有名人であった。
爵位を与えられた具体的な役職は誰も知らず、良い噂もあれば悪い噂も存在している。
しかし、リアにとっては幼馴染みのリヒトを含め、大切な人であった。
故に、噂など気にしたこともなく、ただ、変わらず彼に接している。
「お久しぶりです。お忙しいと伺っていますが、お加減いかがですか?」
「それは妻の方だな」
「…芳しくないと…」
リヒトの実母はあまり身体が丈夫な人ではなく、末子のリヒトを産んでからは殆ど寝たきりの生活を余儀なくされている。
診療所の薬が少ないのも、医者が余り常駐していないのも、ファンゲン家が独占しているからだと揶揄されることがある。これも、悪い方の噂だ。
「リヒトと共に薬草を届けてくれたお陰だ。時間はかかっているが順調に回復している…君には感謝している」
そして、その悪い噂を払拭させるためにも、リヒトは村のために率先して行動し、皆を守れるような騎士になるという夢を持っている。…なぜ良い噂は広がり辛いのだろうか。
リアは思わず溜め息を吐きたくなるが、ソルの前で失礼はできないと飲み込み、そして微笑みながら応えた。
「私の力は微々たるモノです。それよりもソル様はこれからどちらに?」
リアの発言にソルは驚嘆な表情を垣間見せたが、直ぐに己の格好を再認し、納得したのか頷いて応える。
「王都にだ。王に呼び出されている。今は使者の馬車待ちだ」
「オライオンですと、今日は外泊を?」
「そうなるだろうな……さて、君は何用でこのファンゲン家の地に足を踏み入れようとしている」
そうだったと、リアは目を丸くするが、次には再度頭を下げてからソルの顔を見据える。
リヒトとよりもはっきりとした金の瞳が、リアを来訪者というよりは侵入者として捉えていた。
家主なのだから当然だろう。
逆にそれはリアを一人の成人者として扱っているに他ならない。
ソルは村の人々とはやはり異なる人間であった。
「失礼いたしました。御子息リヒト様に会いに。面会は可能でしょうか」
「愚息なら剣術の稽古を終えて、今は妻の所だろう…」
これは出直した方が良いだろうか、とリアは思考する。リヒトの邪魔をしたく無いのは勿論、これから家主が不在する中、入るのは躊躇われる。
「……思っていたよりは普通だな」
「? はい?」
突如、ソルから話しかけられ、リアは首を傾げる。『普通』とは先程の会話にもなっていたお加減に『変わりがない』という意味だろうか。
「『記憶』に混濁が見られると皆が噂していたのでな。だが、こう会話すると落ち着いているのがわかる」
確かに、リアは今世の記憶を上手く紐解き紡ぎ、ソルと会話ができている。恐らくだが、緊急・突発・俗識で無ければ、記憶の引き出しは用意に開け放たれるのだろう。
しかし、一番の理由はリヒトにあると彼女は思っていた。彼が記憶を開けやすくしてくれているのだ。
「恥ずかしながら…未だ。今回も術式のことを確認したく訪ねました」
「術式?」
「はい、以前は使えていたはずなのですが…今はその面影が全くなく…」
意外にもソルは確りとリアの言葉に耳を傾けてくれる。使者が来るまでまだ時間があるのだろうか、とリアが気を逸らしかけた瞬間、彼はその口を開いた。
「君はその名と異なり、火を操っていたな。此度からは名に相応しい、水を操ることに集中してみてはどうか」
「…名、ですか?」
リアの反応にソルは訝しげな顔をするが、直ぐにそれも和らぐ。リアの記憶障害をこの発言で理解したようであった。
「君の両親も含め、我々は我が子に、旧世界で失われた複数の言語からその単語を借りて、名を付ける傾向にある。これは俗信に近いが、望む術式の属性を発現させたいが所以だ。我々ファンゲン家は『火』属性を…リオネ家は『水』だった筈だ。実際に君の名前も『海岸』という意味だ」
ソルによる助言が得られると思っていなかったリアは、更に驚愕するが、同時に理解もできた。旧世界の言語とやらはどうやら前世の世界で使われていた外国語と似ているらしい。
自身も含め彼らの名前、そして自宅に居るネコの名にも納得する。
もし『私』の知っている外国語なら、『シーナ』は『海』を捩った名前もなのかもしれない。
「名は体を表すと言いたいが、事実は大いに異なることもある。リヒトは水を操ることも可能であるし、全く術式を使えない者たちも居る。だが、それを気に止む必要はない。寧ろ世界の加護を受けるやもしれん」
「…星のためでしょうか?」
「そうだ。この村が他村に比べ貧相であっても、化物の襲来はほぼ存在しない。無論、先日、君たちが事前に化物を始末した件の報告は受けているが、そのような報告は多いのが実情……つまり、水面下で処理され、村自体に実害が無いのだ」
ソルの言葉を聞き、リヒトが言っていた言葉を改めて思い出す。
『緊急時や、それこそ戦争位にしか重宝しない』術式…
リアが使えなくなってしまったのも、『世界』のせいなのかもしれない。――『世界』とは何なのだろうか。と彼女は再度自分に問いかける。
答えは出そうにない。
「父上! リア!」
玄関扉が開いた思った瞬間、息を切らしたリヒトが声と共に顔を曝した。その乱れ具合からも走ってきたのは明白である。
「騒々しいぞ」
「申し訳ありません。父上が発つと聞いたもので挨拶したく…あ、あと偶然、敷地に入ろうとするリアを窓から視認しましたので、彼女を追い返すのではないかと少し不安になり――」
「え? 帰るよ私、邪魔でしょ」
リヒトの言葉にリアは即反応するが、リヒトも反論しながら彼女の腕を逃がさないようにと掴む。
「何でだよ、俺に用があって来たんだろっ」
「そうだけど、イリス様の具合も悪いんでしょ? 今度改めて何か持ってくるね、粗品になるけど」
「いらねえよ、そんなの。良いから入れよ」
因みに『イリス』とはリヒトの実母の名前である。
しかし、今日のリヒトは強引だ。
なぜだろう? とリアが首を傾げていると、側で立っていたソルが咳払いをした。
当然二人とも跳ね上がるように驚嘆し、無言になる。静寂の中、タイミングが良いのか悪いのか、使者の馬車が到達した。
「リヒト、留守を頼む。リア、すまないが少しだけでも良い、妻に顔を見せてやってくれ。彼女は君に礼を言いたがっていた。日にちを空けすぎない方が良いだろう」
早々に告げるとソルは馬車へ向かい、乗り込んでしまう。
その後ろ姿に二人は頭を下げると、馬車はすぐに動きだし、屋敷を離れて行った。
しばらくその様子を見届けていたが、見えなくなるとすぐ、リヒトはリアの腕を取ったまま、彼女と共に扉の中へと戻っていった。