作戦会議
―――二日後。
件の化物を確認したアイが、化物の大きさに合わせた洞窟を見つけ、早速『罠』を設置した。
化物――オオツチグモの大きさは、以前王都に出現したアシダカグモの子グモくらいであるようだ。
アイが選んだ洞窟の入口が、王都で泊まった宿屋の廊下くらいの広さであったからだ。
「罠はどういったものを?」
「んー色々考えたけど、くくり罠。それをクモの足跡になる場所にいくつか仕掛けた」
「じゃあ、誘き寄せる方法は?」
「それも色々考えたんだけど、やっぱオレしかないかなーって」
オオツチグモは徘徊性のクモだ。
しかし、徘徊性クモが常に餌を求めて動き回っているわけではない。勿論餌を追いかけ回す種もいるが、多くは身を潜め、目の前を横切る生物を素早く捕らえるのだ。網を張らないだけで、その習性は造網性クモの本質と変わらない。
王都にやってきた化物グモたちは、偶然通りがかり、偶然近隣で卵が孵った。
そして、王都は世界に嫌われているという必然の土地でもある。
対して、この獣人の集落は世界そのモノと言っても過言ではない。
獣人たちは世界の概念を宿しているし、集落の文明水準は落としている。
建物は異人によって世界の恩恵を受けているのだ。
事実、化物化した野生生物が侵入してくることはない。
件の化物も、近隣(と言っても馬車で三日かかるが)のヒトの村寄りに潜伏しているらしい。
「光で羽虫とかを誘き寄せて、生き餌を用意する案も考えたんだけど、偶然じゃないと化物も通らないだろうし。実はオオツチグモの刺激毛、素材としてちょっと欲しいからさ。誘導する時に捕ろうかなって。んで、そのまま洞窟の奥へ突っ走る」
「でも、罠を避けて走るのは難しくないか?」
アイの提案にリヒトが問いかけるが、それは問題ないだろうとリアは即座に思う。
「だから、幅ギリギリなんですね」
「そ、両端に罠仕掛ければ良いからさ、オレは悠々と真ん中を走れる」
クモの構造から、歩脚が通れば真っ直ぐ進むだろう。
少しでも余裕が有れば、壁や天井を這って獲物に飛びかかるだろうが、この洞窟にそれを行う余裕はない。
恐らく入り口から体勢は変えられないはずなので、彼らの歩脚の足跡に合わせて両端に罠を仕掛ければ捕らえられると、アイは考えた。
「そ、それで化物が罠にかかった後、どうやってアイは外に出るんだ? 別に出口がある洞窟なのか?」
リヒトの疑問は当然であった。
クモが入口ぴったりの大きさならば、隙間は僅かだ。さらに全身に毛が生えたクモである。
罠にかかれば暴れることが明白である化物の、しかも隙間を潜り抜けるのは至難だ。ならば、他に出口があると考えるに決まっている。
しかし、アイの回答は意外なモノであった。
「クモの腹の下をスライディングするよ」
「す、すら?」
「滑り込むの。アレだけの大きさなら充分潜り抜けられると思うぜ? 刀を平行に持ちながらやるから、無理なら割くし」
確かに、クモに限らず、多くの生物は身体を宙に浮かせて歩行する。だからといって、常人にはその下を潜ろうと言う発想は無い。目前に迫る大きな牙を掻い潜るなど、どう考えたって恐怖だ。
そして無謀ではないかとリアは思っていた。
「…糸疣の他に、クモの腹部下には篩板がある種も居ます。そこから糸を出されるかもしれません」
「しばん?」
「知ってる。ウズグモとかの一部のクモが持つ器官だろ? でもオオツチグモは違うし」
そう、『篩板』。アイが言ったとおり、ウズグモ科、ハグモ科などの数種の造網性クモが持つ、糸疣とは別の糸を吐く器官だ。粘着性が強い糸で、主に網で使われるが、そのまま獲物を拘束することもできる。
「ですが、エメムに感染している以上、警戒するべきでは? 篩板を持つように変化していたら…それでなくても、オオツチグモは歩脚の先に出糸管がありますし……」
造網性クモの代表格は以前襲われたコガネグモ科だろう。
普通、造網性クモの網の横糸は粘着力がある糸を使用するが、ウズグモ科等のクモは集合腺がないため横糸に粘着力がない。
その代わりに篩板からの糸を第四歩脚にある毛櫛で梳き取り、横糸に付着させるらしい。
この糸は糸くずのようで梳糸と呼ばれるが、旧世界のお化け屋敷等の廃屋を表現する際、よく埃の様なクモの網を見かけたので、梳糸がモデルなのではないかとリアは思っている。
篩板の由来には三つの仮説が提示されていた。
一つはハラフシグモ科のような原始的クモが持つ前内疣に由来し、多くのクモが持っていたが、現在は少数の種に残り、他は失ったとする説。
二つ目は、前内疣に由来するが、一部のクモにだけできたとする説。
三つ目は、前内疣が消失したあと、一部でその部位の表皮が肥厚してできたとする説だ。
三つ目の説ならば、充分オオツチグモでもエメムの影響で篩板を持つ可能性があるとリアは考えた。
そして、オオツチグモは歩脚の先に出糸管があるため、そこから糸を出すことができる。ガラスなどのツルツルした面を、粘着性の糸を使うことで垂直でも落ちないようにする。これは、オオツチグモが巨大故に、普通の歩脚の構造では落ちる可能性があるためであると考えられている。因みにオオツチグモは高いところから落ちると死ぬらしい……そこまで思い出して、巨大化しているクモも高いところか落とせば死んだのでは、とリアは思ったが、その考えも直ぐに自身で棄却する。
エメムが生かそうとするだろう。
「んー…でも、糸疣もクモの種類によってはお尻の先じゃなくて、腹の中側にあるのもあるしなぁ……まあ、篩板じゃなくても糸疣が腹にある可能性は無ではないと思うけど…」
アイの人生はとても長く、経験も豊富だ。もしかしたら、化物化しているクモの生態は彼の方がずっと詳しいのかもしれない。
リアは初め、この世界が異世界である思い、自分のクモの常識が通用するか懐疑的であった。結果、ほとんど問題なく通用している。だからこそ、本来存在しないモノが有るかもしれないという不安は杞憂だ。
それでも彼女は忘れない。
クモへの恐怖と、エメムの脅威を。
大事な人が危険な目に遭う姿は、二度と見たくはなかった。
「わかった。でもやり方は変えられないから、武器を変える」
そう言いながら、アイは愛刀である山刀を手に取った。刹那、その刃に炎がまとわりつく。
燃え上がる刀身は赤く輝いているが、朽ちる様子はない。養父製なのだろうな、とリアが思う間もなく、自身の膝が笑いだし、崩れたことに彼女は驚嘆した。
リアは立っていることができなかった。
全身から何かが抜け出す感覚と、深い睡魔が襲ってくる。自己管理を怠っていた覚えは全く無い。
考えられるとすれば―――
「リア! 大丈夫か?!」
リヒトが慌てて駆け寄り、彼女の身体を支える。
当然、アイも刀を離して彼女の側に来た。放置された刀をリアは横目で確認するが、既に元の状態に戻っている。しかし、その温度はまだ高い。周りの土が焦げていた。
「だ、大丈夫。突然眠くなっただけ…」
「は? 眠いって…」
リヒトの声が呆れている。リアは苦笑すると、未だ心配そうなアイに向かって言った。
「それなら、糸も簡単に焼き切れそうですね」
「…あ、ああ」
「アイさん、その力は良く使うんですか?」
そう、この世界の術式が使えないアイは、本来、炎を発することはできない。
彼が刀に火を灯したのならば、それは以前教えてくれた(擬似)近誓者の能力の一つだろう。
彼は「『世界の概念』を宿らせられる」と言っていた。
世界の概念の『火』――つまり、リアのルーアハだ。何かが抜け出すあの感覚は、恐らく間違いない。
「え? いや? …そうだな。火を使ったのは八十年振りくらいかも。炎を汚すなって親父に怒られるし」
「八十年?」
目を丸くしながらリヒトが呟くが、リアはその様子には気がつかない。己の推測が的中したことに身震いをしていた。
「もうひとつ。その力は普段どれだけ使えますか? 使えない時期とかありましたか?」
「使うのに限度があるかはわからない。でも火を使う時はもっと短くしている。今回が最長。そんなに頻繁に使わないから、確かなことは言えないけど、使おうと思って、使えない時期は無かった」
「つまり、ルーアハが一つの集合体へ帰還していても使えるということか…」
リアの呟きに何が起きたのか理解したリヒトが慌てて彼女の両肩掴み、身体を確認する。
「もしかしてアイの力って… リア! 身体は大丈夫なのか?!」
この流れは懐かしい。あの頃は立場が逆であった。リヒトが術式を使った時に、彼のルーアハが消費され、その身を危険にさらしたのではないかと、リアが狼狽したのだ。
だが、今回の件も、あの時のリヒトと同じくリアは恐怖を感じなかった。
「大丈夫… 抜けた感じはしたけど、失った気配はないから」
「けど…」
「多分…だけど、獣人が大地から肉体を借受する方法に似てるんじゃないかな、だから平気。でも、アイさんに貸している間、私は動けないから…リヒト、化物を燃やすのは任せても良い?」
不安気な表情を隠さないリヒトに、リアは笑顔で嘆願する。加えて「火は得意でしょ?」と彼女に言われてしまっては、自負していた彼には断れない。
「…わかった。任せてくれ」
誇らかな笑顔でリヒトは言った。
その様な二人の傍で、アイは一人困惑している。