クイーン・オブ・スポーツ 第2幕
第2幕
一週間後、あたしは鎌倉にいた。北鎌倉駅に着くと、タクシーを捕まえ、そこからゆるい坂を上って15分あまり。高級住宅街の一角に鎌倉にそぐわない白い洋館の前に立つ。表札には高柳、とある。そう、詩織に会いに来た。あたしも詩織も捻挫が治るまで練習に参加できない。ベラトリックス・ガールズの攻撃の鍵はどう見てもあたしと詩織の連携にある。そこで詩織から招待を受けたことをきっかけに、徹底的にサッカー観をぶつけようと思ったのだ。
チャイムを鳴らす。古い教会の鐘のような音がして玄関が空くと詩織が出てきた。半そでの白いワンピースを着ている。サッカー選手の癖にスカートかよ、と突っ込むと、「私の家はジーパンも穿かせてくれないの」と詩織が笑う。木が絡み合ったような金属扉を開けると階段を上り玄関にたどり着く。捻挫が治りきっていないあたしは注意して上った。白い木製の玄関扉を開ける。お手伝いさんでもいるかと思ったが、そこにいたのはお上品なおばさんだった。温厚そうで一目で安心できた。美人だ。間違いなく詩織の母親だった。
「どうぞ、いらっしゃい。詩織と仲良くしてくれているようでありがとう」
仲良く? ぜんぜん仲なんか良くないぞ。
「今日はくつろいでいってね。すぐに飲み物とケーキをお持ちするから」
詩織について2階の部屋に案内される。すぐに出窓が目に付いた。なんだか判らない観葉植物が飾ってある。長毛種の猫がベッドの上に鎮座している。ヒマラヤンというらしい。尻尾と耳、足先が黒く、ほかは白い。学習机と本棚と壁に取り付けの衣装ケースがある。本棚を覗くとマンガなどは一冊もない。文学全集とか、サッカー雑誌しかない。
「あんた、いいとこのお嬢様でしょ? なんでサッカーやってるの?」
「小さいころはお人形遊びとかお絵かきが好きだったわ。部屋の中にばかりいた。それを両親が心配してチームスポーツをやらせようとしたの。サッカースクールに通っているうちに好きになって、小学生の頃はこの辺りには女子チームなんてなかったから男子に混じって少年団でやってたの」
コンコンとノックの音がして詩織の母親がドアを開ける。一目で高級茶葉だとわかるレモンティーとチーズケーキを持ってきた。レモンティーは金色に光っている。
「あ、お構いなく」
普段はこんな言葉使い、絶対にしないけど雰囲気に圧倒されて、思わず丁寧な口調になる。
「ヌワラエリヤというセイロン島のお茶なの。レモンティーには合ってるわ。じゃあ楽しんでいってね」と言い残し母親は下がる。
安心感とか温厚なところがこの母娘の共通項らしい。でもこういう雰囲気はサッカーにはそぐわない。
「なんとなく習い事みたいな感覚でサッカーやっていることはわかった。アメリカでは普通らしいけど、まさか日本でそんな子がいるとはねえ」
「桐原さんはどういう風にサッカーやってきたの? 」
詩織はピッチ外ではチームメイトを苗字プラスさん付けで呼ぶ。下級生に対しても同じだ。ベラトリックスでは下の名前呼び捨て推奨だから、最初は凄く抵抗があったらしい。
「父がサッカーやっていてその影響。ただ中学生になってからは反対されてる。女らしくないとか。言いたいことを言い過ぎる、とか女子がサッカーなんて野蛮とか」
「私はサッカーが野蛮だと思ったことはないわね。特にベラトリックスのサッカーは」
「そりゃ、あんたのように優雅なプレースタイルならね」
「でも私も結構大柄だし、当たり負けしないのが強みだし、スピードで強引に抜いたりとかするじゃない」?
「あたしはサッカーで成り上がりたい。勉強も得意だけどサッカーで推薦もらって、いい大学に入って、サッカーはなでしこリーグでプレーして、なでしこジャパンに入って海外でプレーしたい。あたしだけじゃない。ベラトリックス・ガールズのみんながなでしこリーグでプレーしたがっている。そのために来年はプリンセスに上がりたい。なのにあんたからは野心が感じられない」
「私は楽しくサッカーがしたいの。みんなにも楽しんで欲しい。だけど最近みんなギスギスしちゃって……」
「あんたがチームのエースなんだからみんなを引っ張って行かなきゃ。瑶子は天性のリーダーだけど、本当にいいチームは一人一人がキャプテンシーを発揮することだって松原監督が言ってた」
「私には無理よ」
「あんた、シュート撃たないでしょ。みんなが決めれば嬉しいとかじゃなくて、自分で責任を持って決めに行かないと勝てるものも勝てないし、本当の信頼も得られないんだよ」
「あなたは責任感が強いわね。本音を言うし、チームを引っ張る意識もある。だからあなたは信頼できる」
詩織は紅茶を軽く飲んで口を開く。
「自惚れているつもりはないけど私はプリンセスじゃなくてベラトリックスのトップチームにも技術では負けないと思うの。でも松原監督からはサッカー選手としての覚悟が足りないといわれているわ。みんなで楽しく、は子供のサッカーとも」
「じゃあ、あたしがシュートを撃てる形を作るから撃てよ」
「え? どうやって」
「深奏との決勝であんたが交代してあたしがポストプレーで潰れ役になる時間帯多かったじゃない。あたしは長野では下手くそな男子に混じってロングボールを追いかけて競るサッカーばかりやってたから、ポストプレーなんかやってなかったんだ。ベラトリックスはパスをつなぐサッカーだから、ポストプレーで味方が前を向く形をつく事が大事だと解ったんだ。梨奈の奴はひ弱だし、競り勝てないし、近くに味方がいないと何も出来ないけど、あたしとは共存できると思う。あたしはあんたにもどんどん落とすから遠慮なく撃ちなよ」
一気に言ってチーズケーキを口にする。もしかして手作り?フォークを不器用に使ってぽろぽろ皿にこぼしながら食べる。付き合うように詩織もフォークで丁寧にチーズケーキを小さく切り分け、口を小さく開けてお上品に食べる。
「あなたって凄いのね」
一拍考え込んで続きを口にする。
「ねえ、知ってる?サッカーはよくキング・オブ・スポーツって言われること。世界の大半の国でナンバーワン・オンリーワンスポーツだから。だとしたら、女子サッカーはクイーン・オブ・スポーツということになるわね。得点女王は英語ではクイーンではなく、トップ・スコアラーと言うのだけど、あなたなら本物の女王になれるかもしれない」
「それを言うならあんたこそ女王にならなきゃ」
「私には無理よ」
「無理と思った時点で本当に無理になるの。限界は超えてみれば限界でも何でもないから」
「そうね、あなたとなら限界を超えられるかもしれないわ」
「女王が二人でもいいじゃん。あたしはどれだけ失敗しても疎まれてもやり方を変えない。でもあんたもどんどん口を出せばいい」
「そうね。チーム全体には急にあれこれ言えないかも知れないけど。桐原さんにはどんどん言うことにするわ」
「希でいいよ」
「解ったわ。希さん」
「だ~か~ら、希。呼び捨てでいい」
「でも私、ピッチ外で人を呼び捨てにしたことないから」
「あたしがいいと言ってるんだからいいんだよ」
「じゃあ、そうさせてもらうわね」
レモンティーを飲み干した、天然パーマが肩を越えて背中にかかるその姿はやっぱりサッカー選手には見えなかった。
☆
翌週に入り、あたしと詩織はリハビリを開始した。慎重にストレッチしてから、みんなが練習するピッチの外で軽くジョギングして、上半身をリズムよく左右にひねる。既にみんなは関東大会に向けて気持ちを切り替えていた。関東から全国への枠は9枠。16チームを4つずつ4グループに分けてリーグ戦を行い2位以内に入れば、その時点で全国にいける。3位だと4チームによる9位決定トーナメント、俗に言う吸血(9決)トーナメントで2勝しなければいけない。
ピッチ内ではミニゲームをとめて松原監督が指示を出している。瑶子は下級生にアドバイスしている。意外にも瑶子は下級生には親切で慕われている。チームの団結を重んじる瑶子にとって、同学年は怒鳴ってまとめて、力の落ちる下級生は無理に要求して萎縮させない配慮があるのだろう。練習が再開すると、瑶子がミドルパスを出して中盤の底から起点になる。彩音に文句言われたのが相当堪えたのだろう。単に近くの味方にショートパスでつなぐだけの選手から脱皮しようとしている。
肩までの髪をかき上げ、富山コーチが守備陣に怒鳴る。基本的に松原監督のフォロー役で温厚な人だが、温厚なだけでは指導者は務まらない。よくしゃべり、どちらかというと寡黙な松原監督の代わりに説明することが多い。左サイドバックの香穂に積極的にオーバーラップするよう要求している。
詩織に代わって左の攻撃的ミッドフィールダーに入っている早紀が詩織ほど信頼できないから上がれなかったが、例えボールが出てこなくても呼び込むつもりで上がるよう言われている。そうでないと香穂の攻撃力が活かせない。それに早紀は右利きだから左サイドからクロスを上げるのは苦手だけど、香穂は左利きだ。トップスピードのまま左足でクロスを上げられる。
有紀も声を出して奈美をリードするようになっていた。167cmある奈美と違って、有紀はセンターバックとしての上背がない。だから奈美をうまく使ってカバーするようにしなければいけない。奈美は最初見たとき、これほど才能のあるセンターバックも珍しい、と思っていたけど気が弱いから、どうにか変わってほしいんだけど。
練習時間が終わり、梨奈や彩音がシュート練習を始めた。面白いようにサイドネットに決まる。キーパーの香苗も防ぎようのないシュートばかりだ。週末の関東大会初戦はあたしと詩織抜きでも楽勝かもしれないな、と思い始めた。
☆
制服が紺の標準服から白い夏服に変わっても、中学では相変わらずあたしは浮いていた。女子には人気のあるらしい山城とかいう色男は何かとちょっかいかけてくる。今日も昼に弁当を一人で食べてると、近寄ってくる。ちなみにベラトリックスから栄養指導は受けていて、バランスは母さんが計算している。
「ベラトリックス負けたらしいな」
「まだ予選の途中だから」
「お前、体育は得意なんだから、女子サッカーなんて野蛮なスポーツ止めて、もっとメジャーなスポーツにすれば?」
こいつは運動神経がないからスポーツが得意な女が嫌いなのだ。
球技大会では女子の種目にサッカーはなかったけど、あたしはバスケで目立っていたしな。バスケ部参加禁止ルールなら、あたしは無敵だ。
「女子サッカーほど世界でメジャーな女子スポーツはねえよ」
そこに気弱な相原園子が近づいてくる。
「あの……、私はスポーツしている希ちゃん、かっこいいと思う。絶対すごい選手になれるよ。スポーツのことよく分からないけど。頑張って有名になってね」
「フン、桐原みたいなのは女にモテるんだよな。でもタカラヅカじゃないし勘違いするなよ」
「でも希ちゃん、凛々しいじゃない。山城くんにも分からない? 」
「お前、言ってて恥ずかしくないか?」
「希ちゃん、下級生の女子には人気あるんだよ」
なぬ? こんな話初めて聞いたぞ。長野にいたときは男子に混じってサッカーやってたから、ものすごい嫉妬にさらされてたのに。
「希ちゃん、中間試験でも成績良かったし」
「オレほどじゃないけどな」
あたしはサッカーで高校に進学するから勉強はするけど成績には拘らないんだよ。海外でサッカーする上で大切な英語以外。
東京人って面倒くさ。中間試験も終わっていよいよ関東大会が始まるっていうのに。まあ初戦には間に合わないんだけど。無理すれば出られるが、ベラトリックス・ガールズはトップチームに人材を送り込む育成機関だから、怪我人に無理をさせない方針だ。
☆
6月に入り、関東予選が始まる。同じグループにはなでしこリーグ、および2部リーグのチャレンジリーグの下部組織、私立中学サッカー部と同居した。格から言ったらベラトリックスが一番上だけど、油断できる相手は一つもない。一番厳しい初戦がなでしこリーグの下部組織、大宮シャウト戦だ。駒沢公園の人工芝ピッチが会場だ。あたしと詩織はベンチ外。18人がベンチ入りできるので、ベラトリックスの残り14人は金網の外から声援を送ることになる。女子サッカーの応援はチャントと呼ばれる応援歌を歌いっぱなしが基本だ。
ウチは慎重に入ることにした。守備的ミッドフィールダーの瑶子と彩音もバランスを重視してあまり上がって攻撃しない。攻撃好きの彩音も自重している。攻撃的ミッドフィールダーの加奈も早紀も中に絞って適度な距離感で攻守にバランスが取れている。それに対し大宮シャウトは引き気味でカウンター狙いだ。ガチガチに引くのではなく、下がり過ぎない位置でブロックを作って守り、カウンターを仕掛ける作戦だ。
4チームでのリーグ戦を勝ち上がるためには、一番手ごわい大宮シャウト戦は引き分けで勝ち点1を分け合い、あたしと詩織が復帰する残り2試合を勝つのが一番頭のいいやり方だ。でもベラトリックス・ガールズは「勝つサッカー」を身上としている。育成機関として、いつでも攻撃的に戦う。無理にバランスを崩したりしないが、60分間で必ず勝負をつけに行く。
『オブラディ・オブラダ』で「東京の街の誇り、みんなの人気者。勝利を目指して走れ、ラララ、ベラトリックス・ガールズ」とチャントを歌いつつ、ベラトリックスが押すが、なかなかシュートを撃たせてもらえない。いつもはゴール前に居座る梨奈も思うところがあったらしく、引いて大宮シャウトのディフェンダーの前でドリブルを仕掛けたり、加奈や早紀とワンツーを仕掛けたりと動きに工夫をつけているが、最後は止められている。前半はこれといった収穫もなしに終わった。
ハーフタイムに松原監督が、このまま行け。どうせ相手はスタミナが切れてバテるから、などと指示を送っている。サッカーでは守勢のチームのほうが相手より走らなければいけない。深奏みたいにスタミナばかり強化しているチームならともかく、大宮シャウトもなでしこリーグの下部組織だ。育成重視で走りこみはそれほどしてないはず。でも隣を見ると詩織の表情が曇っている。小声で聞いてみる。
「詩織、何か気にかかることでもあるのか? 」
「ええ、ウチが負けるときっていつもこういう感じだから」
「押してるじゃん」
「相手は闇雲に走っているわけじゃなくて、バランスを保って運動量を最小限にとどめているわ。ウチは後半必ず勝ちに行くことくらい、お互い知りつくしている相手だから、シャウトもわかっている。私たちのサイドバックがどんどん上がるようになると、裏を狙ってくる。これがシャウトの勝ちパターンよ」
果たして後半、ウチは右サイドバックの碧と左サイドバックの香穂がどんどん上がるようになった。攻撃的ミッドフィルダーの加奈と早紀も味方を使えている。詩織の杞憂かと思い始めた後半15分、大宮シャウトは両サイドーハーフを2人とも交代してきた。どちらも俊足だ。碧は守備が弱い。香穂は2年生だからスタミナが足りず、攻撃参加したあとの戻りが遅い。次々にカウンターを受け始めた。そして24分、碧の右サイドが破られ、必死にカバーする奈美の前でクロスをあげられ、小柄な有紀がヘディングで競り負けた。失点。そして結局これが決勝点になった。
泣きじゃくる碧。瑶子が肩を抱いて慰める。マイペースな彩音も茶髪をしきりにかき上げ、憮然としている。深奏と違って同格の相手に力も発揮した上での負け。口論は起きず、ただ自分たちの力不足に唖然としている。
☆
ベラトリックスは試合翌日の月曜が休みになっている。学校では園子が結果を聞いてきた。率直に結果を告げる。クラスの女子が「驕れる者は久しからず、だね」と皮肉を言う。でもあたしは一向に堪えていなかった。弱小中学サッカー部出身だから負けには慣れているし、サッカーは常に番狂わせと隣り合わせのスポーツ。ましてや大宮シャウトは強いチームだった。
「何もしてない奴が努力している人間を冷笑するのか? そんな足の引っ張り合いにはつきあってられんわ」
「大口叩いておいて負けるなんて無様ね」
「言霊って言葉あるだろ。言ったことは実現するし、何も言わないと何も実現しないんだよ。あんたらってじぶんがやりたいことないの? 高校受験すら適当に考えてる感じだけど」
「やりたいことは高校でじっくり考えればいいの。あんたみたいにダサいジャージ女に言われたくないわ」
相変わらずあたしはクラスで浮いていた。
火曜からあたしと詩織が練習に本格的に復帰した。チームメイトは詩織があたしを呼び捨てにして大声で指示を出すのに唖然としている。詩織はほかのチームメイトもピッチ内は呼び捨てだけど、大声を張り上げることはなかったのに。
そして落ち込んでいる対面の碧を容赦なくドリブルで抜き、あたしや梨奈に決定的なパスを出す。中央に入り、あたしに当てて跳ね返りをシュートする。この日の守備陣は受難だっただろう。仮にもベラトリックス・ガールズのレギュラーを張る実力者という自負はあったろうに。
そして全体練習後、詩織はあたしに付き合ってくれと要求して、自分のシュート練習を始めた。ゴール前のあたしにパスを出してポストに使ってダッシュして左足シュート。正確にサイドネットにズバズバ決まる。ベラトリックス・ガールズには得点力のある選手が揃っている。それも詩織がシュートしなかった原因の一つだったが、吹っ切れたようだ。20分間シュート練習を続けて、富山コーチに疲れを引きずるから止めるよう言われた。
練習後、松原監督が近寄ってきた。
「詩織と何かあったの?」
「ええ、まあ」
「急にリーダーシップを発揮するようになったのはあなたが何か言ったわね」
「中心選手が黙っていちゃいけないでしょう」
「本当なら4月から詩織をプリンセスに上げるという話もあったの。でもいつまでも末っ子みたいに周りについていくだけではこの先やっていけないでしょう? だからガールズに残らせたの。希とはお互いいい影響を与えそうね」
「あたしもプリンセスに上げてくださいよ。もうベラトリックスの細かくつなぐサッカーには慣れたんだし」
「希も詩織もまだ足りないわ。試合で結果を残すことよ。チームを勝たせなきゃ、いい選手とはいえないわ」
「じゃあとりあえず週末の試合に勝って全国に行きますよ。次の追浜シーウルブスは大宮シャウトほど強くないんでしょう?チャレンジリーグの下部組織だし」
「関東を舐めてると痛い目に合うわよ。まずは梨奈と共存してみせなさい」
「はい、分かりました」
その週の練習はポストプレーを重点的にやってみた。梨奈に点を取らせるアシスト役になるのは面白くないけど、長身フォワードならどのみち身に着けなければならないプレーだ。それに今は詩織に点を取らせなきゃいけない。チーム全体に活気が戻ってきた。あたしもやっとチームメイトに認められた気がしていた。しかしそれは気のせいだったのだ。
☆
土曜日は朝から雨だった。試合会場も土のグラウンドでボールが走らず、パスがつながらない。もちろんベラトリックス・ガールズの練習場も土なので、雨のピッチにも慣れている。何より、ベラトリックスにはあたしという、パワーでは誰にも負けない点取り屋がいる。追浜シーウルブズも体格のいい選手は何人かいたが、あたしほどじゃない。
試合前のミーティングで松原監督は、
「グラウンダーのパスに拘らず、どんどん浮き球を使いなさい。狭い局面での勝負ならウチのほうが絶対上よ」
と指示を出す。
試合が始まると追浜シーウルブズのキック力が目立つ。ボールを蹴る音がウチとぜんぜん違う。低く鋭いパスは雨にぬかるんだピッチをものともしない。一方ベラトリックスはお洒落な彩音が泥んこになるのを嫌い、突っ立ったままプレーし、無難なパスばかり出す。ベラトリックスの闘将・瑶子がむしろ前に出て攻撃に絡む。ただテクニックがないので、いいところでミスばっかりしている。
こういうときは長身で足元でキープできるあたしに預けるのが基本だが、ボールが来ない。詩織も下がって組み立てに参加して、香穂のオーバーラップを引き出せない。いつもとは逆にベラトリックスのほうがパスを回され、走らされて前半が終わった。ピッチ上には水が浮いている。
ハーフタイムで松原監督が激怒した。
「サッカーで泥まみれになるのを怖がってどうするの? アタッカーで泥んこになってるの、希だけじゃない!相手はみんな泥んこになってる。こういうゲームだと、必死に戦ったほうが勝つのがサッカーというものよ。1週間の練習成果を見せなさい」
後半開始。いきなり碧が右サイドをオーバーラップし、クロスを上げる。逆サイドで頭から飛び込んだのは詩織だった。わずかに届かず。でも顔が泥まみれになってる。このプレーでウチに勢いがついた。瑶子のパスを受けてペナルティエリア内であたしがキープし、梨奈がシュート、これは相手キーパーにセーブされた。
追浜シーウルブズも負けていない。ウチのサイドバックの上がったスペースにボールを出し、そこに走りこんだ選手から低く鋭いクロスが何度も合いそうになる。また激しいチャージでベラトリックスの自由を奪う。チーム全体としてはパワーでは追浜シーウルブズのほうが上だ。
一進一退の攻防が続いた後半15分過ぎ、ハーフウェイライン付近で詩織が激しいチャージでボールを奪い、ドリブル開始。それもただのドリブルではない。水が浮いているピッチで地上にボールを転がすドリブルは困難だ。なんとリフティングでボールを浮かせながらトップスピードに乗って加速し、必死に追いすがるボールを奪われた追浜シーウルブズの選手を引き離す。観たこともないようなスーパープレー!ペナルティエリア内に進入したところで無理なスライディングタックルを仕掛けた追浜シーウルブズの足が引っかかり、ペナルティ・キックを得た。
ペナルティ・キックは、大抵それを得た選手か、精神力があってチームで最も信頼され、外してもチームメイトが納得する選手が蹴る。9割がた成功するペナルティ・キックを外せばショックは絶大だからだ。ベラトリックスなら詩織か瑶子ということになる。でもあたしが進み出た。
「あたしが蹴る」
キックの精度も精神力も自信がある。しかし瑶子が近寄ってきた。
「なんであんたよ。でしゃばるなよ。私が蹴る」
「あんた、今日ミスばっかりじゃない。キックの精度もないんだからすっこんでろ」
険悪な空気が流れる。詩織が仲裁に入る。
「希ならタフだし、みんな信じないかもしれないけど、責任感もあるのよ。ここは任せましょう」
本来キッカーの資格がある詩織の発言だけに、瑶子も渋々引き下がる。
ペナルティ・エリア内はあたしと追浜シーウルブズのキーパーだけになった。あたしはボールをペナルティ・スポットにセットし、真後ろに7歩下がって、それから左に3歩移動する。狙うは得意のゴール左上。キーパーが絶対防げないコースだ。
助走に入り、蹴る直前キーパーは反対側に飛ぶのも見えた。その瞬間、わずかに軸足が滑り、ボールが浮いた!左上のバーを叩いた。カーンと高い音が鳴り、跳ね返ったボールを追浜シーウルブズがクリアした。ペナルティ・キック失敗!
こんなことでしょげるあたしではない。しかしベラトリックスの士気は明らかに下がった。外様がでしゃばった挙句失敗したからな。
そして終盤、追浜シーウルブズのサイド攻撃がついに実る。実ってしまった。香穂の裏のスペースから右クロス、これに滑り込んだフォワードがスライディングシュート、決まって先制された。これが決勝点になり、ベラトリックスは痛恨の2敗目を喫した。
あたし以外はみんな泣いていた。あたしを責める余裕すらない。それが心に重くのしかかった。
彩音は
「みんなゴメン。私が頑張らなかったせいで……、ひっく」
瑶子も
「私がミスばかりしたせいで……ううっ」
松原監督は黙っていた。この人は結構放任主義だから。でもこんなに突き放して冷たくないか?
4チームのリーグ戦で上位2チームが2勝、下位2チームが2敗なので、この時点で上位2位以内はなくなった。翌日曜日にグループ最弱と思われる、聖倉中に勝って吸血トーナメントに臨むしかなくなった。聖倉中は追浜シーウルブズに0❘3負け、大宮シャウトには0❘4負けなので、得失点差の関係で聖倉中には引き分けでもいいが、名門ベラトリックスのプライドにかけて、勝つしかない。