ヒーローショー
苛烈な戦火を宿して煤は黒、帰還した兵士が泥濘のように分厚く堆積した土埃や垢を削ぐような素振りで極めて屈強な肉の鎧は運指に絡まり奏でられ少しずつ、丸められていく。爪痕から覗くは、あくまで一般的な逞しさで。英雄が、並の男に帰る瞬間だった。
強烈な陽射しを躱すように輝いた緑が風になびいている。男は黒の金属質、その脱け殻を土に落とす、すると芽吹いたばかりの秋桜はその辺りだけがぐーんとあり得ない変容を遂げて鮮やかな紫は開いた。
「美麗しい。カリメタを与えたにしろ苗が良くなきゃこうはいかんだろう、蓄えておこうか、美菜の挙式も近いからな」
男は収穫用に携えたバケツを返し、普段なら直に落とす英雄たる根源の顕現・カリスメタルを容器へと落としていく。
評判の良い自家栽培の花屋、一介の社会人に過ぎぬ男は、かの大闘技場で催される『ヒーローショー』の舞台に上がれば文字通り、世界を救う超人とて常軌を逸する。数々の名勝負を繰り広げながら勝利という予定調和を貫き通し一時代を築いたカリスブルーの出し抜けに訪れた相討ちたる敗北と、死。国内からたちまち世界中が騒然となるなかで、胸中に突如注がれた恍惚、やがて全身へくまなく木霊する全能感は黒く、崇高だった。どうして選ばれたのだろう、彼自身にも解きようのない因縁だった。
闘技場の地下より際限なく這い出す『アザーズ』は世界に蔓延する悪趣味なテロルとは雲泥の差、破壊や虐殺には無頓着であり、純粋な戦闘本能の充足をただただ旨としていた、弱きを挫かず、否、相手にならぬ存在など眼中にはないといった感じで、歴代ヒーローとの戦闘の延々とした繰り返しがその歴史とて息づいた。無論、ヒーローの勝利という約束事ありきの民意だが、しかしアザーズの支持率は特殊な、逆説的な武道精神に基づいていた。人気はヒーローのみならず、敗北を喫する千姿万態のアザーズにさえ及ぶものだった。ヒーローショー。TV中継、グッズ販売の爆発的売れ行きにとどまらず、死をも含んだ事故の危険をものともせず闘技場の興行は毎度満員御礼だった。
男から開始されたシーズン『カリスブラック』は、彼の内面渦巻く黒い千里眼が隠された敵の泣き処を瞬時に見破って、名うての剣豪の如きカリスブレードの一閃、前シーズンの流麗な殺陣を彷彿とする見所満載な味わいとは違った、古きよき優れた時代劇に通ずるような刹那の美学が横溢しておりこちらも好評を博していた、最前の戦闘も一撃だった。
そっと手向けた、が、バサリ、と重たげに放たれると黒の気配が右腕より決壊のような幻視で流れ出してはどろりと蒸発しているので。
「すまない」
連戦の疲労かと自らを欺いてみるが心の奥底では充分自覚できている。しばらく放心してみる、青く澄む空。それでも御影石に触れる淡青色、紫、藍、丸やかに仕立て上げたブーケは複雑な対比を目に与えながらも、不思議と高らかに吸い上げられ溶け込んでいくようだった。
初めての情景はまざまざと蘇ってしまうものだ、棘状の鱗をくどいほどはべらせたおぞましい巨体が眼前に倒れ伏している、首元からスパッと断たれ、繋がれていたはずの肉塊は後方にゴロリと転がって生気を失したままに凍りつく。滴る黒い血、その黒に驚愕した。スラリと伸びた右腕の変態は漆黒の刀身で、伝う切っ先から、断面からも、胸に渦巻くものと同じ黒……。
突如襲い来る胸の黒い木霊と変態そして戦闘、日常になるにつれて衝撃は薄れフラッシュバックも頻繁に起こさなくなった。恍惚と衝動に促されるばかりではなく湧き上がる戦闘本能ひいてはアザーズへの殺意を半ば理性的に制御しつつ超現実体験への自覚を持つことで、初めてのような記憶の黒塗りは引き起こさなくなった。
だが体験が重なるごと、日に日に確信が深まってゆく。いつか、ブルーの最後の戦闘を映像で見た。それまでとは別物! 巨大なアザーズに驚く観客、絶叫、反して興奮……。あれは紛れもなくラスボスだった、そして何より、相討ちに噴き出した双方の、目映いほどの鮮やかな青。自身とアザーズは同期していることを、のみならず、歴代のカリスマどもの皆がみな。胸に木霊する各々のカリスメタルを顕現させて、背中合わせの悪霊どもと刃を交わして。
気づけば墓の裏手、見晴らしのよい崖まで来ていた。先ごろより初期のような胸騒ぎを起こすようになっていた。情景の蘇りも増え戦闘では恍惚に飲まれ一方では黒の幻視以外に記憶は失われて。一度制御されたはずの人智を超えた巨大な狂気を再び。ラスボス、つまり相討ちに終わる運命をひしひしと手繰り寄せているのだと。
着信音が響く。美菜からだった。
――お父さん?
「ああ、美菜」
――ねえ、わかってる? 今日が大事な日だって。
「もちろんさ、今花を手向けたところだ」
――忘れてたんじゃないの、もうすぐ陽が傾いちゃうよ。
「そうだな、日も短くなった。心配するな、アレンジに時間がかかっただけさ。それに可能な限り通っているからな」
――嘘ばっかり。ぜんぜんできてない、今日なんてとくに酷かった。
「ああ、すまない」
アザーズの出現ペースが急上昇しているのは事実だった。ふいに見つめた崖の見晴らし、柔らかな青に霞む白が美しく。遠く見渡せる闘技場の上だけ、不穏な黒が巨大に覆っている。強い力を感じる、これほど強烈な黒が闘技場を包む状景を見たことはなかった、そしてあの日以来の苛烈な胸の木霊。
「美菜、すまないが父さんこれから予定があってな」
――なによ…………闘技場でしょ?
「えっ」
――わたし見たわよ、生中継があってたの、かつてないほどの巨大な気配だって。ねえ! どうして反省してないの、賭け事なんてもうよしてよ、今日は命日なのよ、忘れちゃったの、母さん、止めに入って闘技場で死んじゃった……。ねえ……どうして真面目に、仕事だけしていられないの?
「ああ……とっておきの肥料をかけてきた、お前の挙式にはきっと……ああっ!」
――どうしたの、何があったの、そんな大声で……。
「美菜……」
巨大な! 初めて以来の衝撃が。
「もしものときは……畑に行くんだ、いいね」
――え、どういうことよ。
「もうだめだ……。美菜、父さんみたいな男は選んじゃいけない、健一くんなら……きっと」
男から携帯が滑り落ちる、闇に睥睨する不穏な枝垂れを孕ませてシルエット、美麗に舞わせ右腕の起伏とうに剥離して。
「ああああっ!」
瞬時。胸に墜つ衝動の飛礫、ヌルヌルと波紋を広げては重たげにさざめく黒蛇の縞、くまなく覆いて黒き海が……。沈みかけの朱が差してギラリと光沢に撫ぜて。英雄と化した凛々しき相貌は、天空を見やり、内面に黒の衝動以外、無くて。
ブーツが草地を踏みしめて直後、蹴り上げるやすでに中空にて爆音轟かせて飛翔には黒の尾毛だけなびく残り香。
巨大に浮かぶ銀河の黒に届けんと照明たる照明が全身全霊の呼び声をがなり立てていた。場内埋め尽くす口腔は一つ残らずトチ狂った合奏の音像となって。
上空、中央を滴らせたバルジの垂下、突き破る霹靂の墨がひと筆に、地平に届くや充溢した狂騒がトーンをせり上げ爆ぜてなおも爆ぜ。
鉄塔と見紛うほどに黒漆は、立像の静謐、相貌にも写すほどの沈黙を。が、のっぺりと塞がれた瞼重々しく開かれれば即座に伝播する形相の豹変、なだらかなフォルムは逆立つ剣先の蝟集へ。背面を無数の鉄条がじわじわ伸び上がりてとどまるや荘厳な後光の妖光は黒く高々と。牙覗かせて異常に歪み上がった口角のまま顎が沈んでは汚らしい粘液の黒が舞台目掛けて長々と糸を引く、無軌道にいや増すばかりの歓声を無音に帰す不気味な咆哮が一閃! 炸裂して。
――待てい!
天上より注がれた幽玄の細流は底知れぬ黒、相反して流麗な煌めきの黒のひと筋、猛々しくも緩やかに、切り立つような硬質とたおやかな曲線織りなす優雅なフォルムを湛えし黒の英雄が、ブーツから隆々とした下半身から上半身そして澄みきった相貌、居並ぶ瑪瑙。数多の熱視線の中心へ、そびえ立つ最奥の魔獣の正面へと降臨。
英雄は右足を真後ろに腰を低く、右の長く鋭いブレードを後方へ掲げて身をひねり、左肘を上方に突き出してバランスを取る。正面は円形に並んだ鉄条をあっけなく散逸させ無秩序にうようよと厭らしく蠢かせる、鞭のように俊敏にしならせ振り下ろされる数え切れない一筋一筋の突先にはウツボにも似た獰猛な牙の歯列が覗き不快な声でうめく。捕まればひとたまりもない。巨大な足がのし、のしと接近するので。一目で、破格のスケールに反して一縷の隙も見当たらない、英雄は瑪瑙を閉じた。
現状のままの情景が瞼の裏へ、間合いを詰める大股の一歩、死角はまったく変わらない…………、が、英雄の刀身の根元、その真下から黒の千里眼が発動する刹那を見逃さず。黒点はジグザグに地を這い巨像の背後へと忍び込んだ、泣き処は背後に! 黒の導火線が宿敵の真後ろから高く跳躍するイメージをかいま見た刹那、瑪瑙は再び現れた。
一寸の狂いもなく英雄はジグザグと、黒の疾風は瞬く間、跳躍地点を得ているので! 背面にはビッシリと鉄条の獰猛が埋め尽くし奇声の渦、しかし、中央ラインだけわずかに希薄だった、今。
蹴り上げた英雄は長大な獰猛の狂乱をよぎっていき一筋、一筋が止まって見えるほど各々の空虚物語る哀れな振り向き様の連続を見やっては高く。幻視が頭頂部の中央へ走るや、英雄はそれを見下ろす高みへとすでに到達している、中空から、更なる弾みで蹴り上げ両腕を下方へ、左を残して後ろから前、美しい円に舞わせて右の刀身が凄まじい速度で振り下ろされた!
カチリ、と刃が頭頂部に噛み合った、英雄の黒き幻視は宿敵を叩き割っていた、しかし……。
瞬殺を逃した運命、無数の獰猛が英雄の鎧を食いちぎらんと一斉に襲いかかる。
――美菜……。
英雄は逃げ去り男の声。食われていく……牙という牙が栄光の残滓をさらい生身の肉がさらけ出されて噴き出すは黒に混じった赤。残すは噛んだままの右と頭部の黒だけだ、哀れな、朽ち果てた一介の人間が高き魔獣に下がっているだけで。男はぼんやりと薄れゆく幻視の世界を漂った……。瞼が重く、瑪瑙は閉じかけ、力は奪われて…………黒が意識を塗りつぶし……、が。
暗黒の世界で、導火線が活きていた、自身を葬るものか、宿敵を葬るものか、おそらくは! 幻視は英雄の頭部を導き出していた、英雄自身それを眺めているだけで。衝動や戦闘本能ではない、願望のような巨大な何かが流れた、残っているのかも分からぬ肉の器へと……。
最後の願いが頭部へと流れ込ませた、英雄の全身、イメージだけが武器で……いざ、叩き込まん!
――カリスブレード!
英雄の全身の黒、刃となって荒れ狂う巨像を上から下へ。絶叫が双方へ分かれて真っ二つ、巨大な宿敵が続けざまに倒壊していた。ドロドロに溶けていく黒の断末魔、破損だらけの男の肉、会場のざわめきだけが残された。